運のない日

 就寝前に麻衣子から届いていた、二次会の話と、やっぱりわざと遅刻してきた可能性の高い岬の計算高さを愚痴るメッセージをデジタルスタンプでいなして、明日の仕事も頑張るための儀式を終えて眠りについた、翌日。


 出社して総務部室事務課の自席に落ち着こうとした果奈は、『総務部のお母さん』こと林祥子が空調の操作パネルを前に腕組みしているのに気が付いた。


「おはようございます、林さん。どうかされましたか」

「ああ果奈ちゃん、おはよう。うん、ちょっとね……」


 濁すように言った林は、思い切ったように果奈を見つめ、声を落とした。


「……エアコンの設定温度が勝手に下がることってあると思う?」


 そう言われて『20度』の暖房になっている操作パネルを見ると「さっき戻したんだけどね」と林が続けた。


「私はここで最初か二番目に出社するでしょう? 鍵を開けて、コーヒーメーカーと電気ポットをセットして、空調を入れて……」


「いつもありがとうございます」と思わず感謝が口をつくが、本題はそのことではないらしく首を振られてしまった。


「そうしたら、寒くって。見たら設定が『冷房』の『15度』になっているのよ」

「冷房?」


 暖房の十五度ではないらしい。だが夏場の冷房は二十五度に設定しているので、どちらにしても低すぎる。


「操作を間違えるにしてもおかしいし、しばらく使っていたら寒くて絶対に気付くでしょう? でも最近頻繁にそうなっているから、もしかして壊れているんじゃないかと思って」


 頻繁に、となると確かに誤操作や悪戯ではない気がする。故障かもしれない。


「業者さんに連絡しましょうか」

「点検に来てもらったばかりだけれどそうした方がいいかもしれないわね。尾田課長に言って、電話しておくわ」


 そんなことを話していると、ちらほらと出入りしていた社員たちが席に着き始める。

 始業時間を迎えたので、果奈と林もそれぞれに着席して仕事を始めた、その三十分後。


「総務部、事務課、緊急ミーティングだ!」


 尾田総務課長が真っ赤な顔で総務支部室に怒声を轟かせ、作業中断を余儀なくされてしまった。


(なんだ、いったい?)


 みんな何があったのだろうという顔をしているが、誰も声を発しない。尾田をこれ以上不機嫌にさせると、まったく違う事柄で叱責されたり、緊急性の低い雑務を課せられる可能性があるからだ。

 尾田の後ろから鬼嶋も現れ、果奈たち事務課社員に椅子を持って総務部のデスクに集まるように告げる。今田は連絡があって急病で欠勤だったため、岬を連れた果奈が総務部の後方に着席したのを確認して、鬼嶋は尾田に「お願いします」と声をかけた。


「――先ほど、総務部長からご指摘があった」


 日頃の怒声を思えば空恐ろしい重々しさで尾田が口を開いた。


「ここ数日、総務室の空調の消し忘れが続いているという。報告書を提出するようにとのことなので、心当たりのある者は速やかに申し出るよう」


 空気がざわっとした。誰も声を発さないが近しい者に目配せして「その程度のことで?」「誰か心当たりある?」と確認しあっている。

 果奈は鬼嶋を見たが、彼は上役としての静かな表情で立っていて、昨夜の問いと関係があるかどうかを悟らせない。

 続いて、林を見る。かすかに首を捻っている彼女は、空調が壊れているらしいことと関係がないか、それを尾田にどのタイミングで指摘しようか考えているのだろう。点検が行われてさほど経っていないから、故障と指摘しても尾田が聞き入れてくれない可能性があるのだ。


「そのくらいのこと、なんて思うなよ!」


 緩みかけた空気を察知した尾田が吠えた。


「コピー用紙の無駄遣い、文房具など消耗品の必要以上の発注、また! 社内パソコンの私的利用!」


 岬をはじめとした心当たりのありそうな数名が尾田に睨まれて身じろぎした。


「のびのびと仕事をするためだと思って多少のことは見逃してきたが、部長から指摘を受けた以上、規律を正す必要がある。したがって総務部ならびに事務課の業務改善を図るべく、総務室の整理整頓、業務マニュアルの作成、ノー残業デーの設定を命じる」


(げ)と思ったが、果奈の長所は、強面のおかげで多少嫌な顔をしても表情が変わらなく見えるところだ。


(……担当業務をマニュアル化すると仮定すれば、私の……割合が……)


 鬼嶋と岬は今年度から事務課に所属、今田は少し遅れて配属された中途採用社員なので、在籍が長い果奈が最も多くの仕事を担当している。仕方のないことだが、がっくりしてしまった。

 すると鬼嶋が一同を見渡して言う。


「業務量が増えて大変だけれど、弊社は異動も多いし、在職の長い人だけに負担がいかないための準備だと思って取り組んでもらいたい。……まあ、私が言うなという感じだけど」


 鬼嶋の苦笑に密やかな笑いが起きて、わずかにうんざりした空気が軽くなる。


「私はここでは二年目の下っ端だけど、マニュアルを見ながらならできる仕事が増えれば、もっと助けられることがあると思う。マニュアル作成が負担になるならまた話し合っていこう……ということでよろしいですか、尾田課長?」


「通常業務が滞ると本末転倒だからな」と尾田は腕を組んで頷いた。


「いいか、くれぐれも今回の件の犯人探しはしないように! 心当たりのある者が自主的に申し出るのなら、空調の件はこれで終わりだ」


 以上、と尾田が申し渡して緊急ミーティングは終了となった。

 だが総務部と事務課、それぞれのノー残業デーとマニュアル作成の担当、デスクを中心にした室内の清掃日を決めるための会議が始まり、息を吐く間もない。


 結局果奈が昼休憩を取れたのは規定の時刻よりも一時間遅れてのことだった。


(鶏ミンチハンバーグ弁当じゃなかったら死んでいた……)


 会議によって押してしまった通常業務をある程度片付けるために後ろ倒しになったお弁当タイムだが、こういう事態を見据えて備えていた昨夜の自分に拍手を送りたい。


(鶏のミンチ肉と豆腐を合わせたさっぱりハンバーグに、隠し味の味噌の甘さがきいた照り焼きソースは、美味い)


 肉料理はもちろんだが、果奈の中で照り焼き料理のトップだと言っても過言ではない鰤の照り焼きを作るときにも使えそうだ。隠し味は味噌、と心の中でメモしておく。


(ポタージュスープは濃厚なのもいいけれど、お弁当のときはさっぱりさらさらしている方が食べやすくていいな……具を変えると味も変わるし……トマト、粉チーズ、厚切りベーコンもありか……?)


 今日のお弁当の内容をメモに入力しがてらスマホを確認すると、麻衣子からメッセージが来ていた。

 先日の飲み会の男性参加者から連絡は来ているか、ないようなら次回の予定を確認する内容で、大きく『×』を掲げた猫のデジタルスタンプで返信しておく。


 休憩時間が終わるのでロッカーにランチバッグを戻し、総務室に行くと、岬はまだ戻っていないようだった。かと思ったら給湯室から「ちょっとぉお!」と可愛らしいパンプスの踵をどすどすと踏みつけるようにして現れた。


「誰ですか、冷凍庫にアイス詰め込んでる人! あたしのバームクリームを入れるところがないじゃない!」


 総務室の冷凍室付き冷蔵庫は総務部と事務課の共用だ。岬に睨まれた果奈は「違います」と答え、総務部の面々も次々に首を振る。


「じゃあここにいない今田ですね!? なんなの、あいつ! どんだけアイス食うつもりなんだよ……!」


 欠勤している今田にぶつぶつと悪態をついて、岬は給湯室に戻っていく。今田の代わりに仕事をしなければならない日にマニュアル作成など面倒な仕事を増やされて、ずいぶん機嫌を悪くしているようだ。


(……今日決まったこと、冷蔵庫の件も含めて、鬼嶋課長から今田さんに伝えてもらうか……)


 アイスクリームが今田の私物とは限らないが、このままだと岬が彼女を不必要に攻撃しかねない。鬼嶋が伝えたのなら岬も文句を言うまいと考えると同時に、しばらく自分を鼓舞するためのお弁当が必要になりそうな予感を覚えた。


 その三日後、悪い予感が的中し、空調を切り忘れたことを申し出る者がおらず、そのためしばらく空調の利用は認めないという尾田の怒声が轟いて、果奈たちはうんざりとしながらその一週間を終えたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る