最適と不適合の間で
翌日は先日決まった事務課の片付け日だった。総務部の面々には一日うるさくすることを詫びたが、朝から果奈たちは自分の机と、事前に割り振った場所の整理整頓と清掃のせいで、いつもの打鍵音と電話の音がよく響く静けさが嘘のように騒がしい。
(地味に疲れる……)
自宅の大掃除なら何とも思わないが、職場だとそうはいかないことを初めて知った。心当たりのないもの、よくわからないものが出てくるのが結構ストレスになるようだ。
ひたすら、久しく触っていないファイルや何が入っているかわからないケースを開け、わからないものは鬼嶋にも確認して、シュレッダー行きもしくは溶解処理行きの箱に入れていく。
「岩田さーん、もう箱がいっぱいなんですけどぉ?」
「倉庫に行って、使っていない段ボール箱を出してきてください。なければ一階の回収場所に取りに行ってもらえますか」
舌打ちしそうな低い声で「……はぁい」と岬が言って部屋を出ていくと、鳴り始めた内線を取った今田が「鬼嶋課長、お電話です」と相手方の名を告げて繋ぐ。書類の要否の判断ができるのは鬼嶋と果奈なので、岬と今田には通常業務を兼務してもらっているのだ。
「岩田さん、重いものは無理に持たないで。それからこまめに休憩を取るようにね?」
吹き出す汗を拭いながら段ボール箱を動かしていると、受話器を置いた鬼嶋がそう言った。お言葉に甘えてマスクを下ろし、休息がてら水分を取るが、しばらくもしないうちにぞくぞくっと寒気が走った。
(寒っ!)
ジャケットはとうに脱ぎ捨ててトップスの袖を肘までめくり上げているが、思ったより汗を掻くし、その汗が冷えて寒いのだ。埃が立つので扉も窓も開け放しており、その部屋で通常業務を行っている総務部の人々はショールや膝掛けを使っているのだから当然だろう。
「雪ちゃん、大丈夫? そんな格好で寒くない?」
「大丈夫です、寒さには強いので……」
合わせた両手の中にカイロを握りしめる林に答えるように、本当に寒さに強いらしい。動きやすそうなトップスの上に着たカーディガンの袖をめくり、キーボードを叩く手は冷えとは無縁らしくきびきびと動いている。
「今田さん」
果奈が呼ぶと、その手がびくりと震えて止まった。
「は、はい」
「冷蔵庫におやつが入っているので、休憩時間にどうぞ」
今田は眼鏡の向こうの大きな目をぱちぱちとさせる。
「冷凍室に入っているのが今田さん、冷蔵室が岬さんの分です。岬さんにも伝えておいてあげてください」
次の瞬間、今田がさあっと青くなった。
鬼嶋から聞いてはいたがその動揺は確信を得るに十分な態度だった。
――今田雪乃は、暑さに弱く寒さを好む性質の『あやし』だ。
寒さに強いあやかしについてまったく詳しくないので、雪女かゆきんこか、風など気象にまつわる何かだろうかとは思うが、とにかく今田の祖先にはそうした類のものがいるに違いない。
「なんで……」とか細い声が聞こえたが果奈は何でもないように答える。
「冷蔵庫のアイスが今田さんのものだったようなので、好きなんだろうと思ったからです」
岬が怒っていた、給湯室の冷蔵庫の冷凍室のアイスクリームも今田のものだったのだと推測したのだが、当たりだったらしい。今田は果奈が自分の正体に気付いているか否かわからなくなったような顔をしている。
(私には、あなたを本当に理解したり支えになったりすることはできないと思う)
けれど『あなたがそういう人である』と思ってそこにいることくらいはできるはずだ。
「嫌いでしたら、岬さんと同じものを召し上がってください」
冷凍と冷蔵と二つずつあるので、と言うと、今田は呆然としていた。だがそれ以上何かを言うのは野暮だと思い、会話を切り上げてさっさと手を動かす。
しかしまったく違う方向から視線を感じて顔を上げると、同じく作業に戻る鬼嶋の微笑みにぶつかった。
(あ)
しまった、上司より後輩二人を優先してしまった。
「……鬼嶋課長も、冷蔵庫に残っているものでよろしければ、どうぞ」
「ありがとう、いただきます」
掛け値なしの感謝の言葉に、果奈はほっと胸を撫で下ろす。
鬼嶋は根に持ったりぐちぐち言ったりする人ではないが、仲間外れにされたり力尽くで押さえつけられたりするとちょっと拗ねてしまうことを、綾子とのやり取りを見聞きして知った果奈だった。
そんなことをやっていると、あっという間に昼休憩の時間だ。
やはりというか予想通りというか、思ったように仕事が進んでいないため、果奈は時間をずらして休憩を取ることにして、鬼嶋たちには先に休憩に行ってもらうことにした。
「疲れたら手を止めること、もしくは昼休憩に入ってね」と念押しした鬼嶋を見送って、引き続き書類を仕分ける。
総務部もいつの間にか全員休憩に入っていて、室内はしんと静かだった。ドアと窓を開け放していると風通しがよすぎて、一人だとより寒さが増すようだ。
(私がいま感じているような寒さを、今田さんは暑さとして感じたんだろうか)
月見うどん――温かいものと冷たいもの。
綾子は身体を冷やしたくて冷製を、鬼嶋は外気が冷たいと感じて温かい料理を希望した。二人にとっての適温がそれぞれ違っていたからだ。
それと同じことが職場の空調で起こったのではないか、と果奈は考えた。
いまの室温が暑いと感じる誰かが、残業していて一人になったタイミングで空調を自身の適温、すなわち冷房十五度に設定した。だが度々それを切り忘れてしまったことで今回の騒ぎに発展してしまったのだ。
本来なら心当たりのある人間は速やかに申し出ただろう。だが、できなかった。
何故なら総務部長、ひいては尾田の注意を受けたその日に欠勤していたから。
そして告白することで他の隠し事がばれてしまうことを恐れたからだ。
(今田さんがあやしだと知っている身近な関係者は、総務部長と鬼嶋課長。部長は空調の切り忘れだけじゃなく温度設定のこともご存知だったんだろう。鬼嶋課長にだけ、それとなく今田さんに注意するよう伝えるつもりだった。けれど何も知らない尾田課長が、それを聞いて全員に注意しなければと行動を起こしてしまった、ってところか)
あやしのことはセンシティブな話題だ。どんなに親しくてもうっかり広められるという可能性はゼロではないのだから、直属でない上司に知られたくないと思うのは当然だろう。
それだけでも口をつぐむ理由になるだろうが、さらに今田を苦しめたのは、彼女が就業規則に違反することをしていたからだったようだ。
(やっぱり飲み会の夜の謎の質問には意味があったわけだ)
『今日、定時で帰った?』――それは、タイムカードを押した後で残っていないか? という意味だったのだ。
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