仕事なのかデートなのか2

「いらっしゃいま、せ、……」


 にこやかに告げた女性店員の笑顔が、固まった。

 列前方から順に繰り返していたテンプレートの台詞を最後まで言い切ることができなかったのは、ひとえに眼前の客が美しかったからだろう。

 ぽかんと鬼嶋を凝視していた店員はみるみる真っ赤になったかと思うと、まるで意識を失ったかのようにその場から動かなくなってしまった。


(……メニューが欲しいんだけどな)


 呆然とする店員の腕に抱え込まれたメニュー表を見つめて、果奈は覚悟を決めた。


「あの」

「大丈夫ですか? 気分が優れないなら、お店の方を呼んできましょうか?」


 催促する嫌な客になるが、諦めよう。

 心配そうな声を心がけたものの、わざとらしい猫撫で声になってしまって、逆に不機嫌さが二倍増しになった気がする。

 案の定、超絶美形に目が眩んでいた店員はその傍らの女の強面に気付いて、みるみるうちに顔色を赤から青に変えて竦み上がってしまった。仕方のないことなので『普通』を心がけて話を続ける。


「二名客です。メニューをください」


 早く仕事に戻ってほしい、ただでさえ長時間待たされている後列の人の反感を買いたくない、と思ったことが圧になったのだろうか、店員は慌てた様子でメニュー表を差し出した。それが果奈ではなく鬼嶋に渡されるのは予想済みだ。

 伝票に客数を書き込んだ店員だが、心ここにあらずなのは明らかだった。次のグループ客に移ったものの、視線は鬼嶋に引き寄せられているし、言い慣れているはずの接客台詞はしどろもどろで、まったく仕事に集中できていない。


(鑑賞の邪魔をして悪いんだけど、ここは社会人として節度ある態度で接してくれ)


 なんて、言える自分ではないけれど。食事をするだけでこれだと、鬼嶋の日頃の苦労が忍ばれる。いまは場数を踏んでいても、十代の頃や学生の時分は相当苦労したに違いない。


(……ん?)


 何か言う声が聞こえた気がして、背の高い彼を見上げる。


「何か仰いましたか?」

「……ごめんね」


 果奈は訝しく首を傾げた。謝罪の理由を考えてみたが、まったく心当たりがない。


「謝罪をいただかなければならないようなことがありましたか」


 うん、と答えたのか唸ったのか微妙な反応をして、鬼嶋は果奈にメニュー表を渡してくる。


 ランチメニューと表記されたそれは、クラフト紙に色鮮やかな料理の写真を貼り付け、丸っこいおしゃれなフォントを使い、レザーのバインダーで挟んである、カフェらしいデザインだった。

 記載されているランチは日替わりサンドイッチに、パスタとドリア。デザートメニューには綾子が見せてくれた地域情報誌でも目にしたケーキや旬のフルーツを使ったパフェの名前もある。写真そのままとはいかないだろうが、きっと見栄えのする料理が出てくるのだろう。


(……ああ。そういうことか)


 夢中になってメニューを見ていたら急に合点がいった。

 口にするか、少し悩んだ。果奈の未熟な語彙や語調だとますます鬼嶋を落ち込ませてしまうかもしれない。

 けれどいまここで、誰よりも優れた容姿をしていて、それに気付いた人々に注目されているのに、それが申し訳ないかのように佇んでいる鬼嶋が、その同行者である自分が行動を起こさないのは、違う、と、思った。


「恐れながら」


 切り出した第一声は力が入ったせいで強くなった。

 深呼吸で間を置いて、隣の鬼嶋がこちらに耳を傾けている気配を感じながら、再び話し始める。


「恐れながら、鬼嶋課長が謝罪される必要はありません。見惚れてしまうのは仕方がありませんが、あちらはお店の従業員でで、来店客に対して公平に徹するのがプロです。しかしそれは非常に難しいことです。私も、できません」


 鬼嶋の優れた容姿は、あやしである彼の個性だ。

 目を奪われる人がいるのは当然だし、逆に、黙っている果奈を怖いと感じるのも普通の感覚だ。心惹かれる料理に『人気No.1!』の文字が躍っているのか、人を選ぶものなのの違いだろう。

 だから誰かの言動に、身近な人間と自分との態度の差に、自責の念を覚える必要はない。


(パフェにはパフェの、ドリアにはドリアの、いいところと悪いところがある)


 店員が鬼嶋に目を奪われたことも、結果的に果奈が無視されたことも、いちいち気にするようなものではない。

 けれど気にしてしまうのが、鬼嶋の性格の良さの表れなのだ。

 話している間、鬼嶋の顔をちらりとも見なかったのは、心が弱ったときに目が合うのは辛いものがあると思ったからだ。そして鬼嶋はそういうときでも微笑を浮かべる人でもあるから。


「私はBLTサンドイッチのランチにします」


 ありがとうございます、とメニューを譲ってくれた鬼嶋にそれを返し、取り出したスマホで綾子に頼まれた買い物を確認した。

 イートインの会計時にテイクアウト商品も購入できるようだが、可能なら料理を注文したときに先に包んでくれるよう頼んだ方がいいかもしれない。後で確認しようと考える。


(スイーツだけじゃなくてパンもあるみたいなんだよな。私も何か買って帰ろうかな。美味しいパンをお弁当にすれば、辛い月曜日もきっと乗り越えられるはずだし)


 カレンダー通りに勤務する社会人は得てして月曜日が辛いと思う。嫌いと言ってもいいかもしれない。

 パンを買えば、後はスープを作るだけでいいし、フルーツを合わせればちょっとカフェっぽい昼食になる。そうだ、それがいいと決意を固めて頷いたとき、びゅうっ、と強い風が吹き付けた。


 ざわざわと揺れた木々からはらりはらりと落ち葉が舞う。

 待機列の人々から「風つよーい」「寒い寒い」と声が上がり、果奈もわずかに寒さを覚えてパーカーの襟を掻き合わせたとき、首元に紺色のマフラーを巻き付けられた。


「よかったら使って。今日下ろしたばかりで綺麗だから」

「ご心配には及びません。手袋を持っていますから」


 パーカーのポケットから暗い赤の毛糸の手袋を取り出す。マフラーやショールは手荷物になるが、念のためにと防寒対策に手袋だけは持ってきていたのだ。

 それを両手に装備した果奈は、柔らかくてさらさらしたカシミヤと思しき手触りのマフラーを鬼嶋の首に戻した。


「本当に限界なら助けを求めますので、お気になさらず。私は気遣いができませんので、課長がご自身を大事にしてくださると大変気が楽になります」


 鬼嶋と果奈には、上司と部下、男性と女性、年上と年下という違いがある。

 けれど、立場が上だから、強いから、経験の差があるからといってどちらかに配慮する義務は発生しないと思う。

 気遣いができる人は素晴らしいが、気遣われた側は申し訳ない気持ちになるし、いたたまれないときもある。ときには無理をしているんじゃないかと心配になってしまう。


 だからきっと必要なのは、互いを尊重しようという意識であって、気遣いの名を冠した配慮ではないのだ。


「助けて」と気兼ねなく言えたり、そのときの自分にできることで互いを応援できたなら、どちらかが配慮しすぎることはなく、対等でいられて、関係が長続きするのではないか。


(……って、長続きさせたいのか私は?)


 色々考えたくせに自分のことになるとよくわからなくなる。

 長期間関わり合いになるのはお互いの平穏な日常を失うことに繋がるのではないかと、どうしても拭えない懸念があるのに、何故だろう。



 いま果奈は、どうすれば鬼嶋と心地よい関係でいられるのかを考えている。



 そのとき、くすり、とささやかな笑みの気配がした。


「でも、岩田さんは助けさせてくれないよね?」


 以前にも似たような会話をしたことを思い出しながら、答える。


「助けを求める前に鬼嶋課長が手を打ってくださるからです」


 勤務態度に問題がありすぎる岬愛美に定期的に釘を刺すだけではない。自虐的で消極的な今田雪乃に体調を尋ねるふりをして困ったことはないか聞き出したり、総務課長の尾田の苛立ちや小言を誰も知らないところで受けてくれていたり。

 鬼嶋本人はそうやって行動していることを果奈たちに気取らせないようにしているが、具体的に何をしたのかわからなくても、動いてくれたことは雰囲気で伝わる。すると果奈はしばらくの間お弁当をいつもよりゆっくり美味しく味わえるようになるのだ。


「私はそういったことが不得意ですので、課長を尊敬します」



 そこで止められたはずの言葉を続けてしまったのは。

 きっと、果奈の中で何かが変わりつつあったから。



「私では、課長のようにはいかない」



 思わず溢れ出した弱音の向こうに、過去の自分が見える。

『他の人たちと同じように』できなかった私だ。



(私が鬼嶋課長と同じようにしたところで……だ)


 いまの自分のあり方を後悔したことはないけれど、諦めの気持ちは根深い。いまさらながらマフラーかマスクでも着けてくればよかったと思いながら、前に並ぶ人の足元を見るともなしに眺めて自嘲したときだった。


「……別に、いいことをしようと思っているわけじゃないんだよ」

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