鬼嶋輝の頼み事1

 心の重荷を下ろしたいときに課せられるビジネスマナーほど煩わしいものはないと思う。


 翌日出社した果奈のデスクの一番大きな引き出しには、昨日退勤後に駆け込んだ百貨店で買った菓子折りが入っている。


(始業後すぐは忙しいから、十五分くらい経って、様子を見ながら……)


 自席でパソコンに向かう鬼嶋はメールの返信をしているのか素早くキーボードを叩いている。

 果奈は立ち上げたメールソフトをなおざりに画面端の時刻を睨んでいたが、鬼嶋の手が止まったのを見計らって、いまだ、と引き出しの中の紙袋を掴んで立ち上がった。


「お忙しいところ恐れ入ります、課長。いまよろしいですか?」

「うん? どうかした?」


 菓子折りを紙袋から取り出して、果奈は深く深く頭を下げた。


「シャツを汚してしまって、誠に申し訳ありませんでした。心ばかりではございますが、お納めください」

「えっ」

「ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」


 誰かに好かれたいとかみんなに優しい人だと思われたいなんて贅沢なことは言わないけれど、でも。


(この人にだけは軽蔑されたくない)


 ――嫌われたくない。


 必死な気持ちで頭を下げる果奈の耳に届いたのは、ふ、と口元が優しく綻ぶ音だった。


「気にしてくれてありがとう。本当に大丈夫だから、それ以上思い詰めないで。こちらこそ、岩田さんの昼食をだめにしてしまってすみませんでした」


 そっと頭を起こすと、鬼嶋はいつもと変わらず端正な顔に優しい表情を浮かべていた。

 心の底からほ……っと安堵の息が零れた。


「お気遣い、ありがとうございます。クリーニング代をお渡ししてもよいでしょうか?」

「必要ないよ。洗濯したら綺麗になったから」


 そう言うだろうと思ったから菓子折りの値段を上げたのは正解だったようだ。

 しばらくは鬼嶋を見たり多目的フロアに行ったりする度にこの失敗を思い出して申し訳ない気持ちになりそうだが、可能な限り問題に対処したのだと思えば昨日より心は軽くなった。


「でしたら、もしお手伝いできることがあればお声がけください。この度は誠に申し訳ありませんでした」


 洗剤代とか水道代とか、多目的フロアのパネルカーペットを入れ替えなければならかったときの費用とか。金銭的負担を言い換えた『お手伝い』のつもりだった。


 だが何故か鬼嶋ははっとして、まじまじと果奈を見た。


 果奈は「失礼します」の言葉を飲み込み、同時に(本当に顔がいいな……)と感心した。センシティブな問題なのでカミングアウトする人は少ないというが、本当に鬼嶋は『人間でない』ものが混じっているのかもしれない。


(だとすれば、きっと表には見えない苦労をたくさんしたから優しい人になったんだろうな)


「岩田さん。……少し、いいかな」


 それだけにそういう人が深刻そうだと不安がいや増すものなのだと、初めて知った果奈だった。




 午前中は立て込んでいるだろうから、と十五時にワークブースに来るよう言われた果奈が五分前に様子を窺いに行けば、やはりというか、すでに鬼嶋の姿がある。


「っ!」


 そしてノートパソコンから顔を上げた鬼嶋とばっちり目が合ってしまった。

「どきっ」とも「びくっ」ともつかない震えが全身に走って硬直する果奈に、鬼嶋が、おいでおいで、とにこやかに手招きしてくる。


(どうか深刻な話じゃありませんように……)


 大きく息を吐いて覚悟を決め、しっかり扉を叩いてから入室する。


「失礼します。大変お待たせいたしました。遅くなって申し訳ありません」

「こちらこそ、忙しいのに時間を作ってもらって申し訳ない。……それは?」


 果奈は捧げ持っていたケーキ箱を机に置いた。


「昨日買って、会社の冷蔵庫に入れたまま忘れて帰ってしまったんです。よろしければ召し上がってください」


 正しくは、外出した鬼嶋が直帰したために渡せなかった詫び菓子だ。渡す機会があれば、と思っていたものを持ってきたのだった。


「恐れ入りますが生ケーキだけは消費期限が昨日なので私に処分させてください」

「岩田さんが食べたければ構わないけれど、気にしなくていいよ。生ケーキは次の日の方が美味しい気がするしね」

「…………」


 果奈は無言になって鬼嶋を見つめた。


「芋スイーツか。どれにしようかなあ」と笑う彼は、少なくともさつまいもは苦手ではないらしい。むしろお世辞とは無関係に甘いものを歓迎しているようだ。でなければ「生ケーキは次の日の方が」という発言は出てこない。

 全部召し上がってくださいと伝えるべきか悩んだが、そこは消費期限が切れている食べ物を渡すのは失礼であるという正気が勝って「よければもう一つもお持ちください」と言うに留めた。


「それで、わざわざこんなところまで来てもらった理由なんだけれど……」

「はい」


 来た、と思った。

 わざわざ呼び出したのだから人目をはばかる話なのだろう。鬼嶋のような人の困りごとに果奈が役立つとは思えないが、話を聞くくらいならできるはずだ。


「昨日の美味しそうなスープは、手作り? それともどこかで買ったもの?」


 何なんだ、その質問は。

 構えていたところに予想外のことを言われ、さほど大きくもない目がさらに点になる。


「……手作りですが」


 どうしてそんなことを聞くのか、警戒しながら答えると何故か鬼嶋は「そうだよなあ」とがっくり肩を落とした。


「いつも美味しそうなお弁当を食べているもんなあ……ああもう、どうしてあの人はそういう勘ばっかりいいんだろう?」


 質問の意図や原因に心当たりがない果奈には、鬼嶋が何に悩んでいるかさっぱりわからない。

 だが大きく息を吐いて憂いを払った鬼嶋は背筋を伸ばして果奈に向き直った。


「自炊に慣れている岩田さんにお願いがあります」

「はい」




「うちで食事を作ってくれませんか?」

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