つゆに浮かぶ月

 うどんを茹でるためのお湯を大鍋いっぱいに沸かしつつ、まずはつゆを作る。

 市販品の麺つゆに、顆粒の合わせ出汁とみりんを加えてぬるま湯で溶く。

 そのうち半量は残し、もう半量と二人分の水を片手鍋に加えて火にかける。ついでに残っていたささみ肉をこの鍋で煮てしまう。


(さて、付け合わせは……)


 やっぱりこれだよな、と鬼嶋宅で仕事をする度に常備してしまう、茹でほうれん草のタッパーを開けながら農家の皆さんに感謝する。


(ほうれん草ばっかり食べさせて申し訳ないけれど、色と味といい、栄養といい、お値段といい、便利なんだよなあ)


 続いて大玉のトマトを四つ切りにしておく。皮を剥いた長芋は仕上げ直前にすり下ろすため、酢を入れた水に漬けて待機させておく。

 こういうちょっと面倒な工程、今回の長芋のように後でやればいいものを先に済ませるのは、まな板と包丁はここで出番終了だからだ。使わないものはさっさと洗ってしまいたい。


 片付けたら、くたくたと煮立つささみ肉を菜箸で突いて状態を確認する。


(鶏ささみは……念のためもうちょっと茹でるか。先にうどんを煮よう)


 ぐらぐらと沸騰する大鍋に三人前のうどんを投入し、弱めの中火にしてとろとろと煮る。綾子の胃に負担をかけないよう、少し時間をかけて柔らかめを心がける。


 そろそろかと思い、茹でていたささみ肉を取り出し、箸を使って半分に割って内側まで火が通っていることが確認できたら、皿に上げてしばらく冷ます。


 鍋に残ったつゆは灰汁を掬っておき、細かい肉の破片は可能な限り拾い上げて別にしておく。味見をして、少し薄ければ塩か麺つゆを足すのだが、今日はその必要はなさそうだ。


(うん、美味しい。……美味しいんだけど)


 しまった、うっかり自分の好みで甘めのつゆにしてしまった。

 こればかりは調理担当者の味ということで許してもらうほかない。いまいちであれば次の機会で挽回させてもらおう。


 つゆが完成したのでうどんを茹でていた鍋の火を止めた、そこで、果奈の腹の虫という直感が囁いた。



(――月見うどんが、食べたい!)



 だが生卵も半熟卵も綾子には厳禁。彼女の分だけ具材が少ないと不公平だと言われてしまう。

 しかしあの半熟の黄身がとろりと溢れ出したうどんつゆをいま、啜りたい。


(ゆで卵は時間がかかるからなあ……卵の代わり、卵っぽいもの……妊婦さんが食べられる……なかったら諦めるしかないんだけど何かないか?)


 自炊するという鬼嶋宅のキッチンは基本の調味料はもちろん、メーカーの合わせ調味料やインスタントのソースが揃っており、自社製品の食品や香辛料もある。なので工夫次第では満足度の高いものを提供することも不可能ではない。すべては果奈の腕にかかっている。


(卵……月見……月……丸くて黄色いもの……白玉、いや甘すぎるな、甘くてもいいけれど料理の邪魔にならない程度の……)


 他人のキッチンを荒らしたくないのだが、ふりかけやスープなどの粉類の入った箱や、スナック菓子がストックされた引き出しを開けて唸っていたとき、あっ、とひらめいた。


(これならいける、かも)


 鼻息荒く、うどんを湯切りして三人前に分ける。そのうち二人前に卵を割り入れ、熱々のつゆをそっと回しかけて白身に軽く火が通るようにする。


 三つの器にすり下ろした長芋、ほうれん草、トマト、冷ましていた鶏ささみを千切りながら、掬っていた肉の破片も使って飾り付けていく。最後に綾子の器にだけ、卵に代わるものを載せて、完成だ。


(お、ちゃんと冷製と温製の月見うどんになった気がするぞ)


 自己満足かもしれないけれど、と思いながら綾子の器をリビングに運び「お待たせしました」と声をかけた。


 それを合図にやってきた鬼嶋がキッチンに残っているものを運んできてくれる。分担作業もすっかり慣れたもので、果奈が彼らの箸と自分の客用の箸を机に並べていると、お腹を抱えた綾子が重そうな足取りでやってきた。


「どうぞ、月見うどんです」

「月見? 悪いけど私、生卵は……」

「はい。ですから代わりのものを月に見立てました」


 こちらです、と取り出したるはスナック菓子の袋。


「弊社取扱い商品、『おいしい素材シリーズ さつまいもちっぷす』です」


 おいしい素材シリーズはその名の通り、厳選された野菜や果物をそのまま楽しむことをコンセプトにしたスナック菓子だ。定番はやはりじゃがいもだが、林檎やかぼちゃ、季節限定の柿なども人気がある。

 そして果奈はその『さつまいもちっぷす』の円形と色合いに目をつけたのだ。


(さつまいもを活かした商品だから満月っぽい黄金色。ノンフライかつ塩分控えめで、安心して召し上がっていただけるはず)


 果たして綾子の反応は「発想がすごい」だった。


「私でも食べられる月見うどんを考えてこれが出てくるって! すごいわ、本当に」

「料理は知識と経験とセンスっていうけれど、間違いなく岩田さんはセンスがあるよね」


 鬼嶋姉弟にしみじみと褒められると、さすがの果奈でも照れくさい。


「お、お早めにお召し上がりください」

「ありがたくお早めにいただきまーす」


 いそいそと着席した綾子が合わせていたつゆをぶっかけ、一番乗りで冷製の月見うどんを啜る。


「本当に冷製うどんだ、嬉しい! 美味しい!」


「手間をかけさせてごめんね」と鬼嶋が言うのに「いえ」と答える。食べるならどちらかというと温うどんがいいという自らの欲を優先させた結果の手間なので、まったく問題ない。


「いただきます」


 つゆを啜った鬼嶋の「あ、甘めだ。美味しい」という言葉に、果奈はほっと胸を撫で下ろす。

 ちょっと濃いめのつゆに、鶏ささみから抽出された肉の味が合わさって濃厚になっている。つゆが浸って温かくなったトマトの旨味が溶け出して、ちょっと手間がかかった味わいになっていた。


(うん、いい味。あったかい汁に入るだけでとろろが美味しくなる不思議……)


 本格的に冬になったら山芋の落とし汁を作ろうと心に決める。粘りの強い種類の山芋を、熱々のだし汁に丸くしながら落として団子状にした汁物は、出汁の味わいが染みて寒い季節にぴったりの一品だ。


「鶏ささみが入っていて地味に嬉しい。ちゃんと下味をつけるだけで美味しくなるのね」


 そう言って綾子がぱりんと薄いさつまいもの月を齧る。


「さつまいもチップスの甘塩っぱさが思ったよりも合う! この感じだと他の野菜チップスを載せても綺麗だろうし、美味しいでしょうね」

「勉強になります」


 野菜チップスだと生野菜を素揚げするよりも手間が省けるし、簡単に彩りを足せる。買い出しのときは要チェックだ。


「…………」

「どうしたの、輝。黙りこくって。もしかして苦手な味だった?」

(やってしまった!?)


 口に合わないものを出したのかと焦る果奈だが「いや」と鬼嶋は首を振った。


「この器の中でお月見をしているみたいだなって」



 とろろをかけているから『山かけ』、卵とさつまいもの『お月様』――山と月。



 鬼嶋の説明に果奈は軽く目を見張り、綾子はふんと鼻で笑った。


「あんたって本当にロマンチストよね」

「うるっさいな、だいぶ恥ずかしいこと言ったってわかってるよ」


 本人が言うようにかなり気恥ずかしいらしく鬼嶋は赤い顔を険しくしている。だがせせら笑ったにしては綾子はどこか微笑ましそうにしていて、果奈もまた、いつもの強面の下でほんわかと心を和ませた。


(こういうところがこの人の魅力なんだろうなあ)


 高嶺の花とは縁がないので、この関わりをかなり警戒していた果奈だが、鬼嶋は思っていたより非常に付き合いやすい人だった。こうして一緒に食卓を囲んでいると想像以上に自分が馴染んでいることに気付かされて驚かされる。間違いなく、鬼嶋の人柄のおかげだ。

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