心地よい場所

(鬼嶋課長は事務課の誰かがこっそり残業しているとわかっていた。サービス残業になることを承知でそういうことをするのは私だろうと思ったんだな)


 岬だったら、きっちり残業代をもらうためにタイムカードは押さないだろう。

 今田は、岬のように仕事の遅れを開き直れたり何とかなると思えたりする性格ではない。多少の無理や不利益を被って責任を取らなければならないと思い詰めてしまう雰囲気があり、実際そうだったようだ。


『これは内密にしてほしいんだけれど』と三人で月見うどんを啜った夜の帰り道で、鬼嶋が話してくれた。


『議事録の確認の締め切りに遅れたり送付するはずの書類を忘れていたり、ミスが続いたことを気に病んでいたみたいでね。仕事を終えて定時に退社したものの、やり残しがあるんじゃないかと気になって、会社に引き返してこっそり残業していたらしい。そういうときに何度か空調を切り忘れていたようなんだ』


 鬼嶋は言わなかったが、恐らくだいぶ精神的にきていたのだろう。平静でなかったために普段通りの行動ができず、空調の電源を切るという作業を忘れたのだ。


 だが今田は勘違いをしている。

 鬼嶋も果奈も、事務課に来て半年程度の今田や岬に重要な仕事は振らない。振ったとしても必ず進捗を確認している。彼女のミスは彼女自身が思うほど重いほどではない、失敗しても第三者がリカバリーできるものなのだ。

 そしてたとえそれが自罰だとしてもサービス残業は決して償いにはならない。償いたいのなら、仕事を辞めず、このことが笑い話になるくらい続けてくれればいい。


 ただそのためには彼女にとってここが危険な場所ではないと理解してもらう必要がある。


(アイス餅、好きだといいけど)


 冷蔵庫にはシュークリーム、冷凍庫にはアイス餅。

 通常業務と並行して片付けを行う慌ただしい事務課の面々に買ってきた差し入れは、果たして役に立つだろうか。


(でも、好きなもの、食べたいものを食べられる場所は、きっと悪いところじゃないはずだと思うんだよな)


 私の場合は、だけれども。

 それでも、誰にとっても美味しいものを食べることはいいことだ。多分。


「岩田さん」


 思いがけない声に振り返ると、休憩に行ったはずの鬼嶋が戻ってきていた。


「どうかされましたか?」

「どうかしたも何も、一人残しているんだから気になって当然でしょう」


 果奈は内心で訝しく首を傾げた。正直言うと、戻ってこられるよりはしっかり休憩を取って、果奈と入れ替わりに岬と今田を見ていてほしいのだが、それを理解しているはずの鬼嶋がこうして戻ってきた意図が想像できなかったからだ。


「はあ……ありがとうございます」


 よくわからないままお礼を言うと、くすっとされた。適当に言ったことがばれているからだろうが、揶揄うように笑われる謂れはないのでちょっとむっとする。

 すると鬼嶋はますます笑いながら、持っていた小さな紙袋を差し出した。


「どうぞ。岩田さんにだけだからみんなには内緒にしておいて」

「え? ああ、はい、ありがとうございます……」


 どうやらこれを渡すタイミングとみて戻ってきたらしい。ロゴも何も入っていないシンプルな茶色の紙袋はずいぶん軽く、中を見ると、簡易包装されたお菓子か何かが入っているようだった。


「仕事の邪魔をしてごめん。それじゃ、お先に休憩をいただきます」

「いってらっしゃいませ」


 鬼嶋ほど笑顔を残して去りゆく姿が決まっている人もいないだろう、なんてことを思いながら、果奈は受け取った紙袋のそれがどうやら冷蔵品でないらしいことを確かめて、作業を再開した。

 そうしてしばらくもしないうちに今田が戻ってくる。

 彼女はいつも昼休憩が終わる五分前には総務室に戻って、一足早く午後の業務の準備をしたりすでに始めたりするのだが、このときはとことこという静かな足音をさせて果奈の近くまでやってくると「い、岩田さんっ」と緊張の面持ちで言った。


「あの、アイスクリーム、ありがとうございました……!」

「口に合ったようでよかったです」


 いつもならそこで会話が終わる。果奈は雑談は得意でないし、今田は考えすぎて話が続けられないらしいからだ。


「今田さん」


 だがこのときの果奈は、珍しく彼女を呼び止めた。


(私はあなたの敵ではないけれど、あなたが望む味方には、きっとなれない)



 あなたはあなたの、私は私の、誰かには誰かの適温がある。

 それでも、互いに歩み寄れる温度で緩やかにやっていくことはできるはずだ。



「……よかったら、おすすめのアイスを教えてくれませんか?」



 そしてそこが、あなたや私たちにとっての『危険ではない場所』になると思う。



 果奈が「今日は目についたものを買っただけなので」と付け加えると、ぽかんとしていた今田は大きく目を瞬かせ、ゆるゆると表情を緩めると満面の笑みを見せた。


「……はい! いっぱいおすすめします!」

「ありがとうございます」


 少しばかりの努力で続けた会話は、たったそれだけ。

 けれど今田の表情はずっと明るく、果奈も心のどこかがほっこりと温かくなるのを感じていた。






 入れ替わりで取った昼休憩で、果奈は鬼嶋からもらった紙袋の中身を確かめた。楽しみにしていたお弁当よりも優先したのは、それが上司の、鬼嶋からの頂き物だったからだ。


 包紙を開けてみれば、現れたのは白い紙箱。


「わ」


 入っていたのは白、黄色、桃色、薄紫色と色鮮やかな琥珀糖だった。


 白いうさぎ、黄色い満月、桃色の子うさぎ、薄紫色は雲だろうか。秋のモチーフの詰め合わせだ。


 どうしてこれを私にくれたのだろうとか、どこで買ったのだろう、お返しはどうすればいいのかなどと考えた果奈は、じっとそれを見つめて、ふと思った。


(……この箱の中で、お月見をしているみたいだな)


 いつかの誰かみたいなことを思ったな、と我ながらおかしかったけれど、紙箱を丁寧にしまう果奈の口元がごくごくわずかに綻んでいたことを知っている者は誰もいない――――いまは、まだ。

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