戸惑いのお試し回

(とりあえず一回だけだから。同居人氏がお気に召さない可能性もあるから)


 夕刻の電車の乗客は、大半が果奈たちと同じように会社帰りと思しき人々だ。時々車両の奥の方から学生と思しきグループの賑やか声が聞こえてくるが、ざっと見た感じだと自社の人間の姿はない。


「最寄駅近くのスーパーで買い物をしていこうか。さしすせそと基本的な食材は揃っていると思うけど、念のため」


 料理の基本『さしすせそ』。


 ちゃんと知っているのだなと感心すべきか、さらっと『さしすせそ』を口にするギャップに驚くべきか。それとも鬼嶋だから当然だと思うべきか。


(いやそれよりも……展開が、早すぎる)


「まずは一度お試しで」という話になり、今日のこの後の予定を聞かれて「何もありません」と答えたが、まさかその日のうちに招かれるとは思いもよらなかった。

 だが鬼嶋が「もしよかったら今日……」と申し訳なさそうに言い出したのを断ることはできなかった。本当に、藁にも縋るような、という感じだったのだ。

 そして果奈が了承したせいか、並んで電車に揺られている鬼嶋はワークブースでの会話のときより雰囲気が明るい。


「……自炊、なさるんですね」

「岩田さんほどじゃないよ。自社製品を使わないとっていう使命感のせいだし」


 むすび食品は卸売業の他、系列会社で自社製品を開発したり、それらを利用した料理を提供する飲食店を営業したりしている。その代表が自社ビルの一階に入っている一般客も利用できるカフェ兼社食だ。

 そんなわけで社員には定期的に新製品や試食品が配られるのだが、鍋スープのもとや肉の漬けだれなど食材を準備せねばならない商品も多いため、それなりに自炊ができないと持て余すのだった。


 そんなことを話していると、鬼嶋宅の最寄りだという駅に着いた。

 果奈の利用する駅よりも三つ向こうにあり、コンビニがなく、周辺は住宅地らしくずいぶんひっそりしているが駅の利用者は思ったより多い。鬼嶋と果奈を追い抜いて結構な人が改札を出て行く。


「お作りするのはあのスープで構いませんか? もし同居人の方が食べられないものがあれば教えていただきたいです」 

「献立は同じで大丈夫だと思うけど、食べたいものがころころ変わる状態から臨機応変にやってほしい。食べられないものは生ものとアルコールとカフェイン。嫌いなものは特にないはずだよ、……っと」


 改札を抜けた途端、何かに気付いたらしい鬼嶋が鞄を探ってスマホを取り出す。だが画面を見た途端に漏れ出した「うわ……」という呟きととてつもなく嫌そうな顔に、果奈は思わず鬼嶋を二度見してしまった。


「……同居人からめちゃくちゃ着信来てるから、ちょっと電話していいかな……」

「はい」


 そこでまるでやり取りを聞いていたかのようにスマホが振動して着信を訴え始める。ごめんね、と断って距離を取った鬼嶋が受話ボタンをタップした、次の瞬間。


『…………さいよ!!』


 端末を耳に押し当てる必要もない音量で、女性の怒鳴り声が漏れ出した。


(……え、怖……)


 大音声から逃れた鬼嶋が息を吐いて端末を耳にかざすのを、果奈は戦々恐々と見守る。


「電車に乗っていて気付かなかったんだよ。それで、何? ……は、牛乳? そのくらい自分で……ああはいはい、すみません、気遣いのできない俺が悪かったです」

(『俺』!?)


 信じられないものを見聞きした果奈の目が点になった。

 鬼嶋は苛々と眉間に皺を寄せ、ため息を飲み込みながら電話向こうの相手の言い分を黙って聞いている。これが『素』なのか、いつもの穏やかさは皆無だ。


『……! …………っ』

「はい、わかりました。すみません。これからは移動中でも必ずスマホを確認するようにします」


 これは、なんというか。


(……私を連れて行くとトラブルになりかねないのでは……?)


 この様子を見るに、同居人氏は間違いなく気が強い。食事を作りにきただけの果奈にあり得ない疑惑を吹っかける可能性が高いのではないか。


「牛乳と、他にほしいものは? ……わかった、いつものメーカーのやつな。ああそうだ、昨日言っていた例の、っておい、綾子!? ……はあ、言いたいことだけ言って切りやがったな……」


 舌打ちしそうな顔でスマホを鞄に仕舞う鬼嶋に、果奈はそっと声をかけた。


「鬼嶋課長」

「岩田さん、待たせてごめん。ちょっと買い物を頼まれたから、スーパーに寄らせてね」

「そのことなのですが、私の考えが足りませんでした。申し訳ありません」


 柔らかい態度に戻った鬼嶋が戸惑いをあらわに首を傾げた。


「ええと……どうして岩田さんが謝るのかな?」

「ご自宅にお邪魔しなくても後日私が作ったものをお詰めしてお渡しすれば済むことだったと、いまになって気が付きました。ただの部下とはいえ女性の私がお宅に上がり込むのはきっと配偶者の方もいい気はしないでしょう。配慮が足りず、申し訳ありません」

「ちょ、ちょっと待って? 配偶者の方って……」


 戸惑っていた鬼嶋は、次の瞬間「うわあ」と額を押さえて天を仰いだ。


「彼女じゃない」

「え?」

「恋人でも配偶者でもないんだ。説明し損なっていて申し訳ない」

「え」


 驚いた。そしてわけがわからなくなった。


(それなら……いったい何者?)


 鬼嶋が名前を呼び捨てて素の口調で接する、妊娠中の妻でない女性とは、いったいどのような関係なのか。

 スマホから漏れ出した大声を思い出し、無意識に身震いする。果奈はただでさえ顔つきが怖い『無愛想クイーン』なのだ。強烈な性格の女性を相手にトラブルを起こさない自信がない。何かあったら鬼嶋に迷惑がかかってしまう。


(やっぱり後日、作り置きを持ってくる方がいいんじゃ……)

「とりあえずスーパーに向かおう。早く牛乳を買って帰らないとあの人の機嫌が悪くなる」


 だが焦った鬼嶋はすでに歩き出していて、帰るとはとても言い出せなくなってしまった。

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