多分仕事じゃない1
「行こうか。ご馳走様でした、ありがとう」
「はい。ご馳走様でした」
事前に買い物袋を分けていたうち、綾子のおつかいと鬼嶋の分の荷物を託し、果奈はドアを開けた。先に通るよう彼を促すのは社会人になってから染み付いた週間だ。
「またのお越しをお待ちしております」
はああイケメンだなあ! といまにも声に出しそうな学生と思しき男性店員と、店中の女性店員と思っても恐らく大きな間違いではなかろう「ありがとうございましたぁ!」の唱和を聞きつつ、店を出た。
暖房がよく効いていた店内よりも外気は冷たかったが、雲が晴れたらしく、入店を待っていたときよりも暖かくなっている。
「岩田さんはもしかして西の方の出身なの?」
思いがけないことを尋ねられて首を振る。
「いいえ。何故ですか?」
「お店で食事をしてお会計をした後に『ご馳走様』って言うのは西の人に多いらしいから。俺と綾子はこっちで育ったけど、俺の両親はどっちも西の出身だから言うのが当たり前になってるんだよね。だから岩田さんもそうなのかなあと」
言わないものだろうか、と様々なシチュエーションを思い出してみるが、よくわからなかった。ただそうなった原因には心当たりがある。
「でしたら私も祖母の影響です。西の人で、しばらく一緒に暮らしていたので気付かないうちに習慣づいていたのかもしれません」
「へえ、お祖母様か」とごく自然に飛び出した敬称にちょっとびっくりした。それなりに社会経験を積んだだけではない、日常的にそう呼んでいる感じだ。
「どんな方? いまもお元気なのかな」
「元気すぎてそろそろ落ち着いてほしいと思うくらいには元気です。早くに祖父を亡くしてからずっと田舎の広い家に一人暮らしをしていて、ご近所の方々とよくカラオケだのボーリングだの旅行だのと楽しく過ごしているようです」
「アクティブな人なんだ」
果奈は頷いた。歳を取れば取るほど活動的になっていくような気がする祖母なのだ。
そういえば実家の母の、年末年始は帰ってくるのか、おばあちゃんの家にはどうやって行くのかを尋ねるメッセージに返信し損ねている。山村のメッセージの受信のせいでリストの下方に追いやられてしまっていてすっかり忘れていた。
「どうしたの?」
「あ、いえ。……お盆とお正月と誕生日には必ず祖母を訪ねるので、帰省をどうするのか実家から連絡がきていたことを思い出しました」
メッセージに返信しないと電話がかかってきてしまうので、今日明日には連絡しておいた方がよさそうだ。果奈が愛想がなければないほど、母からの電話はお小言ばかりの長電話になる傾向がある。
「まめに帰る方なんだね。俺は全然。両親はこっちの家を処分して、自分たちに都合のいい西の方に越しちゃったから、帰っても『帰ってきた』って感じが全然しないんだ。それもあって綾子は里帰り出産しないってごねたんだよね……」
そのせいで実姉と同居する羽目になった三十歳の弟、鬼嶋輝は当時のことを思い出してか遠い目をした。ぼんやりと想像しただけで、綾子の主張に口を挟むことができなかった鬼嶋が唯々諾々と従わせられている様子が浮かぶ。
(仲、いいよな。どんなにきょうだい仲が良くても大人になったら疎遠になるっていうけど)
まかないの仕事をしていてわかるのは、綾子に逆らえないといっても鬼嶋は著しく我慢を強いられているわけではないらしいということだ。なんだかんだいって綾子は家主の鬼嶋に配慮して、二人ともが互いのパーソナルスペースを正しく理解して生活しているのだろう。
そういう、パズルのピースがぴたりとはまったような、調和の取れた関係を眺めていると、なんだかほっとする。自分自身のバランスの取れていないところを埋めてもらっているような気がするのだ。
「赤ちゃん、楽しみですね」
「うん。でも、手伝えって言われてミルクをあげたりおむつを換えたりしている未来しか浮かばない」
「…………」
だめだ、笑うな。思い浮かべたその光景をいますぐ消し去れ。
無になろうと懸命に耐えたというのに、鬼嶋がそれを台無しにする。
「そして散歩に連れて行った先で知り合いに会って『いつご結婚されていたんですか!?』って問い詰められるんだ。漫画かドラマみたいに」
「んっ、ふ」
しまった、吹き出してしまった。
あまりに納得のシチュエーションすぎて、お約束から逃げられないと鬼嶋が理解しているのがおかしくて、耐えられなかった。
努力して声を殺したというのに。
「いま、笑った?」
鬼嶋に問われ、背けていた顔を元の位置に戻して答える。
「いいえ」
まさか上司を笑うはずがありませんという『無愛想クイーン』の名に恥じぬ無表情を、さあご覧くださいと鬼嶋に向ける。
すると鬼嶋はつくづくと果奈を見返して、ふ、と唇の端を持ち上げた。
「岩田さんの嘘つき」
その瞬間。
は、っとそこにあるすべてのものが眩く光り輝いた。
「ああ、あれがマルシェかな?」
けれど気付いたときには元通り、真昼の秋の公園の景色が広がっている。
(いま視界が……世界のコントラストがいきなり高くなったような……?)
瞬きをして目を軽く擦ってみるが、特に問題はないようだ。日差しが目に差し込んできたか、光の加減で鬼嶋の美しい顔がより神がかって見えたのだろう。
それはともかく、鬼嶋が示した先には催し物でよく見るイベント用テントの群れと、BGMにしているらしい有線放送の音楽が流れている。屋台も出ているらしく胃袋を刺激する香りが漂っていて、この公園内にいくつかある大勢の人が集まるスポットの一つなのは間違いない。
(揚げ物と肉、ガーリックに……ソースの匂いもするか……?)
すぐそこに屋台の定番が揃っている気配がする。身体が勝手にそわついて、これは、よろしくない。
「……さっき大きなパフェを食べておいて何なんだけどさ……」
だが鬼嶋の呟きに果奈は反射的に頷いていた。
「塩気が欲しい」
「まさしく」
果奈とてBLTサンドイッチを食べておいて、匂いから連想したフライドポテト、フライドチキン、フランクフルト、たこ焼きもしくは焼きそばへの恋しさが抑え切れない。
吸い込まれるようにマルシェに足を踏み入れる。入り口でスタッフから受け取ったパンフレットによれば、広場は大きく二つの区画に分かれている。生産者が食材や保存食などを売る販売スペースと、当地で作られた食材を使ったり近隣の飲食店が出張したりして料理を提供する屋台スペースだ。
「一旦解散して、好きに見て回ろうか。広場から出なければ合流も難しくないだろうし」
「承知しました」
何かあったらスマホで連絡を、と確認して分かれる。
一人になりたかったのか気を使われたのかはわからないけれど、慣れない相手と外出していて単独行動が許されるタイミングは休憩時間と同じだ。離れてみると想像以上に緊張していたようで、ふうっと大きな吐息とともに肩まわりから力が抜ける。
(仕事のときと同じで、ずっと見ているんじゃなくてちょっと距離を置いてくれるのが鬼嶋課長のいいところだよな)
ずっとべったりくっついて行動するようなら、たとえ鬼嶋であっても鬱陶しく感じてしまったかもしれない。本当に、あらゆるものの程よさを心得ている人だと思う。
鬼嶋は奥の方に歩いて行った。何を見に行ったのだろうか。
(後で聞いたら、きっと教えてくれる)
聞いてみたいからそうしようと思い、果奈は鬼嶋とは逆に、入り口側から順に回ることにした。
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