兄の顔

戸右歩

兄の顔

 夕日の差し込む美術室で、僕はキャンバスに向かって絵を描いていた。

「うわ」

 床に画集を広げ、覗き込んでいる兄が声を上げた。

「どうしたの」

「これ、この感じ……あれだよな、AIの描いた絵の感じ」

「なに?」

「なんか、“よく見ると思ってたのと違う”ってパターン、結構怖いよな」

「……」

「AIの絵でさ、手っぽいものが描かれてるなあって思ってよくよく見たらねじれてるだけの肌色の塊だったりするじゃん。これ、この絵。その感じだわ」

 兄は画集を指差す。錯視を使った騙し絵の画集で、遠くからぼんやり見ると人間の顔に見えるが、近くでよくよく見ると果物や野菜だったりするものらしい。僕はそちらには目を向けず、口と手を動かす。

「……錯視を利用して細部までこだわって描かれた美術作品と、AIで出力した絵は違うよ。でも言いたいことはなんとなくわかる」

「あれだ。道端で、白猫だと思って近付いたらビニール袋だった、的な。これならお前もわかるだろ」

「うん。わかる」

「通学路にある赤いポスト。あれもさ、毎日まじまじと見てるわけじゃないじゃん。あれがさ、赤い服の女の人に変わっててももしかしたら気付かないかもしれないよな」

「……それは………怖いから、気付くよ」

「ほんとかー?」

 キャンバスに色を乗せながら頷く。普段は風景画ばかり描いているから、人の顔を描くのは時間がかかる。

「じゃあさ、今この部屋の端っこにいる人に気が付いてる?あそこ。黒い着物着た人で、」

 兄は美術室の隅を指差している。そちらを確認するまでもなく、僕は答えた。

「それは気付いてるよ。いつもいる人だもん」

「……そっかあ……」

 兄は立ち上がり、僕の後ろから絵を覗き込んだ。

「……なあ、これ、ほんとに使うの?」

「使うよ。兄ちゃんの遺影に」




 今夜、兄の通夜が行われる。僕の兄は昨日交通事故で死んだ。胸を強く打ち付けて心臓が止まってしまった。遺体は綺麗な状態だという。それでも僕は、兄の顔を見ることができなかった。


 兄だけでなく、僕は全ての人の顔を見ることができない。“人間の顔”を見るのが怖い。もちろん自分の顔もだ。視界の端に入るくらいなら問題はないが、焦点を合わせてまじまじと見ることはほとんどできない。というか、何年間もまともに人間の顔を見ていない。わざと度の合っていない眼鏡をかけているのもそのためだ。人間の顔を細かく認識しないように、恐怖をぼやかして生活している。

 十年前、父が死んだ時。僕は父の死に顔を見て強いショックを受けたそうだ。異常なほど怯える僕を見た兄は家中の写真を隠した。よく一緒に遊んでいた福笑いも押入れの奥にしまった。僕が人間の顔を見なくて済むようにあらゆる手を尽くしてくれた。


 そんな兄があっけなく死んでしまった。母は遺影のために兄の隠した家族写真を探したが見つからなかった。




「兄ちゃん、中学の卒アルで全然笑ってないらしいから。母さんがAIで笑顔の兄ちゃんの写真作るって言ってる。おかしくなってるんだ。僕はそんなの嫌だから」

「だからって、遺影描くか?」

「もう完成しちゃったから、これを置く」

「そうか。……なあ、今の俺の顔も見れないか?」

 兄は事故に遭った時の制服のままだった。

「………見れないよ」

「そっか……」



 なぜ死んだはずの兄と話せるのかは、わからない。はっきり顔を見てしまうと兄が消えてしまうような気がして。僕は完成した絵を担いで自宅へ急ぐことしかできなかった。




 棺桶の後ろに置かれた祭壇。花に包まれるように中心に写真が置かれている。


 祭壇に乗り上げ、写真の上からかぶせるように描いた遺影を置く。背後から、猫の首を絞めたような甲高い音がした。母さんが何かを叫んでいる。

 走ってきた親戚が僕の服を掴み、祭壇から引き摺り下ろす。眼鏡が落ち、踏まれて割れる。


 ぼやけていない視界で振り返ると、棺桶の隣に兄の足が見えた。

 叫び声が遠ざかっていく。静まり返った室内で、足音も立てず近づいてきた兄が、自分の棺桶を指差す。


「俺の顔、見てみろ」

「最後に一目、見てくれたって良いだろ」


 気付けば蓋を開けて、兄の顔を覗き込んでいた。




 息を呑んだ。


 顔のパーツが、てんでばらばらな位置についていた。


 鼻らしきものは逆を向いていて、穴の数が多い。包丁で切り裂かれたような切れ目は、閉じられた口と目のように見えるが、あまりに歪んでいる。頬も不自然に膨らんでいる。

 指で目らしき切れ目をこじ開けると、目の開き方が縦横逆であるとわかる。目玉は二つとも明後日の方向を向いていて、白目は萎んでいた。口を両手でこじ開けようとしたところで、親戚の誰かに肩を掴まれ、引き倒される。開いた口の中に一瞬、小さな白い石がびっしりついているのが見えた。


 誰かの怒声が、耳のすぐ隣を通過する。


 まさか、あれが、歯だろうか。


 ばん、と大きな音がする。祭壇の方を見ると、僕の描いた遺影を母が叩き落としていた。水彩画の兄の顔が前に倒れる。後ろから現れたのは、母が用意した遺影だ。

 棺桶の中の兄と同じ顔の構造だった。

 口と目が大きく開かれた悍ましい顔。


 こちらを向く母の顔もはっきりと見てしまう。取り囲む親戚たちの顔も。

 全て兄と同じ顔だ。



 息が止まり、遅れて胃の内容物が逆流してくる。誰かが僕の制服を掴むが、突き飛ばして洗面台へ走る。


 喉の奥が開き、食道から胃液が流れ出てくる。今まであんな悍ましい顔に囲まれて、僕は生きていたのか。洗面台に顔を突っ込み、嘔吐する。

 蛇口の銀メッキから、歪んだ顔の僕がこちらを見ている気がして、目を逸らす。ごぽごぽと渦を巻きながら流れていく水流に、光を背にした僕の影の輪郭が揺らいでいる。


 顔を上げることができない。

 この洗面台には大きな鏡がついている。

 今、顔を上げたら、きっと自分の顔を見てしまう。失敗した福笑い、腐った野菜の騙し絵。


 耳のすぐ後ろから兄の声がする。

「向き合うんだ。お前は見ないといけない。解放されるために」

 洗面台のフチを掴み、思い切って顔を上げる。



 顔のすぐ目の前に、喪服着物の人がいた。


 天井から逆さまに吊り下がるようにして、僕の顔と顔を突き合わせている。


 目は顔の上と下に一つずつ、縦向きについている。上の目玉と下の目玉は常に逆方向を向いており、白目は溢れんばかりに膨らんでいる。鼻の穴は一つで、顔の左上に穴を上向きにしてついている。口は顔の中心に空いた深い穴で、外側に広がるように複数の唇が開く。歯茎が何重にも円を描くようについており、尖った歯は口の外側に向かって生えている。頬骨に沿って薄い肌がぴったり張り付いていて、ところどころが青く、それ以外は紫色。


 これが、普通だ。僕が知ってる普通の顔だ。幼い頃からずっとこの顔を見てきた。

 着物の人はいつも僕の近くにいてくれた。天井から逆さに吊り下がって、僕の視界の端で、常に僕を見守っているのだ。


 僕が描いた兄の遺影も、この顔と同じ位置に目や鼻や口がある。


 ひどく安心した僕は鏡には目もくれず、着物の人の顔を見て、にっこり微笑んだ。

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兄の顔 戸右歩 @tohuhuhu

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