第3話 胸騒ぎの葡萄パフェ
ざわめくランチミーティング1
「どれも美味しそうでめっちゃ悩んだー」
「わかるー。全部ちょっとずつ食べたいやつー」
「俺、健康診断の結果やばかったからさあ。肉食いたいけど魚一択よ」
「お前、サラダにトマト入ってると思うけど大丈夫か?」
「大丈夫、抜いてくれって頼んだ」
「あっ、岩田さん!」
正午を前にして、昼食を求める人々で賑わうカフェに飛び込んできた果奈に手を振ったのは事務課の後輩の今田雪乃だ。他の総務部と事務課の面々は注文列に並んでいるか受け取り口で料理を待っている。
「遅れてすみません。注文は……」
「メッセージでいただいたものを頼んでおきました」
「ありがとうございます」と今田から番号札を受け取って、ようやく呼吸が楽になった気がしたが、多分気のせいだ。何せ上階にある本社の総務室からここまで、エレベーターを待つ時間が惜しいと、非常階段を駆け下りてきたのだから。
(か弱いアピールをするつもりはないけど、さすがに疲れた……)
肩で大きく息をしながら、この季節に汗を拭っている果奈を見た今田が「座って待っていてください」と言ってくれたので、「お言葉に甘えます」と店の最奥に位置する多人数用のテーブル席に向かった。
そこはいつの頃からかむすび食品の社員のランチミーティング用の予約席になっている。今回は四つのテーブルに各々の咳を示す荷物や小物が置かれており、今田が確保してくれていたのは最も手前、一般客に近い賑やかなところの席だ。
カフェの暖房が暑くてさっさとジャケットを脱ぎ、椅子の背もたれにかける。備え付けのお冷やをいただきたいところだが、とちらりと周囲に目を走らせた先には、上座にあたる奥のテーブルについた上司の姿。総務部の尾田課長と我らが事務課の鬼嶋課長が向かい合っておしゃべり、もとい絡み絡まれている。
(この位置だと間に入るのは無理そうだな)
それもこれも集合時間に遅れたからだと、深く静かに疲れた息を吐く果奈のボトムスのポケットの中で、またスマホがぶるるっと震えた。
食品卸売事業から始まったむすび食品株式会社は、現在直営の小売店を本州東部を中心に展開ながら、自社製品開発と飲食業に携わっている。
その飲食店の第一号が、本社ビルの一階に構えた社食兼カフェレストラン「いろどり」だ。
むすび食品の取り扱い商品を用いたメニューを提供していて、和風、洋風、エスニックと多彩な味が楽しめる「今日のお肉ランチ」と「今日のお魚ランチ」、そしてカレー好きにはたまらない「エスニックカレーとナンのセット」が人気だ。コーヒーや紅茶、異国感たっぷりのジュースも豊富に取り揃えられていて、もちろん飲み物やスパイス、ソースも購入できる。
開店時間すぐは地元住民の皆様が新聞や本を片手にモーニングやコーヒーを楽しみ、昼食どきは勤め人もランチやディナーを食べに来る。本社社員は多目的フロアでお弁当を食べたり、外に出たりすることもあるが、社割が利くこのカフェもよく利用されているという。
そんなカフェ――中の人である社員は通称の「いろどりカフェ」と呼ぶそこで、むすび食品の各部署がランチミーティングと称して親睦会を兼ねた昼食会を半期に一度催すという習わしがある。
どの部署でも、各々が仕事に慣れつつある初夏と、年末と年度末の繁忙期に突入する前の晩秋に行われており、事務課ひいては総務部も合同で、例に漏れずこの時期にいろどりカフェでのランチミーティング会を執り行うこととなった。
そんな日に果奈は遅刻するという失態を犯したわけだ。
(はあ……あんまり考えたくなかったけど、これはやっぱり……だよなあ)
一息ついていると、料理を受け取った社員たちが席に戻り始めた。ちょうど果奈の番号が呼ばれたので、他の面々とすれ違いながら、お渡し口で今田に頼んでもらっていたランチセットのトレーを受け取った。
「……岩田さん、大丈夫ですか?」
戻ってくると、すでに着席していた今田がそっと声を落として尋ねてきた。周囲を憚る彼女の視線は奥のテーブル、上司たちに料理を運ぶ事務課の岬愛美と総務部の近藤美優に注がれていて、ああやっぱり、と疲労感がのしかかってきた。
(集合時間が変更になったこと、私にだけ知らされていなかったんだな)
どちらが鬼嶋の料理のトレーを持つのか、受け取り口の前で繰り広げられていた密かな攻防は岬が制したようだ。にこやかな岬とは対照的に、尾田の前にトレーを置く近藤の笑顔の下に苛立ちが透けて見えた。
ランチミーティングの取りまとめ役は持ち回りで、今回は過去に担当したことがある総務部の近藤と、異動してまだ一年にならない岬の二名の受け持ちだ。
総務部では若手にあたる近藤は、今年から事務課に配属された岬と年齢が近いことまって親しくなったらしい。仕事が楽しくなったのか以前より雰囲気が明るくなったものの、十倍はかしましくなり、総務部のお母さんこと林祥子は「最近言葉遣いがちょっと……」と苦笑いしている。
二人が揃うと、とにかく、口が悪いのだ。
最近の若い人は、なんて言いたくはないのだが、SNSで流行したスラングを多用して友達口調で話しているのを聞くと、他人の言葉遣いなど何とも思ったことのない果奈でもぎょっとすることがある。
そのとき不在だった尾田のことを独特な現代語とぞんざいな口調で悪し様に言っていたことがあり、勤務時間中であること、他の人間もいる室内であることと、果奈自身が作業の進捗を確認する必要に駆られて「その話が急ぎでないなら後にしていただいていいでしょうか」と遮ったこともあった。
(近藤さんとはこれまでさほど接点がなかったけれど、この件が不興を買ったんだな)
他部署の女性社員たちと等しく、ごくごくうっすらと、
そのことに今田も気付いたのだろう。彼女は常に後ろに控えていたい性格で、トラブルは苦手だが、周囲のことはよく見ている。だからこそ果奈は首を振った。
「大丈夫です。気にしないでください」
「……でも」
「今田さんは自分のことだけを考えてください」
精神的に追い詰められた今田雪乃が就業規則違反を起こした一件は記憶に新しい。
物腰柔らかな鬼嶋の巧みな話術によって、自主的なサービス残業と、ついでに空調切り忘れと異常な温度設定は今田によるものだと判明したようだが、今田があやしだと知られないようにすることを優先した結果、速やかに隠蔽され、お咎めなしとなっている。
もし今田が彼女らのターゲットにされた場合、再び追い詰められてしまうか、今度こそ耐えきれず退職を選ぶかもしれない。ようやく一年経とうかという時期に、ここまで育てた後輩を失うのはごめんだった。
そして本人もそうした面倒ごとに耐性がない自覚があるのだろう。自分の身を守れとはっきり告げられて「……はい」と力なく肩を落としている。
(そんなに落ち込まなくても、誰かに相談する予定はないから)
誰かに相談して、注意勧告が中途半端になった結果、逆恨みされて嫌がらせが陰湿化する可能性は大いにあった。自分だけならまあ何とかなるだろうが、誰かに向くのは勘弁だ。
(そのうち飽きて止めるか、私の反応を引き出したくて過激化するかのどっちかだろうし、しばらく様子見だな)
「そろそろお揃いですかぁ?」
甘ったるい声を放った岬が一瞬果奈を見て、ふっ、と鼻で笑ったが、すぐに全員に愛想のいい笑顔を向けた。
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