真昼のやらかし
(『気を付ける』も何も、仕事で関わらないわけにはいかないから注意しようがないんだけどね……)
そんなことを思いながら出勤した翌日、午前中からトラブルが発生して鬼嶋に報告と確認をしてもらわなければならなくなり、まったく関わらないのは無理なのだと早々に悟った。
(唐揚げ弁当にしてよかった……)
揚げ物はいい。それが肉ならもっといい。心身が疲弊したときは、特に。
ミスした当人のふてぶてしい態度や恨みがましい視線を受け流して、迎えた昼休み。多目的フロアでランチミーティング中の人事部を横目に、電子レンジでお弁当を温める。
天井は低いながら広々とした多目的フロアは、個々の休憩はもちろん、懇親会を兼ねた部内ミーティングなど様々な形で利用されている。ときには自社の商品を食べたり開発商品を配って回ったりする代表取締役を見ることもあった。
(手間をかけたお弁当が待っていると思うから、なんとか頑張ろうと思えるんだよな)
スープジャーには昨日作った熱々の海老のビスク風スープ。トマトスープの予定だったが、ふと目に入った材料を思いつきで使ってみたらかなり海老のいい風味が出たので、昼休みに食べるのを楽しみにしていたのだ。
温まったお弁当箱を持って柱の影の壁際の席に着く。
ランチマット代わりに手拭いを敷き、ほかほかの唐揚げが詰め込まれたお弁当と蓋を開けたスープジャーから立ち上る香しさに、ついつい頬を緩めながら箸を取り出したときだった。
「岩田さん、そんなに怖いんだ?」
「愛美、大丈夫? 辛かったらいつでも言いなよ」
すさまじく食事を不味くする声がして、果奈は手を止めた。
柱を挟んだ向こう側にいた事務課の後輩の岬愛美と、彼女と親しくしている広報部の女性社員たちだ。少し離れているので柱の影に果奈がいることに気付いていないらしい。
今年度から秘書課から事務課に異動になった岬愛美は、同年代の今田雪乃とは対照的で、可愛らしい化粧に流行りの髪型やファッションで身を固め、コミュニケーション能力が非常に高いが、仕事を軽んじる言動が目に付き、ミスも多い。叱責を回避しようと愛想を振りまくがほだされない果奈とは非常に相性が悪く、早々に敵認定されたことには気付いていた。
(間違いなく午前中の件だな……)
彼女がやらかしたメールの誤送信について叱責し、訂正メールを添削した上で送信させたこと、そうせざるを得ないと果奈や鬼嶋が判断したことを、友人たちにどう言いふらしているのやら。
(……席、変わろう)
無愛想と自他ともに認めていても、陰口を聞きながら食事をする趣味はない。それが楽しみにしていたお弁当ならなおさらだ。
ランチバッグに手拭いなどを投げ込み、おざなりに蓋を閉めたお弁当箱とスープジャーを両手に席を立ったそれが、間違いだった。
「わっ」
「あっ」
歩き出そうと振り返ったそこに人が通りかかるとは思わなかった。
ぶつかった衝撃。傾くスープジャーと、落ちる蓋。
赤く染まる白いシャツ。
遅れて、びしゃびしゃっ、とフロアのカーペットにスープが飛び散った。
「ごめん! 大丈夫!?」
握り締めたスープジャーと半分になったスープを魅入られたように凝視していた果奈は、赤い飛沫が飛び散るシャツの主の慌てた声を聞いて蒼白になった。
「怪我はない? ぼうっとしていて気付かなくて。本当にごめん」
――終わった、と、本気で思った。
人のシャツを汚すなんてとんでもないが、よりにもよって相手は鬼嶋だったのだから。
「も、申し訳ありませんっ!」
「鬼嶋さん、大丈夫ですか?」
「わ、可哀想ぉ……」
とっさにお弁当箱を包んでいた手拭いを取り出したが、騒ぎに気付いた女性社員たちがわっと集まってくる方が早かった。
「皆さん、汚れてしまうので離れてください。岩田さん、床はそのままでいいよ。掃除の人を呼んでくるから」
ハンカチだのティッシュだのを手にした彼女たちに囲まれる鬼嶋は、やはりそうした扱いに慣れているらしい。「大丈夫、大丈夫」と笑顔でやんわりと彼女たちを遠ざけ、床に這いつくばる果奈に優しく声をかけてくる。
鬼嶋のことは他の女性たちに任せてカーペットを拭っていたが、染み込んだスープはどうしようもないようだった。なるべく表面を綺麗に拭き取って立ち上がると、鬼嶋に向かって深く頭を下げる。
「誠に申し訳ありません……」
「着替えれば済む話だし、洗濯すれば落ちるから気にしないで。スープは大丈夫だった?」
ここで首を振るとさらに状況が悪化するのがわかりきっていたので、ろくに確認しないまま「ご心配には及びません」と答えた。
「せっかく美味しそうなスープだったのに、台無しにしてごめん」
「とんでもございません」
鬼嶋が優しければ優しいほど、果奈に突き刺さる女性社員の視線は鋭い。間違いなく後で陰口のネタにされるだろう。自分が悪いとはいえいたたまれなさすぎる。
それじゃあ、と更衣室に向かうであろう鬼嶋に果奈は再び「申し訳ありませんでした」と頭を下げて見送ると、すぐさまお弁当箱とスープジャーを片付けて保冷バッグに押し込んだ。
あんなに楽しみにしていた唐揚げだが、もう昼食どころではない。
「鬼嶋さんって本当に優しくてかっこいい!」
「……謝るだけなら誰にでもできるけどさあ」
「うん、もうちょっと何か……ねえ?」
女性社員の感嘆と嘲笑と侮蔑を振り切って更衣室に戻ると、ロッカーにランチバッグを投げ入れ、ジャケットに袖を通しながら急ぎ足で会社を出た。
鬼嶋の性格を思えばクリーニング代は決して受け取ってくれない。ひとまずお詫びのお菓子を渡して、明日また改めて謝罪とお詫びの品を渡すのが妥当のはずだ。
(駅前のファッションビルにスイーツのポップアップストアが来ていたはず……!)
会社最寄りの駅前には小規模ながらファッションビルが併設されていて、改札に近い一階にデパ地下にあるようなスイーツ店が期間限定で出店しているのだ。
息を切らしながら店にたどり着くと「本日まで」の張り紙をしたショーケースの中にスイートポテト、さつまいものモンブランとプリンが並んでいた。鬼嶋が芋栗南京を苦手としていないことを祈りながらそれぞれ一つずつ買い求めた。
会社に戻ってくると時刻は十二時五十七分。休憩時間が終わる三分前だった。
給湯室の冷蔵庫にケーキ箱をしまい、まるで真夏にいるような汗を流し、ぜえはあと肩を揺らしながら自席で息を整える果奈を、休憩から戻ってきた今田が心配そうに見ている。その数分後、岬が後ろを通りながら「うわぁ」と大げさな声を上げた。
「岩田さん、汗やばくないですか? 身だしなみには気を付けた方がいいですよぉ?」
それは普段果奈が岬に言っていることだ。前屈みになれば胸元が覗き見える彼女の白いトップスをちらりと一瞥した果奈は「そうですね」と答えると、ハンカチと化粧ポーチを持ってお手洗いに向かった。
デオドラントシートで汗を拭って匂いを消し、ぼさぼさの髪を一つにまとめた後、多目的フロアに清掃スタッフが入っていることを確認してひとまず胸を撫で下ろす。
だが戻ってきた事務課に鬼嶋の姿がない。
急な会議でも入ったのか、それとも来客応対中なのだろうかと考えながら指示された書類を作っていたが、それから一時間、二時間経っても鬼嶋は帰ってこない。
(まさか)
嫌な予感を覚えながら、果奈は後ろの総務部でファイルを繰っていた『総務部のお母さん』こと林祥子に声をかけた。
「お忙しいところすみません。林さん、鬼嶋課長がどこにいらっしゃるかご存知ないですか?」
「鬼嶋さん? 総務部長と外に出たはずだよ。役所と銀行を回ってそのまま直帰って言ってたかな」
その後の果奈が、空腹とストレスで痛む胃を抱えながら鬱々と仕事をしたのは言うまでもなかった。
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