上司と部下の面談
散々なランチミーティングが終わり、残りの休憩時間を過ごした後、午後の業務が始まってすぐ岬が鬼嶋に呼ばれていった。
果奈は残った今田と二人で粛々と仕事を進めていたが、どうも調子が出ない。時間配分や作業の優先順位の判断力が鈍くなっている気がする。
(……無理やり完食したのが悪かったか)
お残しなどもってのほかと意地になって胃袋に収めたが、消化不良を起こしているようだ。お腹と胸が重苦しい。
しかしそれでも仕事のメールは送らねばならないし、外線も内線も鳴るし、総務部から問い合わせも飛んでくる。調子が悪いなどと言っていられないのが社会人の辛いところだ。
するとそこへ、軽い鼻歌とともに岬が戻ってきた。「岩田さーん」と呼びかける声は怪しいくらい上機嫌だ。
「鬼嶋
「……わかりました」
引き継いでおかなければならない事項がないことを確認して、総務室を出た。
いくつかのワークブースでは、他の社員がノートパソコンを前にオンライン会議中だった。そうした気配がわずかに遠くなる一番奥の個室に、鬼嶋の姿があった。
「失礼いたします」
「どうぞ」
どういう状況でも上司と二人きりで話すのは緊張するものだが、注意と叱責を受けることが確定している今回ばかりは、果奈の心臓は苦しいくらいに鳴っているし、胃は気持ち悪いし、意識しなければ視線が下がってしまう。
「わざわざ来てもらってごめん。仕事の方は大丈夫だった?」
果奈に椅子を勧める鬼嶋はいつもと変わらず柔らかい態度だが、それがなおのこと果奈を責め立てる。
「はい。至急を要するものはなかったので、問題ないと思います」
「そう、よかった。じゃあまずは、どういう状況で岬さんとトラブルになったのか聞かせてもらえるかな」
そうなるだろうと思っていたので、頭の中で整理していた内容を音読するように話す。感想ではなく事実を、言い訳ではなく説明をするためだ。
「……以上のように私は認識しています」
「ありがとう、よくわかりました。その上で注意すると、外部のお客様も利用する場所でああしたやりとりをするのはよくなかったね。岩田さんなら、理解していると思うけれど」
「はい。岬さんにも、お客様方にも、ミーティング中の皆さんにもご迷惑をおかけいたしました。申し訳ありませんでした」
「またトラブルになるようなら、こちらからも改めて働きかけるけれど、今回は『時と場所を選んでください』と言うだけにしておくからね。岬さんにも伝えたけれど、岩田さんも、気を付けるようにしてください」
「はい。申し訳ございませんでした」
着席したまま頭を九十度に下げた、果奈の頭上に「……そうは言っても」と苦く笑う声。
「先輩だから、年上だから、ってどちらかというと岩田さんの方に我慢を強いることになるんだけどね。岬さんの服装や言葉遣いは私も折々に注意しているんだけど、なかなか響かないらしくって。尾田さんの言うように優しく言い過ぎているのか、舐められているかのどちらかなのかもしれないね」
(まじかよ)と果奈は頬を引きつらせる。
異動直後からだいぶましになったとはいえ、動きづらい、華美でときには薄着だったり露出が多かったりする服装を、鬼嶋が注意してまだああだとは。肝が太いのか鈍感なのか、どちらにしても想像以上によろしくない態度だ。
「彼女も配慮が必要な……」
「いや、今田さんとは違う」
今田は暑さに弱く寒さを好むあやしで、会社にいるときはなるべく周囲から浮かないようにしているが、この晩秋でも七分袖だったり半袖にカーディガンを羽織るなどして比較的薄着だ。
期待をかけたがぴしゃりと否定されてしまい、果奈はうっすらと頭痛を覚えた。華美な服装を必要としないただの人なら、岬のこだわりは果奈が考えているよりずっと厄介なものなのかもしれない。
「岩田さんの、岬さんへの注意だけれど」
正しく思い起こそうとするような慎重さで鬼嶋が言う。
「不思議な言い回しだったのは、何か気になることがあるからかい」
スマホのことを考えた。
けれどいまは手ぶらだ。業務中なのでデスクの引き出しの中に入っている。
そして明確なトラブルに発展していない現状、言えることは何もない。
「個人的に思うことがあるだけです」
「じゃあ今日遅れてきたのは何かトラブルがあったから?」
流れるように切り替わった話題に反射的に鬼嶋を見てしまった。
色素の薄い綺麗な瞳から目を逸らしたい衝動に耐えつつ「いいえ」としっかりはっきりと答える。
「開始時刻の確認を怠りました。申し訳ありません」
「他にもこの半月ほど、議事録や稟議書の締め切り、会議の日時を把握できていないように思うんだけれど、それも確認不足なのかな」
無愛想な顔面で無表情に頷く。
提出書類の締め切りが事前に聞いていたものと違っていたり、会議の日や時間が変更になっていたり、果ては給湯室に置いている社員の私物のうち果奈のカップが見当たらなくなっていたり切らすはずのないお茶や砂糖がなくなってしまっていても。
誰がミスをしたのか、移動させたのか。それが意図的なのかどうなのか。明らかにするだけの証拠は何一つない。
「確認を怠った私のミスです」
だから果奈はこう伝えるほかないのだ。
失くすと困るものは共用スペースには置かないようにし、日程が変更になったらすぐ気付けるようメールなり参加者に確認を取るなりして自衛する。
疑心暗鬼にならないよう気を付け、たとえ犯人に目星がついたとしても現行犯でない限りじっと黙っている。
名前のごとき岩のような態度に、鬼嶋は困ったような、笑っているような小さな息を落とす。
勤務時間外ならそうでもないが、上司の顔をしている彼が気落ちしているのは珍しく、膝の上で重ねていた両手に知らず力が入っていた。
「岩田さん」
「はい」
「自分がすべて悪いんだと言ったところで何の解決にはならないことは、理解しているよね」
正論すぎる指摘に全身がぎゅっと強張る。
トラブルや問題のある人間を隠して、いいことはない。今後のことを考えるなら庇うよりも早めに対処した方がずっといい。
わかっているのにそうしているのは、
「……はい」
そして、負けてやるものか、と堅く固く思ってしまうからだ。
(いまは楽しくてもどうせすぐに飽きる。そして忘れる。けれど遠からず自分の言動の危うさを自覚せざるを得ないようなトラブルに巻き込まれるんだろう)
ポケットの中を、そこに収まるはずだった、いまも引き出しの中でサイレントにメッセージを受信しているであろうスマホのことを思う。要返信のメッセージがそれらに埋もれていなければいいけれど。
「手強いなあ、岩田さんは」
「強情だとよく言われます」
「ううん、そういう意味じゃなくて」
だったらどういう意味なのかと目を上げれば、背もたれに身体を預けるようにした鬼嶋が遠くのものを思うように淡く微笑していた。
「頼ってほしいのに頼ってもらえないなあ、と」
どういう気持ちで受け止めればいいのか。
何度か目を瞬かせ、視線を斜め下に落として、色々と顧みる。
「……すでに頼りすぎている、と思います」
「え?」
そうだ、その通りだと、自らの言葉に後押しされて果奈は大きく頷いた。
「私は平社員なので、トラブルが発生したときやどうにもならない状況下では鬼嶋課長に頼らざるを得ません。その他にも、念のためにと報告の必要のない事柄も伝えてしまっている気がして、常々甘えてしまっていると反省していました」
丸くなった目でまじまじと見つめられて、しばらく。
ふ、と鬼嶋が「だったら」と静かな笑みを零した。
「岩田さんが、誰かに言う必要がないと思うことを話してもらえるようになりたいな」
(……それは)
頼ることになり得るのだろうか、と訝しく思ったところで鬼嶋が「さて」と座っていた椅子を引いた。
「結論は『仕事上の注意や異論を唱える際は時と場所を選ぶこと』『トラブルになる前に相談してください』ということで。そろそろ戻ろうか」
「はい。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
椅子の上で一礼してから立ち上がると、何故かくすっとしている鬼嶋がいた。何か、と尋ねると首を振られる。
「岩田さんのそういう礼儀正しいところ、すごくいいと思うよ」
そういうものだと思ってやっていることを真面目すぎると笑われたことはあったけれど、好意的に褒められた記憶はなかったので面食らった。
同時に、こうした言動が、鬼嶋が見た目だけでなく人格に優れた人物である証がなのだと感じた。
「今日、来る日だったよね?」
今夜は綾子のまかない作りの仕事日だ。
退勤後に鬼嶋宅に伺う予定だが、それを万が一、億が一でも誰かに知られると大騒ぎになるので、声を落として「はい」と答えた。
「ありがとう。よろしくね」
何でもない笑顔に、胸の奥でほっと温もりが灯る。
その感情の動きに果奈自身が戸惑った。
(ちょっと待て、どうしてほっとしているんだ私は)
確かに食事作りは面白い仕事ではあるけれど、安心するのは違うだろう。
困惑しながら総務室の自席に戻ったが、何やら落ち着かず、しばらくもしないうちにお茶を求めて給湯室に向かった。
「さいあくでしょー? もう、なんでまなみがっていう」
岬の声が聞こえて足を止める。
「むかつくかもしれないけど自業自得じゃん? まなみにそうさせる原因が自分にあるって絶対思ってないんだよ。本当、どうしようもないわあ」
(……他に声が聞こえない、ということは、電話か)
業務時間中に私用の電話とは。相手はいつも一緒にいる女性社員たちのうちの誰かだろう。よほどランチミーティングのときのことが腹に据えかねているようだが、そういうところですと言ってやりたくなっている果奈も自覚していたより腹が立っているらしい。
「言ったと思うけど飲み会のときもまなみ、めちゃくちゃ頑張ったんだよ? だって来てくれた人たちに悪いじゃん? 今日のランチミーティングもそう。なのにあの人は……」
(……多目的フロアの自販機で何か買うか……)
岬が立ち去る気配がないので、仕方なく反転する。
「……うん、期待して損したあ。中西さんが幹事の割にはいまいちでさあ。近くで見ると中西さん、思ったより、だったし。……あっそういえば知ってる? あの人、常にバチバチにキメてるくせに石付きのアクセサリー、全部イミテーションっぽいよ。ダサくない?」
価値観や考え方が相容れない人間とまともに向き合うことなかれ。
あはは、くすくすという悪意が込められた笑い声に背を向ける。
それでも会社という組織に属している限り、もっと言えば社会の一員である限り、関わらないわけにはいかない現実に否応なくため息が出てしまった。
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