ばらばらの現実

「……それで、週が明けても結局名乗り出る人はいなかった、と」


 翌週、果奈は退勤後、もう一つの仕事であるまかない作りのため、鬼嶋宅の綾子のもとを訪れていた。


 以前鬼嶋からもちらりと聞いていた、綾子の体温調節が上手くいかない症状は継続中らしい。この季節なのに長袖のシャツとゆったりした幅広のパンツという格好だった。

 こうした予測不能な症状と身の安全のため、外出を最低限にしていて退屈しているらしい綾子は、果奈がやってくると頻繁に「何か面白い話なーい?」と聞いてくる。守秘義務があるので業務に関わることは言えないが、身内だからと鬼嶋にはお目こぼしをいただいて、人間関係やちょっとした事件の話題を提供していた。


「空調って結局壊れていなかったのよね?」

「はい」


 尾田の感情の波が落ち着いたタイミングで林が空調設備が故障している可能性を伝え、業者に点検してもらったが、問題ないという結果だった。だがそのせいで空調の異常な設定も人為的なものだと考えた尾田がますますヒートアップしてしまったのだ。


「じゃあギスギスしているんじゃない? こいつが犯人に違いないって噂になっていそうだし、ますます名乗り出られる状況じゃなさそうね」


 その通り、現在総務室の空気は過去最高に悪い。

 尾田が在室していなければそれほどでもないが、それ以外は尾田が苛立ちを隠さないまま仕事をしており、その理不尽を受けた誰かが黙秘を続ける人物に怒りを募らせ、別の人間が被害を受けて怒り、という悪循環なのだ。

 果奈は息苦しさを感じていても「仕事だから」「やることをやるだけだから」と何とか耐えていられるが、転職してきて半年経つかどうかの今田や、総務部の新入社員はずっと顔色が悪く、さすがの岬も大声が聞こえる度にびくついて騒ぎの元凶を睨んでいるような状態だ。


「別の事件が起きればいいんじゃない?」と綾子は言うが、とんでもない。これ以上のごたごたはごめんだ。


「果奈ちゃんは誰がやったんだと思う?」

「誰でもいいです。こうなったら最後まで黙っている方が本人の身の安全と仕事の環境を守ることに繋がると思います」


 仕事をしてくれればそれでいいです、と呟く。


「正直、いま人間関係をこじらせて長期休養に入ったり退職されたりするとその仕事が全員に降りかかるので、現状維持で頼む、という気持ちです」

「あらあら、ずいぶんお疲れねえ」

「っ」


 よしよし、と綾子に頭を撫でられて一瞬身体を固くした果奈は、緊張を緩めながら深々と疲れた息を吐いた。どうやら自覚していたよりもだいぶ疲れているらしい。


(……色々なことがばらばらと起きていて落ち着かないんだよな。みじん切りにした材料がまったくまとまってくれないみたいな、つなぎが入っていない感じ)


 空調の切り忘れ。

 ブチ切れ状態の尾田。

 ぎこちない総務部と事務課の社員たち。

 異常な温度設定で運転されている冷房。

 終わりの見えない作業量の仕事。

 仕事に不慣れた後輩たちを気にかけつつ、上司や他の社員との折衝に入ること。

 もちろん年末にかけての通常業務や年度末を見据えた仕事もある。


 こうした複数の仕事が重なりに重なって目が回る時期は一定の周期でやってくるものだが、一つ一つが解決していくか、時間が経つのを待たなければならないのが何とも厄介だった。


「……なに可愛いことやってるの?」

「っ!?」


 垂直に飛んだのは、部屋着になった鬼嶋がキッチンを覗き込んでいたからだ。


「かっ、かっ……!」


 見られた。子どもみたく撫でられているところを。

 羞恥心で何も言えなくなっていると、綾子が鬼嶋に近付いて長い足の下の方を「がすっ!」と蹴り飛ばしたものだから、今度は声もなく蒼白になった。


「痛っ。妊婦が人を蹴るなって」


「蹴られるようなことをしたあんたが悪い」と暴力で訴えることを厭わない綾子は抗議する実弟ににべもなく言い返す。


「上司なんだからしっかりしなさいよ。果奈ちゃんが疲れちゃってるじゃないの」

「それは……はい、ごもっともです」


 ばちっと鬼嶋と目が合って、果奈は反射的にぶるぶる、ぶるぶるぶると首を振った。


「負担をかけて、本当に申し訳ない」

「とんでもございません」


 忙しいし疲れているのは本当だが、その果奈たちをまとめたり他の部署や上役との間に入ったりする鬼嶋も当然多忙なのだ。誰かのミスで同じように、もしかしたらそれ以上に仕事を負う彼を誰が責められよう。


(タイミングが悪すぎただけなんだよな。これが昨年なら事務課長も麻衣子も異動前で、人が少なくても何とかなっただろうけれど)


 鬼嶋一人が優秀だったとしても、事務課の仕事は回らない。したがってこれは在籍の長い果奈の、岬と今田に対する指導不足と言える。


(あ、やばい。落ち込んできた……)



 笑って、優しい声で、もっと上手く伝えられたら。選べる言葉を持っていたら。


 自分の苛立ちや怒りや悲しみを飲み込んで、相手に尽くせたら。



(ああでも)



 そうすることで嫌な思いをしたり。

 損をした気分になったり。

 誰かを嫌いになったり。



(したくはないんだよ、なあ……)


 ぽん、ぽん、と大きな手が頭に触れた。


 鬱々と沈み込んでいたところを掬い上げられて果奈は呆然とし、一瞬遅れて勢いよく顔を上げたが、そのときにはすでにその手は離れて、鬼嶋は「姉さん」と後ろにいた綾子に声をかけている。


「今日は何作ってもらうの? ……なに、その顔」

「別に? 見ているだけだもーん」


 そのおかげで果奈のかちこちの赤い顔を直視されることはなかったが、これ以上恥を晒してはならないと、鬼嶋から顔を背けるようにして冷蔵庫の扉に張り付いた。


(ええと、これが噂に聞く、頭ぽんぽん、とかいうやつ……?)


 なんというか。思い込みで人に接するべきではないとはわかっているけれども。何故だろう。


(私がイメージする鬼嶋課長より、ちょっと距離が近い、ような……)

「ねえねえ、果奈ちゃん。冷たいものと温かいものが同時にできる料理って何かある?」


 朗らかな声にはっと我に返る。

 鬼嶋の後ろからキッチンを覗き込むようにしながら、綾子が唇を尖らせている。


「私は冷たいものがいいんだけど、輝は温かい方がいいって言うのよ。わがままなやつよねえ?」


「どっちがだよ」と鬼嶋が言うが綾子が少数派なのは間違いない。いくら室内が適温に保たれているとはいえ、果奈も鬼嶋も羽織ものを手放せずにいるのだから。


「冷たいものと温かいものですか……」


 ふむ、と冷蔵庫を開けて考える。

 何であれ、生きるためには仕事をしなければならないし、そのためには食べなければならない。

 それが美味しいものならなおいいと思ったから、果奈の趣味は料理になったのだ。


(冷たい料理といえば、サラダ、麺類、豆腐。汁物もありといえばあり。カルパッチョは生物なので除外。お寿司はお刺身を使わなければセーフ)


 冷製の料理はさほど多くない。麺やご飯などをベースにして、具材や味付けのバリエーションがあるくらいだろう。


「岩田さん、手間になるから綾子に合わせてやって。温かいものが欲しければ自分で作ればいいだけだから」

「いえ、給料が発生している以上、可能な限り対応させていただきます」


 まったく違う料理を出せば要望に応えられるが、食卓に料理が並んだときに綾子だけ疎外感が出てしまうので、できれば避けたい。鬼嶋の主張も同様だ。 


(冷製でも温製でも食べられるものといえば?)


 数秒間吟味して、まあこれが無難だろうと、思いついたものを口にした。


「うどんでしたら冷たいものと温かいものを同時にお出しできると思いますが、いかがですか?」

「じゃあそれでお願い」

「岩田さんが大丈夫なら、よろしくお願いします」


 綾子の了解と鬼嶋の頷きをもらって、作業開始だ。

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