緊張のご挨拶
ファブリックで華やかさを出した、シンプルだがセンスのいい心地良さそうな部屋だ。二つの扉のうち一つは収納、もう一つは洋室に繋がっているらしい。
四人がけのテーブル。絨毯の上にソファとローテーブル、液晶テレビ。収納用と思しきキャビネットにディスプレイ用の雑貨は見当たらない。必要以上に物を置かないようにしているらしく、とても掃除がしやすそうだ。
「じゃあ改めて」と正面に着席した鬼嶋姉が切り出した。
「初めまして。九条綾子、旧姓は鬼嶋です。愚弟がいつもお世話になっています。こんな身体だから大したおもてなしができなくてごめんなさいね」
「岩田果奈と申します。むすび食品の事務課に所属しております。こちらこそ鬼嶋課長にはお世話になっております」
四角四面に頭を下げる果奈に綾子が笑って、ワンピースの膨らんだ腹部を撫でる。
その虹彩は人のそれではなく、獣のような縦長だ。
(やっぱりこの人もあやしなんだ)
綾子は鬼嶋とは異なるあやかしの血が強く出ているのだろう。じっと見るのは失礼だと思ってそれとなく視線を逸らしたが、くすっと笑われた。
「気になるわよね。外に出るときは隠すんだけれど、家の中だと面倒で」
「私はお邪魔している身ですから、お気になさらないでください」
それを聞いた綾子がふふっと笑った。小さな花を思わせる優しい声だった。
「果奈ちゃん――もう名前で呼んじゃうけど、果奈ちゃんがいい人で本当によかったわ。珍しくお手柄よ、輝」
「出来の悪い弟で悪うございましたね」
そして何故だろう、完璧な人間に見えた鬼嶋は、綾子と並ぶとただの『姉に振り回される弟』になる。ぞんざいな口調で言い合ったりふてくされたりする彼を知る人はきっと多くない。
でも、悪くない、と思うのだ。
(変だな、私はあまのじゃくのあやしじゃないはずなんだけど)
「それで――岩田さんには姉の食事を作ってもらいたいんだ」
そこで、むー、むー、とスマホが震える音がした。画面を見た鬼嶋がああという顔をして、果奈も気付く。恐らく先ほどのスーパーだ。
「ごめん、ちょっと電話してくる。姉さん、岩田さんに事情を説明してあげて」
「わかった。キッチンのものは何でも使っていいわよね?」
「うん。岩田さん、わからないことがあったらこの人に聞いてね」
「ええ、なんでも聞いてちょうだい。大事なことだからまず説明しておくけれど、こいつ、いまフリーだから」
「余計なこと言うなよ馬鹿姉貴!」
きつい口調で言い捨てて鬼嶋がスマホを持ってリビングを出ていく。すごい剣幕だったせいで、果奈はカゴ台車が弁償金を出すことを言い損ねてしまった。
(……電話の内容は後で伺うことにして、私は私の仕事をしよう……)
ジャケットを脱いでトップスの袖を捲ると、鞄の中から新品のマスクを取り出し、ポーチにあった髪ゴムでさっと髪をまとめた。
「いまからお食事を作らせていただきますが、リクエストはありますか? 例のスープともう一品、と思っているのですが、綾子さんのお好きなものや苦手なもの、さっぱりしたものが食べたいなどありましたら、お教えいただけるとありがたいです」
「食べられるなら何でもありがたい、という感じね。最近完食できたことがないから」
「白米の炊ける匂いで吐き気をもよおすと聞いたことがあるのですが、そういう状態が続いているのでしょうか?」
「いいえ。つわりはとっくに終わっているの。食べられないと思ったり気持ち悪いと思ったりするのは、食事を始めるときやそれを食べた後なのよ」
そう言って綾子は苦笑した。
「おかしな症状でしょう? 原因は多分、私と夫があやしで、お腹の子どももあやしだからだと思うわ」
へえ、と果奈は心の中で意外に思った。
(珍しいな。あやし同士の結婚か)
通説によればあやかしの相性というものがあり、血が混ざりすぎた現代では双方のあやかしの性質が合わないことがあるらしく、あやし同士が結婚に至るのは稀なのだという。
それはつまり、事例が少ない、という意味だ。
「ただでさえ自分が強いあやしなのに、お腹の子どももそうだと受け入れてくれる病院は少ないの。かかりつけの病院は私を診てくれるようなところだから患者が多くて、入院は断られちゃったわ」
あやしは人のようでいてやはりどこか違う。出産ともなれば、病院は予想外の事態やリスクを負う可能性を考える。幼稚園や小学校など教育機関でも受け入れ態勢がなければあやしの子どもの入学を断ることがあると聞く。
だが綾子は「仕方ないんだけれどね」と笑う。
お腹に子どもがいて、行動を制限せざるを得なくて、食欲がなくてこんなに痩せていて不安にならないわけがないだろうに。
(もし私だったら。食べたい、食べなくちゃと思うのに、食べられないのは辛すぎる)
きっと鬼嶋もそう思ったから、ああして口喧嘩をしながらも姉が食欲を示した果奈の料理に望みをかけたのだろう。同居中の姉が普段通りの生活ができずにこれほど痩せてしまったら心が痛まないはずがないのだから。
「わかりました。それではスープと、冷蔵庫にあるもので消化に良さそうなものを一品作らせていただきます。お身体に障る食材や食べられないものがあったらご指示いただけますか?」
「了解! あ、でもちょっと待って」
よいしょっ、と、重そうな身体で気軽に動き出されてはらはらするが、綾子は果奈の焦りもどこ吹く風で、リビングの隣の洋室からエプロンを持ってきた。
「私のものだけどよかったら使って。仕事着のまま来させちゃってごめんなさい。気になるようなら服を貸すけれど……」
「お気遣い、ありがとうございます。エプロンだけお借りします」
当たりがきつくなるのはどうやら身内限定らしい。鬼嶋との血の繋がりを感じる気遣いだった。
キッチンに回って冷蔵庫の中と調味料、道具の場所を確認する。鬼嶋が言った通り、基本的な調味料はちゃんと揃っているし、果奈もよく使うマヨネーズやケチャップ、ソースなども過不足ない。
(あ、むすびの)
合わせ調味料が入っていると言う箱を見ると、自社の『混ぜるだけ』系や炒めて使う『料理の素』系があって、ついくすりとしてしまった。
「足りないものはない?」
「大丈夫です」
キッチンを覗き込んできた綾子に答えながら、めぼしい食材の状態や消費期限を確認する。どれを使っても問題ないところが鬼嶋の几帳面さを表しているようだ。
(……やけに野菜が多いのはお姉様のためだろうな)
だったら使うしかなかろうと、事前に考えていたレシピと頭の中のレパートリーから検討して、綾子に言った。
「生野菜は召し上がれますか?」
「十分に洗ってくれれば大丈夫。トッピングにチーズを使うつもりなら加熱殺菌済みじゃないとだめ」
「でしたら生野菜と温野菜を混ぜたサラダにしましょう。栄養を取るなら生ですが、胃に負担をかけないように火を通した方がいいと思います」
チーズと、生卵もアウトなので、この二つは使わない。
危なそうなら完全に火を通す。
使用する食材は綾子に確認を取る。
(よし、やろう)
方針とルールが決まったので食材を取り出す。
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