ざわめくランチミーティング2

「皆さん、お疲れ様ですぅ。本日はお集まりいただきありがとうございまぁす。年末まであともう少し、みんなで頑張りましょー!」


「乾杯!」の近藤の声に、全員が「お疲れ様です」と近しい人たちとグラスを合わせる。

(さっさと食べて戻ろう)と果奈はスマホを確認して、抜け出すおおよその時間に見当をつける。ランチミーティング、親睦会といっても、終業後の飲み会のような無礼講ではない。催し物もなく、あくまで同じ部署の面々と昼食を食べるだけの会だ。幸いにも果奈のテーブルには今田と総務部の林、おっとりした老犬を思わせる再雇用社員の古株の宇津木という平和な人々で構成されている。頃合いを見て離脱しても文句は言われまい。


 今田に頼んで注文してもらったのは、弊社取り扱い商品の専用ソースを使ったソースカツ丼だ。

 ほかほかの白米にたっぷりの千切りキャベツを載せ、その上に甘辛いソースが染みた揚げたての豚カツを溢れんばかりに敷き詰めている。付け合わせは豆腐とねぎの味噌汁、きゅうりの浅漬け。見ているだけでも活力が湧いてくるようながっつりメニューだ。


(疲れたときには肉と揚げ物を力を借りるんだよ)


 いつものお弁当を思えば食べ過ぎだが、気にしない。このランチミーティングの食事代は予算から出ているのだし、こういうときに好きなものを食べずにどうするのだ。

 これを、やけ食いという。


 味噌汁を箸でかき回して濃度を満遍なくした後、軽くすすって味噌と出汁の味を静かに堪能する。

 速やかにメインに移り、ソースの絡んだ千切りキャベツを軽くかき集めつつ、豚カツと一緒にかぶりつく。


(おおぅ……なんて美味な……)


 甘辛ソースが衣に絡み、さくさくじゅわっとした食感を残したところと、しみしみになった部分と異なる口当たりが楽しめる。厚みのある豚肉と、キャベツのしゃっきっと感と甘味を楽しんでいるところに白米をかきこむとただただ、美味い。

 味に慣れた頃にきゅうりの浅漬けをぽりぽりとかじれば、口の中がリセットされ、また新鮮な気持ちでソースカツ丼を楽しむことができる。


(丼ものと味噌汁と漬物って最強だな。作る方も食べる方もお手軽かつ満腹だ)


 そこに差し込まれたのは無粋な笑い声。


「岩田さん、思ってたよりすっげえ食いますね! CMかよってくらいガツガツいくからびっくりした!」

「わかる、ソースカツ丼が美味そうに見える勢いだよな。岩田さん、そんなに腹減ってたんスか?」


 隣のテーブルにいた総務部の男性社員たちが、ふと我に返って吹き出したのだ。


「そんなんじゃいつもの弁当だと足りなくないですか? もしかしてずっとダイエットしてます?」

「あ、岩田さんでもそういうこと気にするんだ?」

「…………」


 口の中のものをしっかり咀嚼して飲み込み、ハンカチで口元を拭くと、果奈はしっかり彼らを見据えて、言った。


「憶測で物を言わないでください。私は、食べたいものを食べているだけです」


 そうして残りのソースカツ丼と向き合う。言葉を飲み込んだ彼らがどういう顔をしているかなんて、肉と白米に比べたら見る価値もない。

 そんな心なしか重くなった二つのテーブルの空気を変えたのは、今日のお魚ランチを食べていた宇津木ののんびりした声だった。


「いいねえ、羨ましいなあ。僕くらいの歳になると、炭水化物だの塩分だのを考えてメニューを選ばなくちゃいけないからさ。そもそも歳を取ると若い頃みたいにたくさん食べられないんだよね」

「私は今日の晩ご飯のメニューとかぶらないようにって考えちゃう。家族のリクエストで昼食と同じものになると、なんかテンション下がっちゃって」


 続けて口を開いた林がうんざりと肩を竦めると、隣のテーブルから「ああ……」「そうですよね」と追従の笑い声が上り、果奈から遠ざかるみたいにして別の話題に逃げていく。


(言い返されて気まずくなるなら、最初から話題を選んでこい)


 食事のことになるとどうしてみんな、ダイエットだの大食いだのという話をし始めるのか。どうせなら、どこそこ産のキャベツが美味しいだの、どの店の魚料理がお気に入りだの、楽しい話にすればよかろうに。


「鬼嶋課長の好みのタイプが知りたいですっ」

 岬愛美の甲高い声に耳を貫かれて、ついそちらを見てしまう。

「それ私も聞きたいです!」

「ちょっと、いま聞き捨てならない話が聞こえてきたんですけど! 私にも聞かせてくださーい!」

「ほら、賛成多数ですよぉ」


 鬼嶋のいるテーブルは岬と近藤、総務部の別の女性社員も加わって、ずいぶん賑やかだった。いつの間にか尾田は別のテーブルに追いやられ、部下の男性社員たちに「健康とは」を説いている。

 女性社員に囲まれる鬼嶋がいかなる返答をするのか、果奈を含む周囲がそれとなく耳をそば立てている気配に、凄まじく嫌な気持ちになる。そのせいだろうか、椅子を引いた音がやけに大きくなった。


「果奈ちゃん?」

「お手洗いに行ってきます」


 どうかしたのかと声をかけてきた林に答えて踵を返したときだった。



「好きなタイプとは違うかもしれないけど、美味しそうに食べる人はいいと思うよ」



 鼓動一つ分、時間が止まった。


 そんな果奈に誰も気付かない。


 再び動き出してお手洗いに入り、手を洗った後、洗面台の前の鏡をじっと見つめて、大きく息を吐きながら肩を落とした。


(……び……っくりした…………)


 鬼嶋の返答とやらがあのタイミングで聞こえてくるとは思わなかった。

 しかも果奈たちのテーブルの話題が話題だったものだから、うっかり自分のことを言われたのではないかと思ってしまった。鬼嶋にこちらの話が聞こえているわけがないので、自意識過剰の思い込みなのが恥ずかしい。


(……聞こえてない、よな。嶋課長って耳がいい能力の持ち主じゃないはずだから……)


 あやしの能力は多岐にわたる。様々なあやかしの血を引いているという鬼嶋が、怪力以外に優れた聴力を持っていても不思議ではない。


(……いや。いやいやいや、偶然だって。岬さんたちを躱すためのその場凌ぎで言っただけで、私のことじゃない)


 自惚れるな。勘違いするな。私が思うほど周りは私のことを気にしていない。

 鏡越しに言い聞かせ、しゃっきり背筋を伸ばしてホールに戻ったときだった。


「あ、岩田さぁん」


 甘ったるい声と笑顔の岬が、着席するのを阻むように果奈の前に立った。

 よろしくない予感を覚えながら「何でしょう?」と応じると、何故か、テーブルに置きっぱなしだったはずの果奈のスマホを差し出された。


「なんかー、めっちゃメッセージ来てたみたいだったんで、急ぎかもー? と思って届けるところだったんですよぉ。はい、どうぞ!」


 そんなことか、と思うと同時に、わざわざ持ってこなくても、と考えながら「ありがとうございます」とスマホを受け取ってメッセージを確認する。


「…………」

「もしかしてぇ……この前の飲み会のときの人じゃないですか?」


 ちらりと目を上げた、その反応が悪かった。途端に岬がきゃあっとはしゃぎ出す。


「やっぱり! 二人だけ姿が見えなかったときがあったでしょ? いい感じだなあと思ってたんですよぉ!」


 一番近いテーブルにいた面々がぎょっとしたようにこちらを見る。会話の内容がしっかり聞こえていたようで、信じられない面持ちでこそこそ言い始めた。

 そこに果奈を覗き込むようにしながら岬がにんまりと笑う。


「せっかくの出会いなんだから、大切にした方がいいですよ? 会社にいるときみたいにしてると、お相手さんに逃げられちゃいますから。ネットでモテる方法とか好かれる方法を検索してみることをおすすめします」


 語尾に星かハートがついていそうな口調で言いたいことを言って、岬は身を翻す。


「岬さん」


 そんな彼女を果奈は呼び止めた。


 マーメイドラインのスカートが足元にまとわりつくように揺れる。今日のランチミーティングに合わせたファッションだろう、スカートはロングだが太腿辺りまでがタイトで、トップスは袖が透けたシースルーだ。細身を強調しつつセクシーさを強調するファッションは、同性より抜きんでようと工夫し、異性に好かれようと努力を惜しまない彼女らしいものだ。

 その信念をどうこう言うつもりはないけれど。


「憶測で、物を言わないでください」


 危害が及ぶ場合は、その限りではない。

 先ほど別の人間に告げた言葉を繰り返し、鼻白んで真顔になった岬に「それから」と畳みかける。


「あなたの積極性はかなり危ない。もう少し自分の行動を省みることをおすすめします」

「何ですかそれ」


 しまった、強く言い過ぎた。

 後悔するよりも早く、笑顔を消した岬の噛み付くような言葉が放たれる。


「大勢の前で説教って、パワハラですか? まなみに恥をかかせて楽しいですか?」

「岬さん」

「岩田さんも人のこと言えないですよね? 仕事でも何でもぶすっとしてて。職場の空気悪くしてるってわかってます? 反省してくださいよ」


 ずん、と胸の奥が重くなる。

 わかっている。ただ黙っているだけで「何か怒っている」「何故か不機嫌」と言われることくらい。


 遠い、遠い過去の声がする。少女たちのくすくす笑いがこだまする。




 くすくす。くすくすくす。


 ――何あれ。必死じゃん。




「――岩田さん」


 優しく真剣な鬼嶋の声がした。

 途端に現実が押し寄せてきて、果奈はさっと青ざめた。何かトラブルだろうかと気にしていたお客様方が、今度はとんでもなく顔のいい男性の登場に目を見張っている。


「岩田さん。岬さんも。ここは一般のお客様もいらっしゃるから、仕事のことなら上のフロアで話そう。午後の仕事が始まったら、岬さんからワークブースに来てください」

「まなみは別に」

「私が、話す必要があると思ったからね。時間を取らせて悪いけれどお願いします」


 語気を強めたわけでもないのに、私が、の部分が厳しく聞こえて、さすがに岬も反論を引っ込めた。


「さあ、席に戻って。むすびの社員なんだから食品を出さないよう、しっかり食べよう」


 岬と果奈を追い立てた鬼嶋は、最後に様子を窺っていたお客様方に会釈して謝意を示すと、いまかいまかと待ち構えていた尾田のところへ行って「お騒がせして申し訳ありません」と頭を下げた。


「おい、鬼嶋くん、部下の指導ができていないんじゃないか?」

「はい。お見苦しいところをお見せしました」

「君のところは女ばっかりだからな、優しくしすぎると舐められるんだぞ」


 嫌な絡まれ方をしても、悄然としながらも素直に相槌を打つ鬼嶋に、果奈はますますいたたまれなくなった。ここで鬼嶋を追及する尾田もまた、時と場所をわきまえていないことに気付いていない。


「鬼じ、――」


 悪いのは自分だと、割って入ろうと声を上げたとき、尾田に気付かれないさりげなさで鬼嶋の目が果奈を捉えた。

(何も言うな)とその目が語っていた。


「…………」


 だから果奈はぐっと言葉を飲み込むと、言葉の代わりに箸を握った。

 けれどソースカツ丼の味はまるで別物のような苦い味で、周りの空気も相まって飲み込むのが重く苦しい。せめて、と同じテーブルの林と宇津木、今田に「お騒がせして、すみません」と告げるのが精一杯だった。

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