色気か食い気か2
『別れたいって言われて、なんでって聞いたら、自分の兄ちゃんと同じ名前だからって。ずっと我慢してたけど生理的に無理って。ひどすぎません!?』
(うーん、それはなかなかだな)
居酒屋の半個室で、隣室から漏れ聞こえてくる話は、何故かいつも面白い。
壁の上下部分が空いているのに他の客の姿が見えないせいか、酔客の声はどんどん大きくなる。下世話な話題やくだらない話も多いが、お笑い芸人顔負けのトークを繰り広げるグループ客もいて、行儀が悪いのは承知の上でつい耳を澄ませてしまう。
今日のようにつまらない飲み会のときは、特に。
「あ、グラスが空ですよぉ。店員さん呼びますねえ」
「ありがとう! 愛美ちゃんは? 何飲む?」
「えーどうしようかなぁ。まなみ、お子様だから甘いやつがいいなあ」
「ご飯も頼みなよ。後から来たんだし、お腹空いたでしょ」
「えーそんなぁ、悪いですよお。迷っちゃったまなみが悪いんだしぃ」
(あざとい)
そのくねくねした動きと舌足らずな話し方と、過剰なボディタッチはどこで学んだものなのか。独学だとしたら、正直ちょっと気持ち悪い。
そう思いながら果奈がちらりと横目で見た麻衣子は、にこにこしながら「好きなものを頼みなさい」と岬に声をかけ、岬は「やーん、中西先輩やさしー」と身をくねらせる。
(私が支払うわけじゃないけど)
(奢る気なんてねーくせに)
見えないところでそんな駆け引きが繰り広げられているとは思わないのか「姉御かっこいー!」「楽しそうな会社で羨ましいわ」と男性陣から声が上がる。不動産会社の営業の三人だというので、人の心の機微に聡そうなものだが、適度に鈍感でなければ上手く働いていけないのかもしれない。
(……もしかして、遅れてきたのも作戦だったのか?)
岬の指導を引き受けている果奈は、彼女が若さと可愛らしさを武器に、他人より優位に立とうとする性格であることを知っている。
『ちょっと遅れます』と『ごめんなさい』と猫が頭を下げるデジタルスタンプを送ってきた事務課の後輩の岬愛美は、集合時間の三十分後になって「迷っちゃいましたあ」とさほど焦った様子もなく現れ、麻衣子と果奈に飽きつつあった男性陣の目を釘付けにしたのだ。
コートを脱いだ下は、しっかり首まで引き上げてやりたくなるような細い肩を剥き出したオフショルダーの白のトップス、淡いピンクの花柄のスカートはぎりぎり膝丈という季節感があるようなないような、というもの。
勤務中はこの格好ではなかったので、恐らく会社を出た後に着替えたのだろう。二十代半ばの社会人らしい服装の麻衣子と、仕事と変わらない格好をしている果奈を意識した服装なのは明らかだった。
(防寒よりもおしゃれを取るところが若さだな……いや、今田さんも結構薄着だからいまの若い子にはこれが普通か? うーん、わからん……)
果奈よりは岬の年齢に近い、もう一人の後輩を思う。
岬とは対照的な性格のその今田雪乃も、七分袖のジャケットを着用していたり半袖のニットを着ていたり、季節感の曖昧な服装をしている。もしかしたら果奈より下の世代では薄着が流行なのかもしれない……なんてことを考える。
「ごめんなさぁい、トマト苦手なんでぇ、誰か食べてもらっていいですかあ?」
「トマトがだめなの? えー、それじゃあイタリアンが食べられないじゃん!」
「生のトマトがだめなんですよう。だからピザとかパスタは大好きですっ」
ともかく、岬のおかげで調子の上がらない飲み会は持ち直した。だが明らかに若く、異性に誘いかける服装で愛想よく振る舞う可愛い顔をした彼女に、男性たちはあれこれと世話を焼いて果奈たちにほとんど興味をなくしている。それを見ながら麻衣子が笑顔の下で苛立ちを募らせ、ときに二人でばちばちとやり合う、という状況だった。
(無関係の第三者として見ている分には面白いんだろうけどさ)
こうして半ば巻き込まれているとせっかくの居酒屋料理がまずくてたまらない。
ため息を吐く代わりに、果奈はジョッキいっぱいのジンジャエールをぐびぐびっと飲み下した。
(はー……っ! ああ、炭酸飲料とハイカロリー飯の組み合わせは罪……)
炭酸のぴりぴりとした辛口の喉越しを楽しみつつ、烏賊と白身魚の天ぷらを口に運ぶ。
冷め切って油が回ってしまっていたが、烏賊はふかふかと柔らかく、白身魚はふわふわとしてさっぱりしている。自分で下処理をして作ることを思えばありがたいくらい美味しい。
続いて、取り分けた後で皿に残されていただし巻き卵、つくねを片付けてしまう。
(明太チーズ入りの卵焼きが美味しくないわけがないんだよな。つくねは冷めていてもふわふわ感が残っていて、味噌だれとの相性抜群。……つくねならお弁当のおかずにできるかな。このたれ、味噌の他に何が入っているんだろう)
うっすら出汁の味がする気がする。醤油と砂糖を使って照り焼きっぽい甘さもあるな、と考えていると「なーによー、果奈ー」と麻衣子が笑いながら肩にぶつかってきた。
「また(・・)これなら自分でも作れるかも、とか考えてるでしょー?」
わざとらしく『また』を強調した麻衣子の目が光って見えた。
「またじゃない」と正直に言ったのにそれを掻き消す大声で麻衣子が言う。
「本当にごめんねー! この子ってば料理が趣味だから、食べ物があるとそればっかり見ちゃうのよ」
「そうなんだ? さっきから静かに食べてるなーと思ってたけど」
「普段何作ってるの? 得意料理は?」
新しい話題に飛びついてきた男性陣に少々怯みつつ、一応答える。
「……普通の家庭料理を作っています。得意料理は特にありませんが、比較的よく作るのは唐揚げです」
「唐揚げ! 最高のやつじゃん」
「果奈っていつもお弁当を作ってくるのよ。会社に毎日! 忙しいのによくやるわよねー」
へー! と感嘆の声が上がるが、嬉しくない。
(わざとらしく持ち上げすぎなんだよなあ……)
だから、ほら。
「岩田さんって仕事だけじゃなくて家事もできるんだから、本当にすごいですよねぇ。まなみは不器用だから羨ましぃなぁ。尊敬しちゃーう」
岬がはしゃいだ声を上げる。
すごい、羨ましい、尊敬、と言いながら、だがその目はまったく笑っていない。
「自炊って栄養を考えられるし節約にもなりますもんねえ。きっとキッチンも使いやすくしてあるんだろうなあ。健康意識が高いっていうか、こだわりが強いっていうか。歳を取るとそういう感じになっちゃうんですかね?」
持ち上げては当て擦り、言葉の端々に嘲りを滲ませる。
不器用どころか一流の職人のような技巧の持ち主ではないか、と感心してしまう。
しかし言われっぱなしでいるのは癪だった。
「少なくとも、岬さんよりは意識が高いでしょうね」
「……っ!」
岬の口元が引きつったのを確認して「失礼します」とお手洗いに立ったが、視界の端で麻衣子が密かに「やったぜ」と口パクでガッツポーズを決めてきたのは華麗に無視しておいた。
そのまますぐに席には戻らず、店の外に出る。
秋の冷たい夜風に吹かれると、居酒屋の空気でぼんやりしていた頭がはっきりしてきた。
(好かれたいとか勝ち組でいたいとか、そういうものに私を巻き込まないでほしい)
他人と競り合って優位に立ちたい、スペックの高いパートナーを得るべきだと考える彼女たちの言う『幸せ』が本当にそうなのだとは、到底思えない。
だからきっと果奈の幸せとやらは一般的なものよりも少しずれたものなのだろうと、近頃ははっきりと感じるようになっていた。
答えを見つけようとしたわけではないけれど、なんとなく、持ち出していたスマホを確認する。
メッセージアプリの通知が一件。綾子から『ごちそうさまでした』の言葉と、作り置きのハンバーグを主菜に、副菜のほうれん草のおひたしと人参のグラッセを食べたらしい写真が送られてきていた。
「…………」
ほっ、と口元が緩むのが自分でもわかった。
『こちらこそ、ありがとうございます』と返信を打っていたときだった。店を出てくる人の気配がしてふと顔を上げると、見覚えのある男性が「あ」と声を上げた。
「えーと、果奈ちゃんだ。こんなところでどうしたの?」
飲み会の参加者だ。名前は確か、山村といったか。
「涼んでいました」
「あー、店の中、ちょっと暑かったもんね。ここ涼しくて気持ちいー」
そう言って山村が何故か隣に並ぶよりも先に、果奈はさっさと店の扉を開けた。途端に肉と油と、アルコール、人いきれがどっと押し寄せてきて、はっきりと『帰りたい』と思った。
(食べたいものを食べたいように食べられないし、居酒屋は好きだけど、飲み会は苦手だ)
「え、果奈ちゃん? なんでこのタイミングで戻るの? せっかくだから二人で話そうよ」
込み上げるため息を飲み込んだのは、これがよくある展開だったからだ。
(他の女性陣は脈なしと判断して、一番取り入りやすそうな私に声をかけてくる、いつものやつ)
無駄な時間を過ごしたと思いたくないのか、なんらかの成果が欲しいのか。何もしないよりは効率的かもしれないが、特に思い入れもなく声をかけられているこちらの身にもなってほしい。
(……いや、接する相手ほぼ全員に好意を抱かれているのも辛いか)
ぼんやりと思い浮かべたその人の微笑みの裏の心労を想像して、テーブルに戻ってきたとき、声が聞こえた。
「麻衣子ちゃんってあやしだったりする?」
飲み会の雰囲気に任せた、非常に失礼な質問だ。
「めちゃくちゃ綺麗だから、もしかしてって思ったんだけど」
「あやしって美人が多いっていうよな」
「あら、どうもありがとう。そう言ってもらえると努力しているかいがあるわ」
「その言い方だと、人間なんだ?」
「ふふ、どっちだと思う? ……あ、果奈、おかえりー」
「ただいま」と言いながら着席する。今度は麻衣子が話題の中心になっているらしく席順が変わっていて、奥に座っている岬はつまらなさそうにスマホをいじっていた。どうやら今回は誰一人としてマッチングしない結果に終わりそうだ。
「山村、お前トイレ行くって言ってなかった? どうして果奈ちゃんと戻ってくるんだよ」
「もしかしてお前」
「さあ、どうでしょう?」
山村が思わせぶりな目配せをしてくるが、果奈は何も言わず目も合わせず、皿に残っていた料理や付け合わせを片付ける作業に入った。こういうときに反応するとまったく見当違いの方向に勘ぐられて面倒だからだ。
「ねえねえ、果奈ちゃんって麻衣子ちゃんと友達なんでしょ? 麻衣子ちゃんってあやしの人なの?」
「ちょっと、果奈に聞くのはずるでしょ。果奈、答えちゃだめだからね」
「……中西先輩があやしならぁ」
間延びした、しかし嫌味ったらしい舌足らずの声で岬が言った。
「きっとこの世の中ってあやしの人ばっかりなんだろうなぁ。だってみんな綺麗じゃないですかぁ。うちの鬼嶋課長レベルの人って滅多にいないしい」
こいつ、と果奈は内心で呆れ返った。
(どうしてこういうところで喧嘩を売るんだ)
そして麻衣子は岬のそれを堂々と買って、微笑んだ。
「そうよねえ、私程度(・・)の顔なんてどこにでもいるわよねえ? 若さと化粧で誤魔化さなきゃならない人の方が貴重になりつつあるというか……ねえ?」
この場で最も若く、しっかり化粧をし、柔らかな色とデザインの服装で固めていた岬がはっきりと顔を引き攣らせる。
(私の隣でばちばちするな)
こうなるとわかっていただろうに、男性がいる飲み会に岬を呼ぶ麻衣子が何を考えているのか、好き好んでやってきたかと思えば麻衣子と果奈を蹴落とそうとする岬が、さっぱり理解できない。理解したくもない。
したがってこのときばかりは「二人ともタイプの違う美人だからなあ」「みんな違ってみんないいんだよ」という営業職の男性陣のフォローがありがたく思えたのだった。
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