帰り道1
「二次会は」
「ご馳走様でした。失礼いたします」
居酒屋の会計を済ませ、さて次は、という気配を感じ取った果奈は先んじて一同に告げると、軽く会釈して駅に向かった。
山村が追いかけてくる可能性もあったが、背後から「山村さぁん、まなみ、二次会はカラオケがいいなー」という声が聞こえたので、恐らく反対方向に向かっただろう。てっきり飽きて帰ると思った岬は、どうやら山村に狙いを定めたらしい。山村とて無愛想クイーンより愛想のいい岬の方がいいに決まっている。
幹事役の麻衣子には「お疲れ様。また明日」とメッセージを送り、ふと綾子のメッセージに返信し損なっていたことを思い出した。
時刻は午後八時過ぎ。まかないの仕事の日だったなら、お茶をいただいてそろそろお暇しようかという頃だ。
(まだ八時だからな……一応、電話してみるか……?)
普段ならメッセージを選ぶところを、電話をかけたのは、少し心が疲れていたからなのかもしれない。
通話を選択してしばらく。コール音が続くばかりで反応がない。
(……席を外しているのか。それならメッセージを送っておくか)
送るべきメッセージの文面を考えながら通話終了のボタンに触れようとしたとき、ボタンに触れる前に中途半端なタイミングでコール音が切れた。
(……ん?)
『……はい。岩田さん?』
綾子の声とは別物の低い美声に、果奈はぎょっと息を飲んだ。
「き、鬼嶋課長?」
思わずスマホの画面を確認するが、通話先は鬼嶋ではなく綾子になっている。間違って電話をかけたわけではないが、思いがけなさすぎて声を出せずにいると、端末の向こうから苦く笑う密やかな声がした。
『ごめん、びっくりしたよね。綾子、いま風呂に入ってて。岩田さんから電話だって伝えたら俺に「出て」って言うから、出ちゃった』
(『出ちゃった』ってそんな、可愛らしく言われても)
果奈を臨時雇用主である九条綾子は、現在実弟の鬼嶋のもとで仮暮らしをしている。したがって家主の鬼嶋が声がすることは決して不自然ではない。不自然ではないのだが、非常に心臓に悪い。
「そ、そうでしたか。あっ、お疲れ様です、夜分遅くに申し訳ありません。岩田です」
『お疲れ様です、鬼嶋です』といまさらな挨拶に鬼嶋は静かに笑いながら応じてくれる。普段から穏やかな人だが、プライベートな時間帯だといつもよりさらにその声が優しい。
『今日飲み会だって言っていなかったっけ。どうしたの、何かあった?』
「いえ、もうお開きになって帰宅しているところです。綾子さんからご連絡をいただいていたので、お食事に問題なかったかお聞きしたくてお電話いたしました」
鬼嶋が一瞬黙った。
『……帰り? いまどこにいるの?』
「店を出て駅に向かっています。最寄り駅は……」
近辺の会社の勤め人ならだいたい何らかの会で利用する飲食店の多い繁華街なので、駅名を伝えると鬼嶋にもわかったらしい。
『それじゃあ、駅で待っていて。すぐ行くから』
今度は果奈が一瞬黙った。
「……はい?」
『十分くらいで着くと思うけれど、心配だからコーヒーショップかファストフード店に入ってて』
そう告げる声の向こうで、がちゃがちゃ、という金属音がする。もしかしなくてもこれは鍵を手にした音ではないか。
『ああ、綾子。岩田さんがいま帰るところらしいから、ちょっと送ってくる』
『いってらっしゃい。くれぐれも安全運転でね』
(運転!?)
まさか自家用車を出そうとしているのか。
「こっこちらにお越しいただかなくても大丈夫です、帰宅するだけですから!」
『それじゃあ岩田さん、綾子にスマホを返すから一旦切るよ。連絡は俺の方に寄越してね』
綾子と話すのにスマホを遠ざけていたのか、それともわざと無視したのか。鬼嶋相手では判別がつかず、果奈が何か言う前に、ふつっと音が途切れて通話が終わっていた。
(と、とりあえず、鬼嶋課長を止めないと)
そこへ見計らったように綾子からメッセージが飛んできた。
『輝におつかいを頼んだところだったらちょうどよかったわ。
車を出すみたいだから送られてあげて』
『少々お待ちください』と頭を下げる小狐のデジタルスタンプ付きだった。
(ああ、もう、そんなつもりはなかったのに!)
綾子がこう言ってきたら、鬼嶋は果奈を送り届けなければ自宅に帰ることはできない。姉に振り回される上司を思い、果奈は自分の間の悪さにがっくりと肩を落とした。
何にしても、暗い夜の街の酔っ払いやたむろする未成年が多い場所でぼんやりしていたくはなかったので駅近くのコンビニに入って時間を潰す。頃合いを見て買い物をしたところで鬼嶋からメッセージが来た。
『着きました。駅前の有料駐車場にいます』
(本当に来てしまった……)
未だ信じられない気持ちで指定された駐車場に入る。
真明るい照明の光を受けながら眠る冷たい乗用車たちの間できょろきょろしていると、通り過ぎた車のエンジンのかかる音がした。
(あ……)
どきっとした。
運転席に座っていた鬼嶋が、果奈に向かってひらりと手を挙げていた。
顔の美醜にこだわりがない果奈でも狼狽するほど、そういう仕草が様になるのが鬼嶋輝という人なのだった。その人間離れした美貌と抜きん出た有能さは彼自身の血に由来する贈り物であることを、いまの果奈は知っている。
(落ち着け、ただの上司と部下、雇用者と被雇用者だから。単に嫌われていないというだけだから)
早足で近付いていくとドアのロックが解除される音がしたが、あえて先に運転席側に近付いていって声をかけた。
「お疲れ様です、鬼嶋課長」
「お疲れ様です。どうぞ、乗って」
抵抗する術を持たない果奈は仕方なく流れに乗る形で、鬼嶋の自家用車に乗り込んだ。
車について不勉強な果奈には詳しくわからないが、淡いグレーの普通乗用車は年齢や役職に見合ったクラスのものなのだろうと思う。内装パーツはほとんどいじっていないらしく、飾り物もない。非喫煙者なので気にならない程度の芳香剤の匂いがする、自宅と同じ印象の車だった。
「自宅の住所か、一番近いコンビニを教えてくれる?」と言われ、シートベルトをしながらコンビニの店名を伝えると、鬼嶋はカーナビの入力を終えて車を発進させた。
無料時間内で駐車料金は発生せず、支払いのやり取りが発生しなかったことにほっと胸を撫で下ろす。こういうときの鬼嶋は決して果奈に支払いをさせない人だからだ。
「本当に申し訳ありません。送迎していただこうと思ってご連絡したわけではなかったのですが、余計な手間をおかけしてしまいました」
些少ですが、とコンビニで買った加糖のカフェオレとスイーツの入った袋を渡すと、鬼嶋のお気に召したらしく「ありがたくいただきます」と受け取ってもらえた。
「ここで飲んでいいかな? 綾子が嫌がるからコーヒーは外に出ないと飲めなくて」
妊娠中の綾子にカフェインは厳禁なので、家を提供している鬼嶋は図らずも食事制限に巻き込まれている。もちろん「どうぞ」と答えた。
ラジオのついていない車内には夜道を走り抜ける音だけが聞こえていた。長年の積み重ねで無愛想が極まりつつある果奈には鬼嶋を楽しませられるような話題が思いつかず、したがって呼吸音をも潜めてじっと正面を見ているほかない。
「飲み会、どうだった? 楽しかった?」
結果的にこうして鬼嶋が当たり障りのない話題を振ってくれる。
しかしその問いにはっきり頷くのは違う気がして、かすかに眉を寄せて答えた。
「料理が美味しかったです。ふかふかの白身魚とふわふわの烏賊の天ぷら、味噌だれのつくね、明太子チーズのだし巻き卵……メニューが豊富な居酒屋でした」
「聞いているだけでお腹が空くなあ」
油と塩気ががっちりスクラムを組んでいるようなメニューだ。健康と引き換えにするだけあってその味は折り紙付きだった。
「こっちはこっちで美味しいハンバーグをいただいたよ。ごちそうさま」
「お、お粗末様でした……」
それが何を意味するのか、数秒遅れて理解してへどもどと言う。
綾子のまかない係の仕事には、家主である鬼嶋と果奈の食事を作ることも含まれている。
今日のように綾子が作り置きを食べるなら、鬼嶋は外食してもいいはずだが、彼は律儀に姉に付き合っているのだった。それが果奈には気恥ずかしくて、落ち着かない。
「あ、綾子さんのおつかいは大丈夫ですか?」
「……おつかい?」
慌てて話題を振ったが、何故か鬼嶋はきょとんとした。わずかな間の後、ああ、と納得したように言う。
「うん、コンビニでアイスでも買って帰るよ。今日
(アイス、って)
コートを欲する気温と日付を思ったが、理由を聞いてなるほどと思った。
(あやしだもんな。食欲不振の次は、謎の体調不良か)
妖怪やもののけと呼ばれる者の血を引く人間、それが、あやし。
とてつもない美形と祖先に由来する特殊能力のほか、体質など未知数の部分が多い存在なので、お腹に子どもがいるあやしの綾子は本人にも予想できない様々な不調に見舞われていた。果奈がまかない係の仕事を始めたきっかけも、特定の人間が作った食べ物でなければ受け付けない食欲不振の症状だった。
「綾子さんに、くれぐれもご自愛くださいとお伝えください。お食事のリクエストがあればお応えできるよう尽力しますので」
「ありがとう。伝えておくよ」
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