黒いヴェルファイア
増田朋美
黒いヴェルファイア
寒い日であった。こんな寒い日に外出する人はなかなかいないと思うけど、何故かその日、プリンターのインクが切れてしまったので、蘭は仕方なくちょっと遠方にある家電屋にタクシーに乗って行った。蘭が用を済ませて帰りのタクシー会社に電話をかけようとしたその時、
「こんにちは、伊能蘭さんではありませんか?車椅子に乗っているから、すぐに分かりました。」
と、一人の女性が蘭に声をかけてきた。
「あの、どうして僕の名前を知っているのですか?」
蘭が驚いてそう言うと、
「はい。私ですよ。おわかりになりません?田子浦小学校で同じクラスだった山口ですよ。山口祥子です。」
とその女性は答えたのであった。
「山口祥子さん。ああ、もしかして、一年二組で学級委員をしていた方ですか?」
蘭は思い出しながら言った。
「はい、その祥子です。やっと思い出していただけた。と言っても今は山口ではなくて、村田なんですけどね。」
蘭は、その女性の全身を眺めてみたが、それにしても美人である。確かに、一年二組で学級委員をしていた女性は山口祥子という女性であったが、今ここに居る山口祥子さんは、蘭が記憶していた山口祥子さんとは、全く別の人の様に見える。
「ねえ蘭さん。どうせタクシーで帰るんだったら、私の車に乗っていきませんか?車椅子の方でも乗れるようになっていますから。私、家族を介護していた経験がありまして、その車だけが残っているのです。ちゃんと乗せられますから、大丈夫ですよ。」
と、祥子さんが言った。蘭は大丈夫かなと思ったけれど、祥子さんの好意も潰せないと思ったので、彼女の車に乗っていくことにした。
「こちらの、黒いヴェルファイヤが私の車なんですよ。これに乗ってくだされば大丈夫です。お家がどこにあるのか、道順を言ってくだされば私その様にしますから、心配なさらないでね。」
と、祥子さんは、一台のヴェルファイアの前で足を止めた。そして、後部座席のドアを開け、リモコンで座席を回転させてくれた。更に蘭を車椅子から降ろしてくれて、その座席に座らせてくれて、また座席を格納するという作業をしてくれた。蘭の車椅子は折りたたんで、格納庫の中に入れて、
「じゃあ行きますよ。」
と言って運転席に座った。ここまでの手付きはとても素晴らしいものだった。そんなことができるのだから祥子さんはとても力持ちなのだと思った。
それにしてもこのヴェルファイアは、普通の車とは違うような気がした。だってサードシートが撤去されていて、まるで車椅子をしまい込むのを前提に作られているような車なのだ。
「とりあえず、バイパスへ出ますから、そこからどこに行ったらいいのか、教えてくださいね。」
祥子さんはにこやかに笑って、ヴェルファイアを動かし始めた。とりあえず、バイバスをはしってもらって、マクドナルドのある交差点を左折してもらった。祥子さんは、あまり土地勘がなかったらしく、目印になるはずのマクドナルドを見つけるのに時間がかかった。祥子さんは、私がいたときはマクドナルドがなかったから、分からなかったと言った。
「もしかしたら、別のところに住んでいて、富士には最近戻られたんですか?」
と蘭が祥子さんに聞くと、
「ええ、出戻りなんですよ。」
祥子さんは小さな声で言った。
「出戻り?」
蘭が聞き返すと、
「ええ、出戻りなんです。結婚して、しばらくは東京にいたんですが、こんな母親ではだめだって言われて、追い出されました。」
と祥子さんは言った。
「こんな母親ではだめ?」
蘭がまた聞き返すと、
「も、もうね。あたし、何をやっているんだろうと思ったんですけど、、、。ああ蘭さんには関係ないことです。あたしったら、他人に言うべきことでもないか。」
とわざと明るい顔をして、祥子さんは言うのである。
「あの、なにかあったんですか?」
と、蘭はそう聞いてみると、
「はい。あったんです。元はと言えば、息子を乗せるためにこの車も買ったんですよ。だけど、要らなくなってしまったわ。」
祥子さんは本当は涙をこぼしたいんだという気持ちになったのだろう。なんだか一生懸命こらえている様子だった。
「はあ、息子さんは車椅子だったんですか?」
蘭はすぐ言ったのであるが、
「ええ、その責任はあたしにあるって、言われてしまいました。それは、申し訳ないことですよね。だから、出ていけと言われても仕方ないということで、追い出されて戻ってきたんです。」
本当は、彼女は誰かに話したいんだろうなという口調でそういった。
「ああ、もう少し行くと、病院が見えてくると思いますので、そこの駐車場で降ろしてください。」
蘭はわざと明るく言うと、祥子さんも、なんだか涙をハンカチで拭いて、
「わかりました。じゃあそうします。」
と、蘭に言った。確かに、マクドナルトから少し走ったところに大きな総合病院があった。祥子さんはそこの駐車場に車を止めた。そして、また座席を回転させて、蘭を降ろし、車椅子に乗せてくれた。
「ありがとうございます。お陰で助かりました。」
蘭がそう言うと、
「そうね、この子も一度だけ目的が果たせてよかったのではないかしら?」
彼女は涙を拭きながら言った。
「この車も近いうちに売りに出すつもりだったのよ。もう息子はいないんだし、使わずじまいになっちゃったけど、まあ、それは逆に使う人に譲り渡す予定もあるかもしれないしね。それを考えればそれでもまだいいほうだわ。」
「ということは、亡くなられたんですか?」
蘭は彼女に言った。
「まあ、そういうことかな、、、。まだ受け入れられないけど、でも、そうしなくちゃいけないんだってわかることなんだけどね。なんか人生って後悔することばかりで、なんか幸せなんて、どこに逝っちゃったのかなあ?なんでこんな事をされなくちゃいけないんだろうな。不思議でしょうがないわ。」
そういう彼女に蘭は、なんだか自分のところに来るお客さんと同じ気持ちを持っているんだなと思った。
「そうですか。それはおつらいですね。うちの妻が子供が生まれるところを手伝う仕事をしているものだから、それをなくすと言うのは、非常に悲しいものですね。それは多分誰のせいにもできないでしょうし、お母様だってできることも十分にやったのではないですか?少なくとも、それは思わなくちゃ。」
そう蘭は彼女に言った。
「そうなの?蘭さんは、そう思ってくれる?」
祥子さんは蘭に言った。
「ええ。だって仕方ないじゃないですか。人がなくなることなんて誰も予測は着きませんよ。たとえ余命1年とか、そういう告知が予めあったとしても、それでも悲しくなることでしょう。それを乗り切れとか越えろとか、そういう事を言うのが無理なんじゃないかと思いますよ。そういうことなんじゃありませんか?人がなくなったら、悲しむのが自然なことじゃないかと思いますが?」
「そうなんだ。私の不注意さえなかったらと思っていたのです。それを周りの人からは、すごいいけないことだと言われてしまって。私はもうどうしたらいいのかわからないということで、ずっとつらい思いをしてきたんです。」
そういう祥子さんに、
「でも、きっと息子さんは、泣いているお母さんよりも笑っているお母さんのほうが、喜ぶんじゃないでしょうか。それは、確かなんじゃないかな?」
と蘭は言ってあげた。
「そうよね。ありがとう。なんか蘭さんにそう言ってもらえて、なんか嬉しかった。それをいってくれた上で、笑ってくれるお母さんでいてほしいっていってくれたから、嬉しかったわ。そういう事、いってくれた人は生まれて初めてだった。あたしも頑張らなくちゃね。蘭さんありがとう。」
祥子さんは、急いで車に乗り込んで、エンジンをかけた。
「ええ、気をつけて生活してくださいね。きっと息子さんは、お母さんがにこやかに生活してくれることが、何よりののぞみだと思いますから。」
蘭が彼女にいうと、
「はい!ありがとう!蘭さん。私、これからも頑張ります!」
と言って、彼女は車を動かしていった。蘭は、なんだかいいことをしたなと思いながら、自宅へ帰っていった。
それから、一ヶ月ほど経ったある日。蘭は書店に行って、本を買い、お金を払いにレジの近くに行って見たところ、富士市のローカル雑誌である、富士市民文芸が置かれていた。蘭は、別に素人が考えた小説は面白いとは思わなかったのであるが、今回は何気なくそれを取ってしまった。そして、富士市民文芸をペラペラめくって読んで見ると、
「はあ、、、村田祥子さん、ええ?出版記念インタビュー?」
という記事があったので、びっくりする。
「どうしたんですか。お金を払う前にそんな真剣な顔して。」
本屋のおじさんにそう言われて、蘭は急いで、本と一緒に富士市民文芸を一緒に買った。余分にお金はかかったが、それでも構わなかった。そして本を持って、タクシーを待っている間、その市民文芸を読んでみた。それによると、村田祥子という女性が、本を出版したという記事が載っていた。確かにこの間あった、村田祥子さんであった。だけど、彼女の顔は蘭が記憶している顔とは違うような気がするのである。確か、蘭が知っている彼女はよく太っていて、むっつりした感じの顔であったはずだが、写真に写っていて、先日彼を車に乗せていった女性は、ほっそりしていて、誰もが認める美女であった。どういうわけで、彼女はそのような容姿になったのか?蘭が、その記事を読んでみると、たしかに彼女は努力したようである。多額のお金をかけて、体をきれいにして幸せを掴んだのに、息子さんが重度の障害を持って生まれ、それをようやく受け入れようとしたところ、息子さんをなくしてしまったとか。それで、母親不適格とされて、ご主人と別れなければならなかったということなど、そういう事を赤裸々に綴られていた。詳しくは本を読んでみてくれということであったが、つまり、自伝を出版したということだろう。
それから何日か経って。
「おーい蘭!風呂貸してくれ。また事件があったんだ。もうどうしようもなくてね。だから風呂を借りに来た。ああ、寒い寒い。」
と言いながら、華岡が、蘭の家にやってきた。
「また事件って何だよ?うちのテレビは壊れたままなので。」
蘭が聞くと、
「ああ、傷害事件だよ。なんでも、母親が、子供がご飯を食べないので、子供を殴りつけて怪我をさせたという事件なんだよ。通報は、救急隊員から入ったんだが、何でも子供の顔があざだらけになるほど殴っていたらしい。」
と、華岡は言った。
「そうなんだね。それで、子供さんは無事なんだろうか?」
蘭は思わず聞いてしまう。
「ああ、幸い命に別状は無いらしいんだが、まだ経過が良くなくて意識が戻らないそうなんだ。しかし、大事なのは、その母親の方じゃないかなと思うんだけどねえ。どうせ刑期を終えて出所すれば、またお母さんと暮らすんだからな。また再発してしまわないかとなんか心配でしょうがないんだよねえ。」
と、華岡は大きなため息をついた。
「そうなんだ。そんな事件があったなんて知らなかったんだけど、全く困った母親が居るもんだな。最近は子供を殺してしまうとか言う事件も多いが、なんだかご飯を食べないだけで、そんな事を起こしてしまうなんて。」
蘭も思わずそういったのであるが、そう言いながらあることを思いついた。
「華岡さ、ちょっと協力してもらえないかな?黒いヴェルファイアを持っている女性で、村田祥子という女性がどこに住んでいるか教えてくれないかな?」
「ああ、どうしたんだよ。」
「実は、彼女にお願いしたいことがあって。」
蘭はすぐに言った。
華岡の調べで、村田祥子という女性は、吉原のマンションに住んでいることがわかった。蘭は華岡にパトカーに乗せてもらって、村田祥子という女性の家を訪れた。家に入らせてもらって、蘭はすぐに、
「実は、子供をご飯を食べないせいで、殴って怪我をさせてしまった女性の事件を知っていますか?」
と、祥子さんにいった。
「ええ、事件のことはニュースで知りました。なんで、ご飯を食べないということでああして意識が戻らないほど殴らなくちゃいけなかったのかしら。」
祥子さんも驚いた様子で言っている。
「それでは、事件のことを本にしてくれませんか?だって、あなたは自伝を出版することができたんですから、そうやって文章に表すことは得意なのではありませんか?」
蘭は単刀直入に言った。こういうときはそう言ってしまう方がいいのだった。
「そうですね。でも、あたしがそんな事できるかしら?あたし、自分のことはかけたかもしれないけど、人の事を書くというのはできるかどうかわかりませんよ。」
と、祥子さんは言っている。
「でも、なにかの形にして、後世に残さなければいけないことってあるんじゃないかと思うんです。僕らの世代では、子供さんがご飯を食べないことで、子供さんを怪我をするくらい殴るということはありえない話でした。そのありえないことが平気で起きているのを、文字にしてつたえることができるのが文学です。ただのテレビゲームを文章にしたようなものは本にはなりません。本にするってのは、記録を残すことでしょう。だから、すごいことでもあるですよ。」
蘭は、そう彼女に言った。彼女は、ちょっとため息をついて、
「そうですね。あたしも、息子のために笑顔で生活しなければならないと思いますし、そのためにはいろんな事しなくちゃいけませんよね。そういうことなら、私も協力します。」
と蘭に言った。
そういうことで蘭と、村田祥子さんは、二人揃って子供を怪我させた母親の事を本にすることにした。まず事件の概要を述べてみると、怪我をさせた母親は、牧野あすかと言い、怪我をした子供は牧野融くんという男の子だった。蘭と祥子さんは、まず初めに、牧野さんの家を直接尋ねるのはまずいと思ったので、華岡に情報を提供してもらって、牧野融くんが通っていた保育園にいってみることにした。まず初めに牧野融くんがどんな子供だったのか、担当保育士に聞いてみる。
「ええ。融くんは確かに、うちに来ていましたが、本当に手がかかるこで、困っておりまして、他の園に行ったほうがいいのではないかと提案していました。だって、歌はすごいうまいんですけど、それ以外では全然困るんですよ。好き嫌いは多くて、園服もなかなか着ようとしない。」
担当保育士は、嫌そうな顔で言った。
「それでは、そういう事を言うくらい問題児だったんですか?」
と蘭が聞くと、
「ええ。この間の生活発表会も散々でした。私達は劇を完成させなければならないのに、それなのに彼ときたら、お母さんのところに行くって言って、もうギャンなきなんです。私も指導力がないと言われましたし、毎日お母さんのことばっかり言って、保育園に来ている意味が無いじゃありませんか!」
と保育士はそういうのだった。村田祥子さんはそれを作家らしくメモを撮っていた。
「あああの、あたしのことを悪人扱いして本に書いてしまうのはやめてくださいね。あたしは、悪いことはしてませんからね!保育士としてちゃんとやることをやってますよ!」
「そうですが。」
と蘭は言った。
「まあそうかも知れませんが、でも事実はちゃんと書かないと行けないですからね。」
蘭がそう言うと、
「保育士さんは、大変な激務で忙しかったんでしょうからね。それで、牧野くんのことを放置してしまったんでしょうね。」
祥子さんはそういった。
「でも、あんなに手がかかる子を、お母さんは大変だと思いますよ。だって、あの子は、なりふり構わずギャン泣きで、あたしたちは仕事でそういうことは我慢できるけど、お母さんは大変だと思いますよ。あんな子じゃ。あたし、戻っていいかしら。他の子のこともありますから。」
担当保育士はすぐに戻っていった。
蘭と、祥子さんは、保育園をあとにして、今度は、彼の担当医だった小児科医のところを訪れた。もうかなりの老齢の小児科医であったが、
「ああ、牧野融くんのことなら、よく覚えてます。確かに線が細い子で、保育園に入ったばかりのときも、遠足の日に、嘔吐を繰り返して大変なこともなるところでした。」
とそういうのだから、よく覚えている患者さんなんだと思った。
「はあ、それで、牧野融くんのお母さんは、それを受け入れて、反省していましたか?」
と、祥子さんが聞くと、
「どうですかね。あのお母さんも繊細な人ですからねえ。受け入れられたとはいい難かったと思います。だって周りの人達は少しも育児に協力してくれなそうな顔でしたし。」
と、先生は、そういうのであった。
「周りの人達が協力しなかったんですか?」
蘭が聞くと、
「ええ。皆さん仕事で忙しかったのだと言っていましたが、それを、口実に融くんの世話を、お母さんに押し付けていたのだそうです。まあ、昔だったらそれで通るかもしれませんが、今の時代はそうじゃないんじゃないかな。それでは行けないと思うけど、でも注意する人もいなかったんだそうです。」
とお医者さんは言った。その事実も、祥子さんは丁寧にメモを撮っていた。
「それでは、牧野さんは本当に四面楚歌の状態で、融くんと接していたということになりますね。」
マクドナルドで蘭がそれまでの事実をまとめながらそう言うと、
「そうねえ。あたしも、それはわかるんですけど、でも、この事件は解決できた事件だったかもしれないわね。あたしが、蘭さんにしてもらったようなこと、それをしてもらっていたら、この事件は起こらなかったのかもしれないわ。あたしは、あのとき蘭さんに、話を聞いてもらえて嬉しかったわ。だから、そうしてくれる人がいてくれるのとくれないのでは、ぜんぜん違うのよ。」
祥子さんは女性らしくそういった。そういうところに目をつけられるのも、彼女らしいことだと思った。
「そうなんですか。僕は大したことしたつもりは無いんですけど、そんなに重要なことでしたか?」
蘭は思わず聞いてみたのであるが、
「あたしにしてみたら、結論出す前の一歩前の感情を聞いてくれたのは、嬉しいことだったわ。それを忘れないでよ。蘭さん。」
と祥子さんは言った。蘭はそうなんだねと言って、鉛筆を持っている祥子さんを眺めていた。結論を出す前の一歩前というのは、本当につらいことでもあるのである。
黒いヴェルファイア 増田朋美 @masubuchi4996
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