まとまる真相
「そういえば果奈ちゃん。飲み会はどうだったの?」
「ごふっ!?」
麺類を啜っているときに咽せることほど苦しいものはない。
がほっ、げほ、がはっ、と手で押さえ、それでも足りずエプロンの裾で口元を覆う。気管に入ったらしく鼻がつーんとして涙が出てくる間も衝動的な咳が迸って苦しい。
「……ごほっ、かは……っ」
涙目になっている果奈の耳にもう一人の咳が届く。
正面に座る鬼嶋が口を覆った手の中に苦しげな咳を吐き出している。「あらあら大変」と言いながら綾子が持ってきてくれた水を、果奈と鬼嶋はそれぞれに空咳をしながらほとんど一息に飲み干した。
(はー……苦しかった……)
「……喉痛え……」
悶え苦しむ果奈と鬼嶋に、思いがけない攻撃を仕掛けた綾子もさすがに悪いと思ったらしく「ごめんなさい」と肩をすぼめた。
「だって、仕事の話は聞いたけれど、飲み会のことはまだ聞いていないもの。それで、どうだったの? 連絡先を交換したり遊びにいく約束をしたりした?」
「けほっ、……ないです、何も」
追撃の手を緩めない綾子に咳払いをして答えるが、しゃがれ声がなかなか戻らない。
それでも努力して、そもそもそういう目的で参加していなかった、友人の顔を立てるために一次会で帰ったと聞き取れるように気を付けた発声で告げると、綾子はすんなり理解してくれた。
「まあ輝から聞いて変だと思ったのよね。果奈ちゃんって恋愛に重きを置いているような感じじゃないから。お友達のためなら納得だわ」
「恐縮です」
「もし恋人ができたら教えてね? 仕事とはいえ異性の上司の家に来ている状況はお相手に申し訳ないから。もちろん好きな人ができたときも!」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
お礼を言ったものの、恐らくそういう状況にはならないだろう。何故ならまったくそうなったときの自分が想像できない、すなわち心当たりが皆無だからだ。
「あんたもよ、輝。恋人か好きな人ができたら早めに言いなさい。相手を泣かせたら承知しないんだから」
「できたとしても言いたくな、うっ」
最後のそれは咳なのか、だとしたらテーブルの下が揺れたのは気のせいか。
だがここは果奈も主張しておくべきところだろうと挙手をする。
「プライベートな問題なのは重々理解していますが、もしそうなった場合には早急にご相談ください。無用なトラブルは避けるべきだと存じます」
「えっ」
弾かれたように顔を上げた鬼嶋が果奈を凝視したまま固まった。
「……それは……好きな人ができたら岩田さんに言う、ってこと……?」
果奈は大きくはっきりと頷いた。
鬼嶋に好きな人や恋人ができたら果奈の存在がトラブルに原因になる可能性は非常に高いと思われる。お相手に勘違いされるなどして彼の思いが叶わなくなってしまったら詫びようがないのだから、速やかに撤退するためにも、好意を抱く人物が出現したときにはご報告願いたい。
「守秘義務は遵守しますのでご安心ください。ご不安でしたら書面にしますか?」
「いや……遠慮しておくよ……」
仕事柄、就業規則や社則書類は見慣れているので特に抵抗はないのだが、首を振られてしまった。
食後の洗い物は「そこまでしなくていいから」といつも免除されているので、代わりに果奈はお茶を入れるようにしている。
何を飲むかはいつも綾子に合わせていて、今日はノンカフェインのコーン茶を出した。とうもろこしの香りがするので、飲んでいるものがコーンポタージュのような気がしてくるちょっとくせになるお茶だ。
少量のお湯に濃く煮出したものを、綾子の分は冷たい水で、鬼嶋と果奈はお湯で割って出す。
いつの間にかリビングではテレビがついていて、淡々とニュースを読むアナウンサーの声がしていた。
お腹が満ちて、温かいものを飲んでいると不思議と気持ちが落ち着くもので、綾子に慰められてしまうくらい意気消沈していた自分を冷静に見直せるようになっていた。
(仕事のことは、もう仕方がない。やることをやっていたらあっという間に時間が過ぎるし、周りの人たちの状況も変わるから、いまここで思い詰める必要はない)
ただ心配なのは、こうして誰もが気持ちを切り替えられるわけではないということだ。
(空調を切り忘れた人物は、やっぱり総務部か事務課の人間だよな)
総務室は最後に退勤する者が施錠する決まりになっている。
施錠後の部屋に入ることができるのはマスターキーを持っている管理職か清掃や警備の人間。朝になって最初に出勤する人間、大抵は林が、警備室から鍵を借り出して解錠している。
はっ、と果奈は息を飲んだ。
(空調の切り忘れと異常な温度設定って、同じ人の仕業か!)
総務室を解錠して空調を入れた林がすぐに気付くくらい、冷たい風が吹き出しているのだ。誰かがいる状態で空調を使用するはずがない。
つまり、一人になったタイミングであの温度設定にしている何者かがいる。
(だったら、その目的は? 空調温度を下げて何がしたかった?)
部屋を涼しく、もとい寒くしたかった。何かを冷やしたかった。空調設備を操作しなければいけない理由があった。色々と想像はできるが、どれもぴんとこないし、上手くまとまらない。
(そもそも、総務部長はどうしてこんなことを注意してきたんだ?)
部屋数の多い社屋は、忘れ物や落とし物、もちろん施錠忘れや、照明や空調の消し忘れはそれなりの頻度で起こっているはずだった。だというのに
「輝ー、アイス持ってきて、バニラのやつ」
果奈が席を立つ前に、洗い物をしていた鬼嶋が手を止めて「ほらよ」とカップアイスを持ってきた。
「うちの冷凍庫はアイス専用じゃないんだけど」
「仕方ないでしょ、暑くてたまらないんだから」
「だったら氷にしておけばいいのに。太るのはよくないんだろう?」
「味気ないから嫌」
そう言って容器を頬に当てる姿は見るからに寒そうだが、綾子はほっと息を吐いて心地よさげだ。
「やれやれ。このままだとお腹の子は暑さに弱いあやしになりそうだわ」
その瞬間。
果奈の中でばらばらだったものが一つになった。
「鬼嶋課長」
「はい」と答えた鬼嶋を真っ直ぐに見る。
一人になったタイミングでの冷房。
寒すぎる温度設定十五度。
総務部長がわざわざ指摘しなければならなかったこと。
総務室の空気が悪くなり、犯人は誰だ、早く名乗り出ればいいのに、と思われている状況で黙っていられる人間はよほど肝が太いか鈍いのだと思っていたが、恐らく、違う。
(名乗り出ないんじゃない。名乗り
そうすることによって、
「弊社総務部ならびに事務課に、配慮を必要とする社員が所属していますか?」
鬼嶋は大きく目を見開くと、どこか観念したように苦笑した。
「――はい」
やはりそういうことだったらしいと、果奈は気付かないうちに強張っていた肩の力を抜くようにそっと息を吐いた。
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