鬼嶋輝の頼み事2

 姿勢を正しくして待ち構えていた果奈は、その言葉を受け止めきれず、鬼嶋の端正な顔をじっと見つめた。


「……『うち』」

「そう、うち。我が家。マイハウス」


 真顔でジョークっぽいことを言うのが本気度を物語っている気もするが、やっぱりちょっと意味がわからない。



 何故、果奈が鬼嶋の家で食事を作らねばならない状況に陥るのか。



 顔に出したつもりはないが考えていることはわかったらしく「うん、迷惑は承知の上なんだけれどね」と鬼嶋は額を押さえながら憂鬱そうに話し始めた。


「実は、ちょっとわけありで――我が家には同居人がいるんだけど」

(同居人!)

「この同居人が、過剰な食欲不振に陥っているんだ。食べられるものが非常に限られていたり、普通に食べていたものがある日突然受け付けなくなったりして、本人も周りも相当参っている。妊娠中だから、余計に」

(……は?)


 衝撃の事実を連続してぶつけられて果奈は愕然とした。


(お腹に子どもがいる同居人? それってつまり、つまり……!?)


 とんでもない事実を聞いてしまった予感に、恐る恐る問いかける。


「あの、ご結婚、は……?」

「うん、している」


 思わず真顔になった。

 そんな重大な事実を私なんかに打ち明けないでほしい。上手く反応できるわけがないのに。


(と、とりあえず、聞かなかったことにしよう)


 これほど秀でた男性が放っておかれるわけがないが、他の社員が聞いたら大騒ぎになる。女性社員たちによる阿鼻叫喚、地獄絵図になるだろうそのときを想像して、そう心に決めた。


 そうは思うものの、やっぱりわけがわからない。


「その……同居人の方のために食事を作ってほしいということでしょうか。でしたら家事代行業者を頼る方が確実ではありませんか? 何故私に……」

「すでに試して、無理だという結論に至った」


 参っているのは事実らしく、優しく包容力があると言われている鬼嶋がげっそりとため息を吐いている。


「すでに医者やカウンセラーには罹っていて、入院も考えた。けれど病院食は絶対に無理、実家に帰るように勧めてもよりストレスが溜まるから嫌だと言うし、正直、私もそう思う。なのになかなか食べることができなくて痩せていくし、もうお手上げだったんだけど」


 鬼嶋の色素の薄い瞳に見つめられ、思わず身じろぐ。


「昨日は様子が違ったんだ」

「はあ……」

「私が帰宅するなり『いい匂いがする』と言い始めて、あのシャツを探し当てると『この料理を作った人を連れてこい』『この人が作ったものを食べたい』と言う。君のあのスープに、久しぶりに食欲を示したんだ」


 だから、君に。


 鬼嶋のような人にそう言われると、嬉しい、と思ってしまう。

 けれど理性に押し留められて、果奈は大きく息を飲み下した。


「お手伝いできるのならそうしたいのですが……私のような素人に、身重の方のお世話をするのは少々荷が重いように思えます」


「そうだろうね……」と鬼嶋は疲れたように息を落とした。

 初めて見る弱った姿に、果奈は良心の呵責を覚える。上司だからという理由で助けてもらったり責任を負ってもらったりしておいて、向こうが助けを求めてきたときは断るなんて、身勝手ではないだろうか。


(いやでも何かあったときに責任が取れないし……料理は好きだけど専門技術があるわけでもないし……)


 十代の頃から好きで、成人後も社会人になってからも嫌にならずに続けてきたから、同年代の人間より慣れているというだけだ。信頼できる料理家のレシピ本やブログを見れば大抵のものは作れるが、料理教室や専門学校に通っていたわけでもない。


(とはいえ、鬼嶋課長が私なんかを頼るってよっぽどのことだと思うんだよな……)


 料理を作るならもっと適任者がいるだろう。身近なところだと総務部の林だ。彼女には高校生のお子さんがいると聞いているし、食事だけでなく他の家事も手際がいいはず。鬼嶋もそれを承知しているだろうに果奈に頼んでいる。そうしなければならない理由があるのだ。


「……どうしても私なんでしょうか。林さんではだめなんですか?」

「うん。君じゃないとだめなんだ」


 口説かれているみたいだ、と思った。


 もちろん言い寄られているわけではないと理解していたが、縋るような台詞に果奈の心もわずかに動いた。だが決断するに至らず「うぅん……」と唸っていると、ぱんっ、と高らかに両手が打ち鳴らされた。


「昨日のことがあって断りにくいと思う。だからとりあえず一度だけでいい、我が家に来て食事を作ってください。お願いします」

「えっ、あ、課長!? ちょっ」


 両手を合わせて拝まれるとは思わず慌てふためいているときだった。


「……っていうことらしいですよ。会議でも話しますけど」

「うわ、お疲れ様です。大変でしたねえ」

(人が来る!)


 透明の壁の向こうに足音と影が迫る。

 こんなところを見られたらやっかまれるどころか、根も葉もない噂を立てられて会社に居場所がなくなる。さほど高くない果奈の評判が地に落ちる。

 この状況を乗り切るために最も簡単な方法は何か、果奈は知っていた。

 安易に口にすべきではないと警鐘が聞こえている。しかし波風を立てず日々を過ごしたいと願う自分もいる。


「――……っ」


 逡巡できたのはコンマ数秒。


 自分を守るための決断を下した果奈だが、拝謝の意を示してさらに頭を下げる鬼嶋の姿には生きた心地がしなかった。

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