好意とは

 最も親しいといっても過言ではない中西麻衣子に騙し討ちされた、あの飲み会の後のことだ。


 果奈のスマホに、見知らぬ人物からメッセージが届いた。

 宛先違いかスパムかと思って特に気にしていなかったが、こちらを知っているような内容が連続して届くので誰だろうと思っていると何のことはない、飲み会の参加者だ。同席した中で恐らく最も果奈と言葉を交わした、山村なにがしからだった。

 だが連絡先は交換していない。

 何故と思って尋ねると、はぐらかされた。心当たりや可能性はいくつか思い浮かんだが、どちらにしても常識に欠けると思ったので「許可なく連絡先を教える人も、聞くあなたも非常識です」と跳ね除けると、ビジネスメールのような謝罪が届いた。

 やれやれ終わったか、と思うのは早かった。

 その三日後、再び山村からメッセージ届くようになったのだ。


「おはよう」や「いま何してる?」など、距離感を勘違いしているような内容だったが、一応聞かれたことには答える内容を返していた。だがそうしたどうでもいいメッセージが続くと、山村が何がしたいのかよくわからなくなってきた。

 返信しあぐねている間に次のメッセージが届き、どうしたものかと対応を考えて確認を疎かにしていると「どうしたの、具合悪い?」と尋ねてくるので、とりあえずメッセージは確認するようにしている。

 一応「メッセージを送ってこられても返信しかねます」とやり取りするつもりはないことを伝えてみたが「俺が送りたいだけだから」と言われ、何一つ変わらないまま、現在に至る。




「意味がわからない」


 身も蓋もない綾子の感想に「本当に」と果奈は深い同意を示す。


「返信しないと言っているのに何故なおもメッセージを送ってくるのか、何故私なのか、本当に意味がわからないんです」

「いや、そうじゃなくってね」


 綾子は綺麗な眉をひそめて「違う違う」と手を振る。


「その山西なにがし、妙に果奈ちゃんに執着しているみたいね。何か親切にしてやったの?」


「山村です」と訂正すると「ああはい山村ね」といい加減な答えが返る。


「いいえ。彼と交流らしい交流をした覚えはまったくありません」

「幹事ちゃんが果奈ちゃんにお勧めするくらい、その西村はいい男だった?」

「西村ではなく山村です。……いい男の基準がわかりませんが、特に印象的な会話もなく、もう一度会いたいと思うこともありませんでした」


 山村はそうではなかったということだろうか。返信しないと告げた果奈にそれでも連絡してくるのは。

 だから果奈は困惑している。交流を持とうとする山村もその理由もわからなくて。


「幹事ちゃんには言ったの?」


 一瞬返答に詰まったが、大きく息を吐いてゆっくりと首を振る。


「……いいえ。伝えてしまうと、友人がどういう行動に出るかわかりません」


 ちょうどいいと山村と果奈をくっつけてしまおうとするなら、まだいい。直接本人に問いただしたり、それが不純な動機であったりしたときのことを思うと、できるだけ内々で処理したいと思っている。


「わずらわしいと感じるならすでに負担になっているのよ? これ以上メッセージが来ないように対処した方がいいように感じるけれど、そうしない理由があるのね?」


 くすくす、くす、という笑い声がざりざりとしたノイズになって耳の奥でこだまする。


 綾子の美しく整ったかんばせを直視できず、果奈はダイニングテーブルの傷にも見える木目をぼんやりと眺めた。


「果奈ちゃん?」

「……私は」




 無愛想で、顔が怖くて、声が低くて。


 面白味がない性格で、黙っているだけでその場の空気を悪くする。一番楽な自分でいようとすればするほど、不和を起こす。


 けれど無理をして周りに合わせても、結局は。




「私には」




 私のような、周囲を顧みない、思いやりに欠ける人間には。




「誰かの好意を無下にすることは、できません」




 たとえそれが大なり小なり打算や悪意を含んでいるものだったとしても。




 さすがにすべて言葉にすれば叱られるだろうと考えられるだけの冷静さが残っていることがまた、何とも言えず浅ましくて、自己嫌悪に顔が歪む。

 この顔を不機嫌になっているだけだと思ってくれない綾子が相手では分が悪いと判断して、席を立つ。


「……すみません、掃除の続きをしてきます」


 そこへ玄関ドアの開閉音がし、「ただいま」とリビングのドアが開いた。


「どれがいいかわからないから、良さそうなものをざっくり買ってきたよ」


 鬼嶋から受け取った買い物袋の中には、果物のりんごとみかん、そのジュースと、甘いタイプの野菜ジュース、ゼラチンと寒天の箱が入っている。 

 リビングに漂う微妙な空気に気付かないのか、鬼嶋はついでに買ってきたらしい低糖質のクッキーを「はい、おやつ」と綾子に渡している。

 その抜かりのなさがいまの果奈にはひたすらありがたかった。綾子が弟に対して開けっ広げにしている不機嫌を見せないのは、こちらを気遣ってくれているからだとわかっていたからだ。


(ゼリー、か。次の訪問日に作り置きをするつもりだったし、そのときに一緒に仕込んでおこう)


 夕食を食べて早々に外に出された鬼嶋はさぞ寒かろうと思い、掃除よりも先に、温かいルイボスティーを二人に出したときだった。


「果奈ちゃん、今週の日曜日に何か予定はあるかしら?」


 呼びかけられてどきっとしたが、綾子はいつもと変わらないように見えたので、多少残る気まずさを隠して答える。


「いいえ。特に予定はありません」

「それなら、休日出勤をお願いしてもいいかしら? 頼みたいことがあるのよ」


 そう言って綾子がソファの端に置いていた地域情報誌を取り上げた。


「ここに載っているカフェのケーキがすごーく食べてみたくって! 買ってきてほしいのと、できればイートインも利用してどんな感じだったのか教えてほしいのよね。自分で行けばいいんだけど、結構並ぶみたいだから誰かに頼むしかなくて」

「拝見します」


 どうやら公園内に新設された娯楽エリアにある店のようだ。公園自体はさほど遠くないが、メニュー紹介のケーキやパフェはフルーツをふんだんに使った非常に美味しそうなもので、新しい店でおしゃれな雰囲気ならば、長い待ち時間が発生するのは確実だ。身重の綾子が出掛けていくにはちょっと思案してしまうだろう。


「食べたいって言うけど、食べられるの?」

「それを確かめたいから頼んでいるのよ。食べたいって思ったってことは大丈夫なんじゃないかと思ってね」


 ちょっとした事件があって果奈の料理を知った綾子が、食べたいと主張したことがこの仕事のきっかけだった。自身もあやしで、姉の強すぎる直感を知る鬼嶋は、そこまで言われると仕方がないと肩を竦める。


「それなら俺が行くよ」


 そして当然のようにそう言った。


「せっかくの日曜日なんだから岩田さんはゆっくり休んで」

「課長こそ、貴重な週休日はゆっくりなさってください」


 果奈も、恐らく鬼嶋も、必要がなければ有給休暇取得のタイミングを後輩に優先している。だがそれでも上半期やお盆前に休暇を取った果奈とは違って、鬼嶋は最低限の有休を取得したに過ぎないはずだ。


(鬼嶋課長に倒れられると困る。とてつもなく、困る)


 もし鬼嶋が不在になると、仕事がのしかかってくる。つまり果奈の唯一の癒しであるお弁当を楽しむ余裕が失われてしまうのだ。


「休めるときに休んでください」


 思いが強過ぎて睨むような顔になっているはずだが、構うものか。

 眼光を鋭くする果奈に、しかし鬼嶋は笑顔で対抗してくる。どうやらこちらも譲る気はないらしい。


「じゃあ二人で行ってきたら?」

「はい?」

「え?」


 驚きの声をあげる二人に、魔性の微笑みの綾子が言う。


「気遣い合うくらいなら二人で行けばいいじゃない。美味しいものを食べるのに一人は味気ないでしょう?」


 ぎょっとした果奈はその思惑を察し、心の中で呻いた。

 やはり綾子は先ほどの話をこのまま聞き流す気はないらしい。鬼嶋に黙っていてほしいなら言うことを聞くように、後ろめたいことがあるなら大人しく従え、という圧をかけてきているのだ。

 しかし当事者以外にはそうした意図を微塵も感じさせず、ただ悪戯を仕掛けるような顔で綾子は笑う。


「私はどっちでもいいわよ? 一人でも二人でも、支払いは持つから」

「え」


 それを聞いた鬼嶋がちらりと果奈を窺ってきた。

 釣られて目を合わせた果奈が見る限り、彼の顔には幾ばくかの期待があった。づいうことだと不可解に感じたが、すぐに納得がいった。


(ああなるほど。スイーツ目当てか)


 ブラックコーヒーを嗜まないわけではないが、ふと鬼嶋を見たとき、彼の手元には加糖のカフェオレやココアがあったり、自宅には湯に溶かすホットレモンの粉末やフルーツ牛乳のパックが置いてあったりする。どちらかというと甘党の彼は、季節のケーキやパフェに心惹かれているに違いない。


「……岩田さんがよければ、一緒にどうかな」


 決定的な誘いの言葉に、果奈はゆるりと瞬いた。


 誰かと一緒に食事をするのは、正直に言って、苦手だ。

 食べるよりも会話を優先しなければならないし、話している間に冷めたり乾いたりする料理が気になってしまうし、かといって黙っているとさっさと食べ終わってしまって相手を待つ時間が発生する。

 面白い話題は提供できないし、相手の話を笑って聞ける技術は持っていないし、楽しいと感じていても表情に出にくくて不機嫌になっていると勘違いされてばかりだった。


 鬼嶋は、それでもいいだろうか。

 楽しませよう、笑わせようとしない私を、許してくれるだろうか?


(……ううん、そうじゃない)


 この人と過ごすとどんな風に感じるのか。

 楽しいのかつまらないのか、緊張するのか安心するのか。

 どんな気持ちになるのか、知りたい。


 その衝動は、後にして思えば、綾子のまかない係という仕事を引き受けたときのものと同じものだったのだろう。


「……何のお構いもできませんが、よろしいでしょうか」

「岩田さんの分まで俺が構うと思うから、大丈夫」


 本音と卑下が過分に含まれた台詞を笑って鬼嶋がそう言ったから。

「ではよろしくお願いいたします」と果奈は頭を下げたのだった。

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