さよならの儀式

魚田羊/海鮮焼きそば

あの日の歌

 1 


 いつか離れてしまうくらいなら、友達なんて最初からいらない。ずっとそう思ってきた。

 覚えているだけでも大阪、山口、次が大分、その次がまた大阪で、最終的には――親元を離れたときには福岡。営業職で転勤族の父さんについていくうちに、誰かと深い絆を結ぼうなんて思考は消えてしまった。どうせまた、遠くないうちに離れてしまうんだ。

 人と人の関係なんて、いつ何のきっかけで終わるかわからない。だったら。


 ――そんな自分を変えるきっかけになったのは、たったひとつの歌だった。


 2


 その日の音楽の授業は歌のテストだった。ここしばらく授業でやってきた曲。二十年くらい前の、合唱や卒業式でもよく使われている曲。

 高三の七月にもなるともう受験シーズン真っただ中で、学年全体がピリピリした空気を帯びてくる。その中で、授業時間五十分のほとんどを他人の歌を聞いて過ごすだけのこのテストは、貴重なリラックスの時間なのだろう。音楽室の空気はかなり緩んでいた。

「うわ、この次俺かよ。口パクでごまかしたろっかな」

「やったれやったれ~!」

 だとか、

「親に夏期講習めちゃめちゃ入れられたんだけど」

「仕方ないよ~こんな時期なんだし」

 だとか。誰かの歌がやむたびにあちこちで会話が始まる。音楽の先生も最初は注意していたが、途中であきらめたようだった。

 その中で僕は――誰とも会話せず、ただ歌を聞いていた。

 話す相手がいないわけではない。その辺の男子に話しかければ普通に会話が続いて、楽しく過ごせるだろう。だけど――僕はもう、誰かと特に仲良くしたいとは思えなかった。周りから浮かない程度なら、それで。

 そうやってクラスメイトの歌を聞いているうちに。

「次、服部周はっとりしゅう君と羽田千里はねだちさとさん、どうぞ」

 自分の番になった。

 一緒に歌うのは……羽田さんか。色白でおかっぱ頭の、あまり目立たない感じの人。あと、いつ見ても制服の胸ポケットにボールペンが刺さっているのが印象にあるくらいか。

 男女各ひとりずつ、出席番号順で回ってくるだけ。誰と一緒でも関係はない。そう思っていたけど――


 先生のピアノ伴奏が入る。歌い始め、一音目。

「もしも誰かが――」

 一瞬で、空気が変わった。

 僕より頭ひとつ低い、こんな小さな身体のどこから出ているのかと思うくらいの、圧倒的な声量。滑らかで優しい響きの高音。ピンと伸びた背筋で真正面を見つめる、堂々とした歌いっぷり。

 隣を横目で見る。羽田さんは、すごくリラックスした感じの微笑を浮かべていた。

 驚きすぎて、歌い出しで自分の声が軽く詰まった。慌てて挽回する。これは羽田さんとの競争ではないし、合唱かどうかも怪しい。一緒に歌っていても、あくまで評価は別々のはず。

 ――それでも、どうにか羽田さんに合わせたい。この歌声の邪魔をしたくない。大してうまくもないだろう自分の歌を、精いっぱいやり切る。それが礼儀だとすら思った。

 今回歌うのは一番だけ。あっという間に終わる。

 伴奏が止まったとき、音楽室はしばらく静まり返っていた。少しして、ざわめき。

 あいつあんなに歌上手かったのかよ、とか。そういえば軽音部だったよな、とか。そんな驚きの声が背後からいくつも聞こえた。

 でも、この驚きを一番近くで受け止めたのは僕だ。いま一緒に歌ったのは、僕だけだ。

 だからだろうか、

「あの、羽田さん。すごくいい歌でした。一緒に歌えてよかったです」

「ひゃあっ!? は、服部さん!? あっ……えっと、ありがとうございますっ」

 授業が終わって、音楽室を出るとき。気づいたら話しかけていたんだ。


 3


 三月の頭。卒業式の日は、すっきりとした青空だった。

 式も、教室での時間も終わって。校舎前のロータリーは、胸に水色のコサージュを着けた卒業生と、その保護者――と、あと一・二年生でいっぱいだった。

 涙声。突き抜ける歓声。女子どうし、両手をつないでぶんぶん振る光景もある。

 それら全部に背を向けて、僕は誰よりも早く帰り道を急いだ。

 僕がこの場所にいたのは、最後の一年だけなのだから。他人の三分の一の思い出しかない自分が、上っ面だけの付き合いをしていた自分が、こんな光景にいちゃいけない。

 小高い山を切り崩して無理やり建てられたこの高校は、背後の山と隣り合っている。フェンス一枚だけを隔てて。そのフェンスに穴が一ヶ所空いていることは、たぶんほとんどの生徒が知っていた。

 だけど、実際に通る人は少ない。かなりの急斜面だから当然だ。

 何度か通ったことはある。隠れられる木の陰はいくらでもある。卒業式のムードの中なら、誰にも気づかれずに帰れる――はずだった。

「待って、服部くんっ」

「千里……さん?」

 やわらかく、でもはっきりとした声が背後から聞こえた。

 振り返ると、小さな身体がすたすたと近づいてきている。……こんな急斜面、しかも枯葉が残っている地面を、迷いなく?

 とにかく、この人が僕を追いかけてきたのは事実のようだった。

 千里さん。羽田千里さん。

 ――僕の、唯一の友達。


 学校の背後に広がる急斜面を、西へ西へ抜けていく。すると、そう遠くないうちに小さな神社の裏手に出る。

 山の神様を祭っているらしいこの神社には、鳥居と小さなお社。それと、丸太のベンチだけがあった。

 ベンチにふたり、腰かける。

「びっくりしたよ。わざわざ話しかけに来てくれるなんてさ。軽音――と、あと写真部もか。その人たちとはもう話した?」

 部活の人たちより優先させてしまってるなら申し訳ない。そう思ってひと言足した。

「もう話してきた。これはね、服部くんがあのときしてくれたことのお返しだよ。さっき教室で少し話したけど、最後にゆっくりおしゃべりしたくて」

 服部さんが、服部くんへ。

 堅い敬語が、飾らないタメ口へ。

 そう。あの歌のテストをきっかけに、僕たちはときどき話すようになった。

 ――友達になった。

 

 友達といっても、休み時間に中庭でたわいもない会話をするくらいではある。メッセージアプリの登録とか、連絡先の交換もしてない。千里さんが言うには、機械音痴なので家族と電話するくらいにしか使ってないらしい。

 一度だけ、アコースティックギターを新調するのに付き添ってほしいというので一緒に出かけたことはあるけど。彼女の私服姿――落ち着いたベージュのワンピース姿だった――を見たのはそのときだけだ。

 だとしても、僕にとっては現状たったひとりの、気を張らずに話せる友達だった。

「ありがとう。あれなあ……。自分でもいつの間にか身体が動いて話しかけてたって感じだよ」

「それいつ聞いてもにこにこしちゃうな。わたし友達少ないから、話しかけられることも少なくて。だから最初はすごくびっくりしたし、正直怖かったし、たぶん目も合わせられてなかったけど……自分の歌が他の人に響いたの、本当にうれしかった。それを直接伝えてくれたのも」

「僕だけじゃないって。歌が終わったあと、クラス全体が静まり返ってたし」

「それ、あとで友達から聞いて知ったんだけど、まだ信じられないなあ。わたしはいつも通り歌っただけだったから……」

 照れたようにうつむく千里さん。丁寧に切り添えられた前髪で、彼女の両眼がうっすらと隠れる。

「それより、わたしは服部くんの歌のほうが記憶に残ってるよ。すごく一生懸命に歌ってるの、声だけでわかった」

「あれは千里さんの邪魔にならないようにって思っただけだよ。まあ、結果的に音楽の先生には褒められたけど」

 それが加点要素になったかは分からないけど、一学期の音楽の評点は普段より少しよかった。

「それは知らなかった。少しでも貢献できたならうれしいな。あとね、話しかけてくれたのが服部くんだったのもうれしかった」

「……え?」

「服部くん、三年生に上がるタイミングで転校してきたでしょ? そこからずっと、みんなから一歩引いて接してるなあとは思ってた。誰かに話しかけられてるところは見ても、服部くんから話しかけるところ、ほとんど見たことなかったから」

「頭痛いな、それ。まあ……うん。理由は察されてるだろうけど」

「うん、なんとなく。何回も引っ越ししてるんだもんね。わたしの歌がそういう壁を張ってる人にも届いたのなら、ひっそり歌をがんばってきたかいがあったなと思うよ」

 あくまでも、ひっそりと。千里さんは決まってそう言うんだ。

「本当は、文化祭とかそういう大きなステージでも、千里さんの歌聞きたかったけどな」

「組んでたバンド、すっごく目立つし歌も上手な子がいたから。遠慮するしかなかったの」

 体格相応に小さな千里さんの手がきゅっと握られる。その手にどんな感情が滲んでいるのかは、考えるまでもなくわかった。

「でも、これからは違うよ。わたしには夢があるから。『自分の歌が、誰かのちょっとした生きる楽しみになれる』。そんな力をもったシンガーソングライターになるって夢」

 大きな夢。僕のまだあやふやな夢とは違う、とてつもなく大きな夢。だけど、千里さんの目は一歩も退いていない。僕が最初に話しかけたときのような、怯えた目つきはどこにもない。

「芸術系の専門学校だっけ。東京の」

「うん。ミュージシャン部門。受験は大変だったけど、合格できてよかった。東京は遠いし、つらいこともたくさんあると思うの。でもがんばる。服部くんも引っ越すんだよね?」

「……うん。兵庫の大学だからね」


これ限りで親元を離れることになる。転勤の連続で慌ただしい中でも、両親は僕をしっかり育てようとしてくれたと思う。次はきっと、僕がその思いを返す番だ。

 

「さみしいよ。……でも、お互い夢に向かってがんばるんだもんね。私がこんなにはっきり夢を持てたのは、服部くんのおかげだよ?」

「……なんだか恥ずかしいけど、光栄です。こちらこそ、友達になってくれてありがとう」

「ふふっ、こちらこそ光栄です」

 真正面からお礼を言いあったあと。少し沈黙が流れて。

 それを断ち切ったのは、千里さんのひとことだった。

「さっき、話しかけたのは最後にゆっくりおしゃべりしたいからって言ったよね。それも嘘じゃないんだけど。他にもね、したいことがあるの」

「……したいこと?」

「『この地球のどこかで』って曲、知ってる?」

「えーっと……ああ、知ってる。合唱曲だっけ。そういえば、中学校のときに合唱コンクールで歌った気がする」

 たしか、二年生のときだったか。歌っていて気持ちいい曲だった覚えはなんとなくある。

「……その曲が、何か?」

「もし覚えてたらなんだけど……この曲、一緒に歌ってもらってもいい? 小学校の音楽会で歌ってから、ずっと大好きな歌なんだ」

「ずっと大好き」の部分に相当力が入っていたのか、彼女の声はそこだけ上ずっていた。

「わたしね。卒業とか、誰かが引っ越していくときとか――仲良くした人とお別れするときには、その人と一緒にこの曲を歌うって決めてるの。お互い気持ちよくお別れできるように」

「なるほど……たしかに、『離れていても心は一緒だよ』みたいな意味の歌詞だった気がする」

「だいたいそんな感じ。これ、友達にはあんまり理解されないんだけど――」

 前方のお社を向いていた彼女の目線が、いつの間にか僕をまっすぐ射抜いている。

 ひとつ息を吸ってから、千里さんは言った。

「誰かと離れ離れになるときは、一度ちゃんとお別れの挨拶と儀式をして、今までの感謝をぜんぶ伝えてからにしたいの。そうしたら未練なんてなしに別々の道を進んで、「お互い元気でやっているよ」って信じて生きていける気がするから。六年生のとき、今まですっごく仲良かった女の子が、クラスの中心グループの子たちに気に入られて。それからだんだんその子とうまくいかなくなって、最後には喧嘩になっちゃったの。その子は私立の中学校に行ったから、結局仲直りもできずに終わっちゃった」

「それは……しんどいね」

「うん。たぶんね、今も引きずってる。もやもやしたまま誰かと離れ離れになるの、もうしたくない。だから、お別れのときにはちゃんと挨拶と儀式をするようにしたんだ」

 ゆっくりと、千里さんの口から告げられた言葉に。

 そういう考えもあるんだ。素敵だな。率直にそう思った。

 ――僕も、別れのたびにそうやって丁寧に区切りをつけられさえすれば、なにも気にせずにそれぞれの場所で絆を結べたのだろうか。

「『この地球のどこかで』を歌うのが、儀式?」

「うん。お互い遠くに行くんだもん。だからね、よかったら一緒に歌ってほしいです。曲は違うけど、あのときみたいに」

 あの日の、音楽室みたいに。千里さんはそう言っているんだ。

 拒否する理由なんてなかった。

「うん、歌おう」

「やったぁ! んふふ、歌お、歌おっ」

 小さい子のように無邪気な笑顔が返ってくる。控えめな笑い方ではあるけど、それでも最初の印象とは違う、はっとなる表情。控えめで穏やかなのよりは、こっちのほうが千里さんの素に近いようだった。

 その笑顔のまま、千里さんが指揮棒のように右手の人差し指を振り上げる。それと同時に、彼女は口で伴奏を奏で始めた。

「たーったたったらったたったー、たっら――」

 それだけで、中学校の頃の思い出と、メロディーがよみがえってきた。ちゃんと歌える気がしてくる。

 千里さんの指の動きに合わせ、歌い出す。

 

 ほら昨日までの

 ふり続いた雨も上がり

 頬に夜明けの風を

 受けている


 千里さんのソプラノは、あのときのように――いや、あのとき以上に柔らかく、澄んでいた。

 必死でアルトを歌う。あれから練習を重ねたわけでもない自分は、彼女に合わせるだけでいっぱいいっぱいだ。だけど――楽しい。


 みんな少しずつ

 大人に変わって行くけど

 あの日語った夢は

 いつまでも色あせることはない


 歌詞を受け止める余裕が少しだけ生まれてくる。大人に変わって行く、けど。

 次第にお互いの目線が合う。身体の小さな千里さんに合わせて、少しだけひざを曲げる。同じ高さから千里さんの顔を見ると、彼女もどこか楽しそうにしていた。

 サビに入る。


 歩いて行く道は

 きっと違うけれど

 同じ空 見上げているから

 この地球のどこかで


 そうだ。シンガーソングライターの夢を追いかける彼女も、きっと僕と同じ世界を生きていく。

 これからも友達なんだ。そう言い切ったって、きっといいんだ。

 あのときと同じように、一番だけ。

「このーちきゅーうーのー、どーこかーでー」

 小さくて静かな神社に、ふたりぶんの声が響き、消えていった。

「いい曲だな、ほんとに……なんか勇気が湧いてくる」

 思わずそうつぶやく自分がいた。

「やったっ。この曲歌うとね、離れてもきっと大丈夫だよって言われてる気がして安心するんだけど、服部くんにもそう言ってもらえて本当にうれしい。うん、最高の儀式になった」

「それはよかった。うん、『同じ空』か……そうだね。この曲のこと、ちゃんと覚えておくよ」

「ありがとう。じゃあ、あんまり引き留めるのも悪いし。服部くん、わたしの友達でいてくれてありがとう。短い間だったけどすごく楽しかったよ。いつか、わたしの歌が届いたらいいな」

「こちらこそありがとう、千里さん。楽しみにしてるよ」

 僕の前に差し出される、手袋越しの小指。握手、というには控えめすぎるそれを、僕も小指で返した。少しだけ伝わってくる体温。すぐに離れて、お互い頭を下げる。

「さよなら、服部くん。元気でね」

「千里さんこそ、お元気で」

 そう言葉を交わしたあと。立ち上がり、帰り道を歩き出し始めて。

 ――最後に見た表情を思い出す。

 千里さんは、唇を軽く噛んで、何かに耐えるような顔をしていた。

 その顔はあまりにも明白で。

 きっと僕も、同じことを考えていて――

 ――ああ。

『さみしい』って、こういう感情だった気がするな。もう何年も感じてなかった――いや、感じないようにしていただけだ。

 別れのたびに『さみしい』を感じるのがつらいから、僕は誰にも深入りしないことにしたんだった。

 身体の奥を何かが引き裂いていくような気分だ。背後から何かに見つめられているような、そんな感覚さえした。

 後ろを、振り返りたくなって――

 いや。千里さんと僕は、お互い離れてもさみしくないように、あの歌を歌ったんだから。歩いていく道が違っても、同じ空を見上げているんだから。

 胸のざわめきをどうにか無視して。僕は、振り返らずに歩き出した。












 4


「服部くん」

 お別れをした。いま言える気持ちはぜんぶ言った。大事な歌を、ふたりで歌った。

 ――でも。

 まだやり残したことがある。さよならの儀式はまだ残っている。わたしひとりで向き合わなきゃいけない、もうひとつのさよならの儀式。

 家に帰ったわたしは、自分の勉強机の引き出し、そのいちばん奥から、封筒をひとつ取り出した。

 つるつる素材のはずなのに手触りはざらざら。それはきっと、わたしの気持ちと、封筒の中身のせい。

 だって――誰かに見られたら、みんな絶対にわたしを許さない。それくらい、いけないものが入っているから。

 

 開ける。開けなきゃいけない。

 とさ、とさっと、音を立てて写真、写真、まだ写真。カメラを意識していない笑顔。被写体はいつだってひとりだけ。服部くんだけだった。

 胸ポケットのボールペン、のようなカメラ。誰かに気づかれないように気をつけて、何枚も撮ってきた。現像までした。

 転校生なんて思えないくらいすぐにクラスに溶け込んで、誰とでも仲良くおしゃべりしているのに、なんだか、どこかで見えない壁を張っているような人だったから。転校してきたときからずっと気になっていたんだけど。あの日服部くんに話しかけられてからは、ずっと追いかけた。何度もこっそり帰り道をついていったりした。帰宅ルートなんてぜんぶお見通しで。

 この写真たちも、あの人のぜんぶを追いかけたくて撮った。

 

 わたしは、服部くんのことが

 世渡りが上手そうで人懐っこく見えて、でも本当はさみしがりなところ。話すとき、できるだけ目線の高さを合わせようとしてくれるところ。わたしがお気に入りの曲やアルバムの話をしたら、すぐに聞いてくれて、すごく楽しそうに感想までくれるところ。

 いいと思ったものに面と向かって「よかった」と言えるところ。

 好きなところぜんぶ言うのにどれくらいかかっちゃうんだろうってなるくらい、何もかもが大好きで。服部くんと一緒にいる時間は、すごく安心できた。


 いちばんの友達だった子をクラスの女の子たちに独りじめされた、あのときから。

 大事な人と離れたくない。そういう人のぜんぶをわたしの手元に置いておきたい。たとえ、そのせいで嫌われたとしても。

 そんな気持ちがずっと、頭の中に居座るようになった。頭の中だけじゃこともたくさんあった。どうしても離れなきゃいけないときには、お願いして『さよならの儀式』をするようにもした。

 ――でも、服部くんに対しては、特に自分を止められなかった。ここまで頭の中をいっぱいにしてくる人、今までいない。

 だめだよ。人としていけないよ。こんなの、服部くん自身に知られなくても彼を傷つけてるよ。わたしの中の悪魔に染まりきってない部分が――天使なんて絶対に呼べない部分が、叫んではいた。

 連絡先を交換しなかったのも、悪い自分になんとか抵抗したかったから。あの人にいつでも連絡できるようになったら、わたしはわたしを止められない。きっとそうだ。

 でも――どんなに反省と抵抗をしたって、結局、あの人に顔向けできないことをしているのはおんなじ。

 こんな写真を持っていたらあの人を心から祝えない。「ごめんなさい」と「大好き、会いたい」を、一生抱えることになる。

 前に話してくれたでしょ? 恥ずかしそうに目をそらして、「千里さんに比べたらずっと小さい夢だし、まだ具体的な職業とかなくてぼんやりしてるけどさ」って言っていたあの夢。

 服部くんは、お父さんが転勤族だから家族だけがよりどころで。服部くん自身は家族仲に恵まれたからそれでもどうにかなったみたいだけど、世間にはその唯一のよりどころさえない子がたくさんいる。そんな子どもたちと、その保護者の力になれる仕事につけたらって。夢をかなえるために、遠くの教育大学に進むんでしょう? 受験、すごくがんばってたもんね。

 だから、

 そんな夢を、あなたの門出を、心から祝うために。

 わたしは、この重たすぎる気持ちにさよならしなきゃ。

 さみしいよ。さみしいけど。離れるなんて絶対にいやなんだけど。できるなら一緒の大学に行って、ずうっと一緒に暮らしたかったけど、ね? あなたの夢を邪魔しちゃいけないから。

「……こんなことをして、ごめんなさい」

 声が出る。ぼろぼろぐしゃぐしゃの、ひとり言。

悪い人はんざいしゃのわたしはもう、いつか夢をかなえられたときの、歌でしかあなたに会えない。歌ですら許されるかわからない。だけど――お願いがいくつかあるんだよ。

 

 せめて、あなたの未来を願わせてほしい。

 せめて、ふたりで歌ったあの歌と、あの歌を覚えていてほしい。

 せめて――わたしがしてしまったことは、わたし自身に始末させてほしい。こういうこと、もう他の人にもしないから。カメラだって捨てるから。

「……さよなら、服部くん。元気でね」

 物置から持ってきた、お母さんの私物のシュレッダー。

 ぱきっとした水色のハンドルに手をかける。冷たい。きっと罰なんだ。

 

 わたしは、シュレッダーに写真を通した。

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さよならの儀式 魚田羊/海鮮焼きそば @tabun_menrui

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