仕事なのかデートなのか1
待ち合わせとなると、それが仕事でもプライベートでも、約束の十分前には必ず到着しているのが学生時代からの果奈の信条だ。
だというのにこの日、果奈は珍しく乗車する見込みだった電車を逃した。
そして現在、緊張と不安で心臓をばくばく鳴らしながら予定より一本遅い電車に揺られている。
(着る服を選ぶのってこんなに大変だったか……?)
親しい友人や家族以外と出かけることがほとんどなく、クローゼットの大半が仕事着で、こういう外出の際に最適な服装がどれなのか、自宅に存在するのかさっぱりわからない、という現実に直面したのが今朝方のこと。
家中の衣類を引っ張り出してああでもないこうでもないと組み合わせを考えていたら、家を出るのが遅くなってしまって、いまだ。
この電車でも待ち合わせに間に合うのは時刻表アプリで確認済みだが、鬼嶋のことだから早めに着いてしまっている気がしていて、さっきから気が逸って仕方がない。
(とりあえず、電車の到着時間を連絡して……)
メッセージアプリを立ち上がると最上位に表示される、「山村」の名前。未読は三件。
いつになく鬱陶しく感じられるそれに目を細めて、未読のままスルーする。いつもならメッセージの内容だけ確認しているが(だって今日は忙しいし)と言い訳を唱えた。だって日曜日だ。休みだからといって、必ずメッセージを確認できるとは限らないのだから。
鬼嶋宛に送ったメッセージは間を置かずに既読になり、返事が来た。
『了解。気を付けてね』
(やっぱり先に着いているな、これは)
駅に到着した果奈が許される限りの早足で改札に向かったのは言うまでもない。
秋に行楽に訪れたらしい親子連れや恋人らしき二人組、趣味と思われるカメラを下げた若い女性や運動着姿のお年寄りをごぼう抜きにして、一足先に改札をくぐったとき「岩田さん」と声がした。
「おはよう。早いね」
予想通り先に到着していた鬼嶋が、口元を隠すように巻いていた紺色のマフラーをわずかに引き下ろしながら微笑んだ。
休日の鬼嶋は、白のハイネックニットにダークグレーのテーパードパンツ、黒のレザースニーカーに、ベージュのチェスターコートという出で立ちだった。雑誌のモデルのような、爽やかさが具現化したような彼とその美貌に、通り過ぎていく人々が目を離せないまま通り過ぎていくのを感じる。
「おはようございます。お待たせして、申し訳ありません」
「全然待っていないから大丈夫。早速だけど、行こうか」
駅を出て、案内表示に従って歩き出す。
周辺地域の整備事業に組み込まれていた郊外公園は、テレビや新聞でしか知ることのなかった果奈のぼんやりした記憶や思い込みのそれとは違っていて、鮮やかな紅葉と自然の気配が感じられる明るく広い場所だった。落ちた銀杏で地面が黄色い海のようになっていて、吹く風に巻き上げられてかさこそと秋らしい音を奏でている。もし果奈が子どもだったら、無表情のまま、無言で落ち葉を蹴り上げて走り回り、心の中でほくそ笑んでいそうだ。
「…………」
例の娯楽エリアは園内に入って少し歩いたところにあった。紅葉樹の間からテラス席が併設された飲食店が並ぶ施設が見えてくる。二階建ての建物はウッド調のガラス張りで、さぞどの店もおしゃれなのだろうと思わせる。これで料理の味が申し分なければ嬉しいのだが、どうだろうか。
「…………」
などと、周囲の風景を眺めながら色々と考えていたのだが、ついに我慢ができなくなってしまった。
「……あの、鬼嶋課長」
「うん?」
距離を置かずに歩いていると、どうしても鬼嶋の姿が目に入る。それがどういうわけかじっとこちらを見ているので、懸命に気付かないふりをしていたのだが、気になって気になって仕方がない。
(よりにもよっておしゃれとは言えない格好をしているのに)
家を散らかしたまま出てきたというのに、果奈の装いは極めて『普通』だった。
仕事着と違いがわからない白のシャツはほとんど袖を通していないもの、インディゴブルーのジーンズに、踵が低くて歩きやすいラウンドトゥの黒のパンプス。アウターはカーキ色のマウンテンパーカーという、ちょっと散歩に来たんですというラフさだ。
いつ買ったか忘れてしまったアイボリーの小さなハンドバッグと、青い陶器で作られたイヤリングで、いつもより少し派手な格好にした、つもりだが、顔面偏差値の高すぎる鬼嶋と並んでいると何だか申し訳ない気持ちになってくる。
「どうしたの、岩田さん?」
(それはこっちの台詞なんだよな)
どうしたもこうしたもない。雰囲気や声の調子からして、いまの鬼嶋が勤務時間中のような愛想笑いをしていないことはわかるのだが、いったい果奈の何が気になるのか。
あまり聞きたくはないが、必要なことだと思って尋ねる。
「鬼嶋課長。私に悪いところがあるのでしたら、はっきり仰っていただけませんか」
「悪いところ?」
「気になるから、こちらをご覧になっているんでしょう?」
ぱちりと瞬いた鬼嶋は、ふんわりと笑顔を浮かべた。
「ごめん、岩田さんのラフな格好が珍しくて、つい。悪いところなんて一つもないよ」
動きやすさを重視しつつ日常的にジャケットパンツのコーディネートで勤務している果奈なので、鬼嶋のその感想は特におかしなものではない。
おかしくはないのだが、なんだか非常にむずがゆい。
(鬼嶋課長はよっぽどでない限り人を悪く言えないんだ。きっとそうだ)
目的の店の近くに来て鬼嶋が視線を外すまで、果奈は彼を直視できなくなってしまい、俯いたり、髪を耳にかけたり下ろしたり、前髪をいじったりして落ち着かない気持ちをやり過ごした。
昼食には遅く、お茶の時間には早すぎる時刻だが、予想通り店の入った建物に沿って順番待ちの列ができている。
「岩田さん、お昼は? 俺は軽く食べてきたんだけど」
「まだですが、朝食をがっつり食べてきたのでどうぞご心配なく」
ハムエッグ、トマトとレタスのサラダ、コーンスープに、バターを塗ったトースト。デザート代わりにいちごジャムをかけたヨーグルトという、休日でもなければ作らない豪華な朝食だった。
しかし言い換えると、朝ごはんに時間をかけ過ぎて支度を始めるのが遅くなったとも言える。
「どんな朝ごはんだったの?」と興味津々の鬼嶋に答えると、彼は「あっは!」と高らかに笑った。
「いいなあ! ホテルの朝食みたいだ。岩田さんも朝からきっちり食べる人なんだね」
「課長もですか」
「うん、時間がなければ軽くてもいいから朝ご飯が食べたい人。だから出張先のホテルの朝食ビュッフェで同行者にめちゃくちゃ引かれたことがある」
なんと、と哀れみの気持ちが、同行者ではなく鬼嶋に沸き起こる。
朝食ビュッフェは、素晴らしい。スクランブルエッグやソーセージ、サラダとスープ、数種類のパンやパンケーキがあったり、加えて白米と漬物、焼き魚や何種類ものおばんざいなど洋食と和食がどちらも食べられたり、フルーツやデザートがあったりなどする。
それらが自分で準備せずとも食べたいだけ食べられるのだから、食べずに何とするという気持ちにならないものか。
「朝食は食べないという方も多いですからね……」
「そうなんだよね。お腹空かないんだなあって、俺はそっちが不思議なんだけど」
「岩田さんは、朝は洋食派?」「そのときの気分とお弁当の仕込み次第です」なんて話をしていると、店員が現れてメニュー表を配りながら客の人数を確認し始めた。
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