願わくは
「話してくれて、ありがとう」
はい、とマフラーの口元を少し引き下げて答える果奈の声は、自分でもわかるほど少し震えていた。
「……面白くない話で、申し訳ありません」
「ううん、聞けて嬉しかったよ」
静かに、穏やかにそう言ってくれたから。
胸の重みはほんの少し、そっとため息を吐けるだけ軽くなった気がした。
すると目を細めていた鬼嶋が「ああそうだ」と何かに気付いてポケットを探る。
「いまじゃないって気もするんだけど、これ。好みじゃなかったらごめん」
どうぞ、と差し出された小さな包み。
先ほどのマルシェで買ったのだろう、葡萄を模したイヤリングだった。濃淡の違う紫のビーズを連ねているので本物の小さな葡萄の一房のように見える、可愛らしいけれど、甘すぎないデザインのものだ。
(これは……)
課長が着けられるんですか、なんてボケられるほど馬鹿ではないつもりだ。
それでも、困惑した。鬼嶋がここまでしてくれる理由がわからなかったからだ。
「申し訳ないとかもらえないって思うなら、次に出かけたとき、俺の飲み物代をもってほしい」
その言葉の意味するところを理解したとき。
次の機会なんてないだろうと言うことができたはずなのに、果奈はそうしなかった。
彼の手の中にあるものを、欲しい、と欲深く思ってしまったからだった。
「……お気に召すような店を、知りません」
「俺は行ってみたいところがあるから、付き合って」
小さな抵抗を軽々といなされてないと行動できない自分が、面倒で嫌になる。
手の感触を確かめるように何度か拳を握ってから、そっと手を伸ばした。
「はい。……ありがとうございます。ちょうだいします」
小さな、手作りのイヤリング。
けれどその価値は決して、軽くはない。
(……ん?)
しかし受け取ってみて、気付く。
包みが、何故か二つある。葡萄のイヤリングと、同じサイズの包みがもう一つ。
「…………カレーパン」
さくさくの衣の質感までリアルに再現された、カレーパンのミニチュアがぶら下がるイヤリングだった。しかも片方はかじられた形で、中身のカレーが見えている。
個性的すぎる二つ目の贈り物を前に果奈が呆然としていると、いやあ、と鬼嶋が照れくさそうに頬を掻く。
「こういうデザインのアクセサリーがあるんだって初めて知って、面白くなっちゃって、つい」
つい、で買うものじゃないだろうとか、上品な葡萄のイヤリングの後にこれなのか、他のデザインもあっただろうに何故よく見ないとわからなさそうなカレーパンなのかとか、色々考えたけれどそれよりも早く、ふっ、と果奈の震える口元から息が吹きこぼれる方が早かった。
「美味しそうなカレーパンですね」
ふ、と鬼嶋も笑みをこぼす。
「一番美味しそうなやつを選んだからね」
人形でもなければお腹を満たすことができないサイズだが、それが可愛らしくて、おかしい。「こちらもいただいて……」「どうぞいただいてください」とやりとりして、落とすことのないよう鞄の奥にしっかり仕舞う。
そのとき、光ったスマホが数秒鞄の中を明るく照らした。ちょうどメッセージを受信したところだったようだ。
「どうかした?」
「綾子さんからメッセージが来ました」
げ、と鬼嶋が顔を引きつらせて自分のスマホを探る。果奈がメッセージを確認する間に「うわあ……」と声が聞こえたから、彼にも綾子から連絡が入っていたのだろう。
『果奈ちゃん、お疲れ様。休日におつかいを頼んでごめんなさい。
よかったらお家に帰る前にこっちに寄ってもらえる? 今日届いた両親からの仕送りに果奈ちゃん宛のものが入っていたから持って帰ってほしいの』
(……どういう状況?)
おつかいを完遂した報告をしようと思っていたので家に立ち寄るのは構わないのだが、状況がよくわからない文章がある。しかし何度読み返しても、鬼嶋と綾子の両親が果奈宛に荷物を送っているとしか読めない。
「鬼嶋課長、お聞きしたいことがあるのですが……、課長?」
関係者に確かめた方が早いと呼びかけたとき、鬼嶋はものすごい顔でスマホを画面を睨みつけていた。
「……他人事だと思って……」
いまにも舌打ちしそうな凶悪顔は、しかし美しいせいで非常に絵になってしまう。果奈の視線に気付いても眉間の皺は刻み込まれたままで、爽やかな微笑みは珍しく複雑で微妙だ。
「ごめん、綾子が腹立つことを書いて送ってきたから。それで、聞きたいことって?」
綾子のメッセージを抜粋する形で説明すると、ああなんだ、と鬼嶋はこともなげに言った。
「綾子の食事作りをお願いすることになった後に両親に報告したからね。実家に帰らないなら近況報告は欠かさないっていう約束もあって、君のひととなりとか何を作ってもらったとか話して聞かせてる」
「初耳です」
「初めて話したからじゃないかな」
綾子と鬼嶋の両親への報告は妥当なものだと思う。お腹に命を抱えている女性に差し伸べられる手は多い方がいいし、安全面を考慮して第三者である果奈が関わっていることを知らせるのは当たり前だ。
「心配しなくてもいいところしか言っていないよ? というより悪く言うところがないからね」
(ハードルを上げないでいただきたい)
しかし彼らにかかると、想像上の果奈が綾子のような完全無欠の美女にされてしまうと感じるのは、決して気のせいではないだろう。たとえ顔を合わせることがなくても騙しているような気分になって、大変いたたまれない。
しかし鬼嶋も綾子も好意かつ善意で言ってくれていることを思うと、何を言うこともできなかった。訂正する機会もなさそうだと諦めて瞑目したとき「そういえば」と鬼嶋が言った。
「その呼び方って、何かこだわりがあってやってる? それとも無意識?」
「呼び方ですか」
「オフでも課長って呼ぶから」
果奈は瞬きをした。こだわりも何も、課長職に就いている人をそう呼んでいるだけの常識的行動だ。
ぴんときていない果奈に、鬼嶋はくすりとした。
「社内では仕方ないと思うけど、課長らしいことをしろって言われている気がするから、正直に言って名前呼びの方が気楽でいい」
そこで思い出したことがあった。
「それ、岬さんにも言いましたか」
鬼嶋はあっさりと「言ったね」と首肯した。
「こういう言い方はしなかったけれど、面談のときに、課長らしいことができていなくて申し訳ない、平社員だった方が気楽だったって話をした。……そういえば、その後から『鬼嶋さん』って呼ばれるようになったな」
なるほど、それであの勝ち誇ったような『鬼嶋さん(・・)』呼びかと合点がいった。何を誇ることがあるのかと不思議だったので、謎が解けてすっきりした。
「……面談の後に何か言われた? 時と場所を考えろって注意したんだけど」
すうっと目を細めて上司の顔に変貌し始めた鬼嶋に「ご心配には及びません」と首を振る。
「ワークブースに行くよう岬さんに声をかけられただけです。課長を『鬼嶋さん』と呼んだことに違和感を覚えましたが、何かあったわけではありません」
すると鬼嶋は、何故かちょっと微妙な顔をした。
「……尾田課長が言うみたいに厳しくした方がいいかな」
岬愛美が特殊な部類だと思うが舐められているのは間違いなさそうだ。だがあえて果奈はノーコメントを貫いた。仕事における鬼嶋の姿勢がどうあれ、果奈は果奈の仕事をするだけだ。
「まあともかく、気が向いたら課長呼び以外でお願い」
「はあ……」
岬からそう呼ばれるのが嫌だという話をしていたのではなかったのか、と思いなが果奈は曖昧に返事をした。けれどそのうち昇進した彼を部長と呼ぶことはあっても、鬼嶋さんと呼びかけることはあり得ない。
そんな取り止めのない話をしているうちに、果奈の胸に凝っていた黒々としたものはいつの間にかすっかり小さくなっていて、平然と呼吸ができるようになっていた。
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