仕事なのかデートなのか3

 果奈がざっくりと巻きつけたマフラーを整えて、鬼嶋はかすかに笑う。


「親切だとか優しいとか、よく人を見ているなんて言われるけれど、その分きついと感じることも多いんだ。この人いま苛々しているなあとか、その作業を早く終わらせないと後で自分も困るよなとか。――褒めそやしてくれるのは好感度を上げたり便利に使ったりするためなんだろうな、とか」


 笑みを含みながら、刺のついた氷柱のような言葉だった。

 そして鬼嶋は口にした決して優しいものでないと自覚している寂しい微笑みを浮かべている。


「結果的に親切だったり優しく見えたりするだけで、お腹の中はこんな感じだから、ふと我に返ったとき自己嫌悪で死にそうになる。その後『死なないけど』と思うまでがワンセットで」

「…………」

「つまり俺はめちゃくちゃ臆病なんだ。へらへら笑って、ふわふわとその場その場で自分を取り繕いながら、ぼんやり生きていく。器用だと言われそうだけど、それ以外取り柄がないんだと思うと、結構、辛い」


 辛い。

 鬼嶋輝という人に似つかわしくない言葉、だからこそ根深いものだとわかってしまった。


 眉を寄せると果奈の生まれつき怖い顔が意図せずますます固くて厳しいものになる。それを宥めるような優しい笑みは、鬼嶋に言わせるとこの場に合わせたものなのだろう。


 順番待ちの列が動いて、何歩か進む。壁と木々のおかげで先ほどより直接風を受けない位置で、心地よい日差しが木漏れ日を透かしている。


(恵まれた人の悩み、って言うのは容易いけれど)


 譲れないものが特になくて、自分よりも他人や周囲との調和を優先するのが当たり前で、不満や不機嫌を表に出すことができなくて常に笑顔でいてしまう。

 確かにそれは臆病だからだと言えるかもしれないけれど。


「つまり『優しい』ということですね」


 ぱちっ、と鬼嶋が大きく瞬きをした。

 目を見張った絶世の美丈夫はびっくりするくらいあどけない。だから的外れなことを言ってしまったのかと焦る。


「裏表があったとしても本心を表に出さないのは、周囲を気遣っているからなのではありませんか。その情の細やかさを、優しさというのだと思います」


 見せかけの優しさがどういうものか、果奈は知っている。

 本当に嫌われたくない人は誰に対してもいい顔をするし、見返りがなければ態度に出すし、利益のある相手だけを重んじたり、面倒ごとに巻き込まれないよう口先ばかりで行動を起こすことはない。


 鬼嶋とは正反対。

 だから、彼は本当に優しい人なのだ。


「……表に出す勇気がないからだよ」

「でしたら鬼嶋課長もごくごく普通のお人だったということでしょう」


 本音ばかり曝け出すよりも胸に収める人間の割合の方が多かろう。

 その点で言えば、鬼嶋はあやしでも普通の人間と変わらないのだ。むしろ人間である果奈よりも上手く世渡りしていると言える。

 なんてことを思っていた、次の瞬間だった。


「……ふ、は。あは、はははは!」


 突然鬼嶋が笑い出した。高らかに響き渡る笑い声に、前からも後ろからも視線が集まり、そこでぴたりと縫い止められていく。


(う、みんな鬼嶋課長を見ている)


 頼むからスマホで隠し撮りなんかは止めてくれ、とトラブルにならないことを切に祈っていたそこに、鬼嶋がそっと身を屈め、笑いの残る明るい声で果奈の耳元で囁いた。


「俺はあやしだけど、普通の人かな?」


 しまった、明らかに失言だった。

 あやしの中には誰もが知っている高名なあやかしの子孫がいて、様々な場所で先祖代々の権威を振るっており、彼らは自らの血筋に誇りを持っているという。

 複数のあやかしを受け入れたのが鬼嶋の家だと聞いたことを思い出し、果奈は震え上がった。彼の血筋にとてつもなく有名なあやかしがいたら、普通の人発言は無礼にも程がある。


「も、申し訳ありません、わきまえない発言でした!」


 頭を下げたいのに、こんなときに限って列が動く。昼食のちょうどいい時間に入店した客が時間制限を迎えたり食事を終えたりして次々に帰っていき、ついに果奈たちの順番がきてしまった。


「にっ、二名様ですね!? ご案内いたします! あっメニューお預かりしますっ」

「ですが決して課長を貶める意図はありませんし、かといって特別だという意味でもなく」


 どうやらすでに店員間で噂になっていたらしい鬼嶋を迎えて緊張しているホールスタッフの後に続きながら、果奈は早口に言う。


「こちらのお席をご利用くださいっ」

「人は誰しも『特別』なところと『普通』の部分を併せ持っていると思っていて」

「うんうん、わかったから前を見て歩こうか。危ないよ」


 的確に言い表すことができずに無意味に捲し立てていると、次の瞬間椅子の背もたれがお腹に食い込んで「うっ」と呻いた。よろけた果奈を支える手を伸ばしている鬼嶋はまだくすくすと笑っている。


「ごめん、注意が遅かったね。大丈夫?」

「大丈夫です……お、奥の席に、どうぞ……」


 窓に背を向ける奥側を鬼嶋に譲り、果奈は通路側の席に着く。上着を脱いで荷物を足元のバスケットに入れたところで、先ほどとは別の店員がお冷やとおしぼりを手に戻ってきた。


「ご、ご注文はお決まりですか?」

「はい。季節のパフェと……」

「BLTサンドイッチをランチセットで。飲み物はレモンソーダ。追加で葡萄のパンナコッタをお願いします。飲み物とデザートはお料理と一緒に持ってきてもらって大丈夫です」


 おおよそ尋ねられることを事前に伝えたというのに、店員はぼうっと鬼嶋を見ている。注文を聞いておいてそれはないだろうと果奈は呆れ、苦笑した鬼嶋は立ち尽くしている店員に声をかけた。


「注文はこれで全部なんですけど、大丈夫ですか?」

「……え? え、あ、えっと……!」


 どうやら完全に右から左に聞き流していたらしい。ため息混じりに果奈が注文を繰り返そうとすると、しっかり記憶していた鬼嶋が伝えてくれて事なきを得た。


「お聞きしたいんですが、テイクアウトの商品をここで注文することは可能ですか?」

「申し訳ありません、お持ち帰りの商品はお会計が別になるので……」


 会計は別だが、好きに見て回って買い物をしても問題ないそうだ。注文も完了したことだし、と果奈は財布とスマホをパーカーのポケットに押し込んだ。


「いまのうちに綾子さんに頼まれたものを買ってきます。課長はご入用なものはございますか?」


「それなら俺が」と言うのに「私は明日のお弁当にできるものを買うので」とこだわりがあることを暗に示して断る。


「それじゃあ、岩田さんと同じものを一つずつお願いできる?」

「かしこまりました」


 テイクアウトのみの利用にも、店の外に入店待ちの列ができている。先ほどよりはましだと思っていたが、思ったよりも回転が早く、並んで十分くらい経つと順番が来た。


 綾子に頼まれたのは、イチゴのタルト。オレンジのジュレ。ショコラオレンジのムースだ。


(……このおつかいって、やっぱり口実だったんだろうか)


 頑なな態度を取った果奈に、綾子はきっと物申したかったと思う。だがそれをしない代わりにこのおつかいを頼んだのだとしたら、この一日は無意味に終わるはずがない。そう思わせるのが、あやしである綾子の底知れないところだった。


(まあ、いいや。早く買って戻らないと)


 明日のお弁当用のローストビーフサンドと、少し悩んで本日の夜食としてバナナクリームコッペパンを二つずつ。会計をして席に戻ると、そこに料理がやってきた。

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