岩田果奈は今日も働く3

『うわぁ、さすが鬼嶋さん。モテる男は違うわー』

「モテるとかじゃなくて人間性だと思う」


 その夜にかかってきた友人の『最近どう?』の電話で、果奈は近況報告がてらその出来事を話した。


 電話相手の中西麻衣子は大学で出会い、卒業後も同じむすび食品に採用となった縁もあって長く友人関係が続いている。いまは人事部だが昨年度まで総務部に所属していたので、鬼嶋の性格や仕事ぶりはよく知っているのだ。


 あの後、果奈は十三時半より少し前に全部屋の点検を済ませて昼休憩に入り、仕事に戻った後、十四時半になったところで総務部の男性社員の手伝いを求めにいった。脚立を使えば作業できるが、やはり身長が高く力が強い男性とでは作業時間や安全性に大きな差が出る。だから鬼嶋はあえて「男性社員に」手伝ってもらうよう言ったのだとわかったからだ。

 もちろん鬼嶋は総務部に話を通してくれており、作業は速やかに完了した。すでに機嫌を直していた尾田への報告は「ご苦労様」の一言で終了、果奈は残していた自分の仕事をやり遂げ、定時に会社を出ることができたのだった。


『私も総務部に残ってたら鬼嶋さんがいて平和だったのになー』

「うん。新人二人を見ているとなかなか自分の仕事ができないから、鬼嶋課長がいてくれて本当に助かってる」

『岬と今田ねー。あの子たち、足して二で割ったらちょうどいいのにね。…………いま台所? 明日のお弁当よね。メニューは?』

「漬け込んでいた鶏肉で唐揚げ。あと適当にスープ」

『あんたの「適当」ほど信用ならない言葉はないわ。ねー、スピーカーにしてよ。ASMR配信!』


「焚き火の音の方がリラックスできるように思うけど」と言いながらスピーカーモードに切り替え、スマホを流し台の奥に当たるカウンター部分に置いて、調理を開始する。


 ビニール袋の中の鶏肉を調味料ごとボウルに開け、小麦粉と片栗粉を入れる。割合は片栗粉の方が少なめ。肉がべたべたしなくなるまで粉をたっぷりまぶしておく。

 たっぷりの油が入った鍋をコンロにかけ、粉のついた菜箸を入れたときに泡が立つようになったら肉を入れていく。鍋が埋まるまで思いきり入れてしまうのは、失敗したところでどうせ食べるのは自分だけだと思っているからだ。


(スープ……うーん、スープジャーが汚れるけどトマトでいくか)


 ゴムパッキンやプラスチックはトマトの色で汚れやすく、しっかり洗わなければならないことを考えると避けがちだが、美味しさには代えられない。


 皮を剥いた人参を薄くいちょう切りに、玉ねぎはくし切りにして、まとめて耐熱容器に入れてレンジで加熱する。

 唐揚げがいい感じに揚がってきたので、裏返すなどしてしばらく油の中で揺らした後、キッチンペーパーを敷いた皿の上で油を切る。

 残りの鶏肉をすべて揚げ物鍋に投入していると、レンジの終了のメロディが果奈を呼んだ。


(はいはい、聞こえていますとも)


 肉が去ったボウルを流し台の端に置き、取り出した片手鍋にレンジから取り出した玉ねぎと人参を鍋に放り込み、顆粒コンソメと塩を入れて蓋をする。


(しまったな、先にスープを作るんだった)


 揚げ物をすると油が跳ねてしまうので最後に調理したい、というこだわりなのだが、肉への欲が勝ってしまったようだ。やってしまったものは仕方がないので、唐揚げの様子を見つつ作業を続ける。

 トマトを四等分し、ケチャップとウスターソースを少々を混ぜる。


(唐揚げ、そろそろいいかな)


 出番終了となった包丁とまな板を洗って定位置に戻し、揚げ物鍋を覗き込むと、肉たちが食欲をそそる色に揚がっている。

 それらを取り出した後、同じ鍋に最初に揚げた唐揚げを戻す。二度揚げするのだ。

 心持ち火の勢いを強くしてしっかり火を通しつつ、油と空気に触れさせるつもりで肉たちを揺らす。そうしているうちに油の音が変わる。しゅわしゅわ、ぱちぱちといい音を立てていたものが、より深い、じゅわじゅわっという音になるのだ。


(揚げ物は正義……)


 実家の唐揚げは醤油味だが、果奈が作るのは塩。鶏がらスープの素で味をつけ、薄力粉と片栗粉を合わせて二度揚げした、かりっかりの唐揚げだ。


(明日の晩ごはん用に取り置いて、残りは全部お弁当に入れてやる。明日は唐揚げ大盛り弁当だ)


 後でゆで卵を三つ作って、一つはお弁当に、もう一つはミモザサラダかタルタルソースにしよう。残ったら夜食か朝食にすればいい。

 そんなことを考えていると、流し台の方から『ねー』と麻衣子の声がした。


『飲み会しない?』

「異性が来る合コンと呼ばれる飲み会は、しない」

『いつもそう言うけどさ。恋愛に興味がないわけじゃないでしょ? もう枯れた?』


 果奈はため息を吐いてその質問を追い払う。


「大学時代から行くって言った試しがないのにどうして毎回誘うかな……」

『それはもちろん、私が、果奈には幸せになってほしいと思っているからよ』

「恋人ごときで幸せになれる人間ならよかったけど、あいにくそうじゃないから」


 だからといって、どうすれば幸せになれるのかもわからないけれど。

 コンロの火を止めて唐揚げを取り出しつつ、『恋人「ごとき」!』と手を打って笑う麻衣子の声を聞きながら、思う。


「無愛想クイーンを誘う物好きはいない。誘ってくるとすればヤバいやつ」

『いまのままだとそうだろうけど。んー、だったらいっそ「キング」狙っちゃう?』

「キング?」

『鬼嶋課長』

「ない」


 反射的に言っていた。そこに麻衣子がいるかのようにスマホを睨みながら。


「あの鬼嶋課長相手にどうこうなれるわけないでしょ。みんなどれだけ自信満々なんだろう、釣り合えるって思えるんだろうって不思議なくらいなのに」

『釣り合いが取れるから好きになるわけじゃないもの』


 これには反論できなかった。そうなのだと理解できたからだ。

 しかし麻衣子が優しいのは『まあ無謀ではあるわよね』と果奈の主張を一部だけ認めてくれるところだ。


『だからあれは会えるアイドルと同じなのよ。誰のものにもならないだろうと思いながら、ひょっとしたらって期待している。本当に好きで、結婚して一生にいたいって思っている人間は一人か二人、ひょっとしたら皆無かもね』

「それが本当ならものすごく失礼だと思う」


 鬼嶋について楽しげに噂する女子社員や、内容の大小にかかわらず仕事を口実に話しかけにいく女性たち。一方で鬼嶋に接近する社員を悪し様に言う彼女たちを思い出して、果奈は具材の入った片手鍋を火にかけながらうんざりと息を落とした。


『本人もわかっているからあの態度なんでしょう。あしらい方が絶妙だもの。年季が入っているわよ、あれ』


 子どもの頃からそうだったのだとしたら、ますます鬼嶋を尊敬する。仕事とはいえ『無愛想クイーン』の果奈にも最初から優しい態度で接してくれる人なのだ。


『まあ本気で狙うかどうかはともかく、気を付けた方がいいわよ。今日の昼、あんたが鬼嶋課長のところに押し掛けていったって女性社員たちがうるさかったんだから』

「やっぱり見られていたか……」


『見られていないはずがないでしょうよ』と麻衣子は笑う。

 社内の人間の動向は案外周りに知られているものだと、果奈も麻衣子も社会人生活できちんと学んできている。その場合の心構えや対処法も。


「くれぐれも近付きすぎないよう気を付ける。ありがとう」

『どういたしまして。こういうことがあるから彼氏は作っておいた方がいいと思うけど、本当に飲み会しない?』

「しない。彼氏がいても『恋人がいるのに鬼嶋課長に色目を使うビッチ』って言われるだけだから」


『違いない!』という麻衣子の大笑いをスマホ越しに聞きつつ、明日のお弁当用のスープを仕上げる。


 気が置けない友人との他愛のないおしゃべりは、その後仕事やプライベートの話題を行ったり来たりし、時計の針が零時近くを指す頃に「また明日」と言い合って終わった。

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