ラストノートは切ない恋の香り
加藤瑞希
第1話
朝倉香は幼い時から存在感が薄かった。
両親が一瞬目を離すとどこか神隠しにあったかのように消えてしまうのが日常茶飯事だった。
そのたびに両親は家じゅうを探すことになる。
突発性揮発型存在消失症候群──。
香にその症状が診断されたのは三歳の時だった。
物質に意味が宿るなんて考えはソクラテスの時代の頃に逆行している。科学の扱う分野ではない。最初、それが提唱された時は学会で一笑された。
しかし提唱者のとある日本人は大真面目にこれを学会で訴えた。
遥か昔から存在する神隠しの伝承と科学的知見を融合させ、民俗学を越境させていきこの世に存在する四つの力、素粒子間に働く相互作用である「強い力」、「弱い力」、「電磁気力」、「重力」。これら四つの力に加えてもう一つ、五つ目の力を仮説として提言した。
提言者は学会ではそれなりの力を持っていた。だが一人娘が疾走してから従来の研究を捨ててその研究に没頭していた。一笑にしつつも学会での影響力を全てはぎ取ろうと多くの研究機関が否定する証拠を集めようとした。しかしそれが却ってその論理の現実性を高めることになる。理論が提唱されてから十年。それは認められることになった。
そんな事を私が知っているのは私が香の幼馴染だからだ。
「次の所、相沢いよさん。解いて下さい」
「はい」
数学の教師に指名されて立ち上がる。
「いよちゃん。がんばって──」
「うん」
後ろに座る香の声に頷き、教壇へ立って数式に向かう。
私が天才的な頭脳を持っていれば。香を治すことも出来るのかな?
突発性揮発型存在消失症候群は不治の難病に指定されている。
別に感染するわけではない。
だから隔離処置も必要ない。
逆に隔離するのは悪手だ。
この病気は対象の存在する確率を減少させることによってエントロピーを減少させる。既存の原理に真っ向から反対する病気だ。地域的なもの、遺伝的なもの、様々な要素が考察されているがまだ解明には至っていない。
だから発見に至らずその生涯を終える人も多くいる。
しかし香はこの病気と診断された。
きっかけは幼稚園での記念撮影だった。
香の母親と、私の母親と園内の行事の時に記念に写真を撮った時、香だけが写真に映っていなかった。
幼いころからの消失癖もあって大学病院に相談した結果、病院内での検査時にも消失減少が確認されて、それが決め手になった。現在この病気に対しては対処療法すら確立されていない。
この病気に認定された者がまず少ないのが原因だった。まだまだ未知の病気だった。ただ、多くの衆目に晒されている方が、存在感をより示すことが出来れば相殺できるのでは? という仮説はあった。だから香は診断を受けた後も変わらずに幼稚園に通い続けて、卒園し、同じ付属小学校に入学した。
私が香の病気の事を知ったのは小学校一年生だった。
香の両親、私の両親、合計六人で小学校の入学祝いのパーティーをしたときに香の母親からその話をされた。そして香の事をよく見て欲しいとお願いされた。
学校にも病気の事は伝えているし、最大限配慮してくれるが、身近な人が気にかけた方が香も喜ぶだろうとのことだった。私は興奮していた。特別なことを任されたんだと嬉しくなった。
まあ、特にそれから変わったことはなかった。少なくとも私にとっては。
香は控えめで大人しくて、読書が好きな子だった。だから一緒に本を読んだり、たまに外に連れ出して遊んだりしていた。いつも一緒。いつも手を繋いでいた。
たまに症状が表れても、徐々に慣れてきた。
基本的に香は消えている自覚があるときはその場から動かないので私も黙って香が再び出てくるのを待つのみだった。
一度香に聞いてみたことがある。消えている間ってどんな感じなのか。
プールの水の中みたいだと言っていた。外の音が遠くなって、くぐもって、視界がぼやける。
でも、私と手をつないでいると、その部分だけはくっきりとしている。だからいよといると安心する。そんな事を言われた。
この手を繋いでいるとき、確かに香と私の世界は繋がっているのだ。
そう、強く思いながら私たちは歳を重ねていった。
小学校を卒業して、中学校を卒業して、そして高校生の今を歩んでいる。
時は香を美しく磨き上げた。いや、今でも磨き続けている。清楚なロングの黒髪と淡い笑みを湛える姿は薄幸の美少女と言わざるをえない。
校内でも密かに人気だったが私が常に一緒にいるので滅多に告白まで辿り着けた輩はいなかった。告白しても香は申し訳なさそうに断るのみで誰とも付き合おうとしなかった。
その理由を聞いても香は曖昧に笑ってはぐらかすばかりだった。
§
「香、帰りに香水見に行かない?」
「いいよ。いよちゃん」
いつも通り、手を繋いで学校を出ていく。
季節は初夏だった。野球部たちが夏の大会前の練習に精を出している。
「いよちゃんは夏は好き?」
「うーん。お祭りが多いのは良いけど暑いのは勘弁。汗もかくしさ」
「私は夏、好きだな。いっぱい香りがあるの」
「香り?」
「うん。季節にも香りがあって、私は夏の元気いっぱいの香りが好き。今日の香水もそれをイメージしたんだよ」
「どれどれ──」
香のうなじに鼻先を近づけてスンスンと香りを嗅ぐ。最初にスッとシャーベットミントの香りがして、その後に柑橘系の香りが甘く爽やかに香る。
「うん、良い香り」
「えへへ、ありがとう。私も同じ香水付けようかな」
「それじゃあ意味ないよ、違うのにしたほうがいいよ」
香が少し強めに言う。
「なんで?」
「何でも──同じじゃない方が飽きないでしょ?」
「まあ、そう言うものかな?」
「そうそう。私がいよちゃんにぴったりの香りを選んであげるから」
「──うん。約束だよ」
ずっと一緒に育ってきた。誰よりも一緒にいた。
でも、時々私は香の事が分からなくなりそうになる。私たちは同じ人間ではない。
私は相沢いよ。
彼女は朝倉香。
全くの別人だ。
感じ方も違うのかもしれない。でも、私は少しづつ大人になっていくにしたがってズレが大きくなるのが怖かった。香の手を気持ち強く握る。そうしないと、手を離すと香が消えてしまいそうだから。
「どうしたの? いよちゃん」
「ううん、なんでもない。行こう──」
§
高校二年の時、夏祭りの日だった。
浴衣を着て花火を見に行った。
けれど花火のよく見える河川敷ではなくて、人気の少ない海岸線沿いを選んだ。
万が一にも香とはぐれるわけにはいかなかったからだ。
どーん、どーん──。
私たちの背中には重低音を響かせながら大輪の花びらが夜空に咲き誇っている。
「あっちの花火も綺麗だねー。いよちゃん」
「こっちの花火も綺麗だよ」
そう言って手持ち花火にろうそくで火をつける。少しの間があってからじりじりと先の穂がチリチリと燃えていきシャワーのような火花を咲かせていく。
「わー、こっちも綺麗!」
「あはは、走ったら危ないよ、香ったら」
無邪気に走る香を追いかける。ああ、神様はイジワルだな。どうして香なんだろう。
どうして私の大切な人を世界は奪ってしまうんだろう。香の笑顔に世界の残酷さを見てしまい。私はあまりうまく笑うことが出来なかった。そんな私の事を香はよく見ていたようだった。
「大丈夫。まだ私はここに居るよ。いよちゃんと一緒にいる。だから大丈夫だよ」
「──そうだね」
「うん。だから笑って──」
ずっと一緒に居て欲しい。
そんな叶わぬ願いを言えるほどには私は子供ではなくなっていた。
何もかもを飲み込んで笑えるほどにも大人ではなかった。
だから私はやっぱりぎこちなく笑うしかなかった。
香は微笑むと私の肩に頭を乗せて身体を預けてくる。
その華奢な身体を抱きしめて。私は空を見上げた。
§
香の消失が増えたのは高校三年の春からだった。
一つの授業丸々消失することも珍しくなかった。授業もまばらにしか受ける事が出来なくなってしまった香は私のノートで必死に勉強していた。
香の将来についてふと考えた夜。私はとてつもなく不安になった。
ずっと一緒にいると思っていたのに。香がこのまま消えてしまったらどうしよう──。
不安で、不安で、胸を押しつぶされそうだった。
「香──」
深夜、ベッドの上で天井に向けて手を伸ばす。この手がいつでも香と繋がれていればいいのに。不安と共に私は微睡みに身を任せた。
§
そうしていく中でも月日は流れていき、私と香は卒業式を迎える事になった。
卒業式の看板の前で一緒に写真を撮る。私は泣いていた。
この卒業式と共に私は香と別れてしまう。
香は卒業と同時に施設に向かう。香の症状がひどくなってきて日常生活を送るのが難しくなってきたからだ。そこの施設は大学の研究機関と提携していて、国の補助もあり、研究に協力する代わりに生活の面倒を見てくれる。私は無性に悲しくなって、憤って、そして何もできない己の無力さに打ちひしがれて泣くしかなかった。香の前では泣かないように明るく振る舞っていたけど、家では泣きっぱなしだった。
でも、卒業式の日。
私は香の前でボロボロ涙をこぼした。
「あはは、いよちゃん泣きすぎ。そんなに寂しい?」
「うん。寂しい」
香と別たれるのが寂しくて仕方がなかった。
「大学の写真いっぱい送ってね」
「うん」
「いっぱい、いっぱい、いよちゃんの笑ってる顔を送ってね」
「うん」
我慢できなかった。
思わず香を抱きしめる。
香は何も言わずに抱きしめ返してくれる。
暖かくていい匂いがした。
カサブランカのような、でも違う、もっと穏やかで優しい香り。
甘くて落ち着くいい香りだった。
「それじゃあね。いよちゃん」
「じゃあね。香」
そうして私たちは離れ離れになった。
§
大学生活は最初慣れるまで大変だった。少しずつ余裕が出てきて、友達と言える人も何人かできてきた。それでも私にとっての一番は香だった。
毎日、通話をして写真を送って、大学の様子を報告していた。大学生活は楽しかった。それを香に話す時間が楽しかったから。
香の症状はあまりよくないらしい。一日に何度も消失してしまうらしい。でもこの通話の時間は保たれていた。突発性揮発型存在消失症候群は末期になると消失時間の方が長くなっていく。身体の密度が減っていき、存在している時でも肉体の重さが減っていき、ものを食べることもできなくなっていく。そしてある瞬間。存在が完全に消失して空に溶けていってしまうかのように消えてしまう。
§
大学の夏休み、私は実家に帰省して香に会いに行った。久々に香に会えると思うとワクワクが止まらなかった。
「やっほー。いよちゃん」
変わらない声。しかしその姿は変わっていた。
食事もろくに取れなくなって痩せ細った姿が痛ましかった。けれど、その姿はとても儚くて、薄氷のような美しさを持っていた。
「久しぶり。香」
「うん。まあ、毎日お話しているからそんな感じはしないけどね」
香がベッドから起き上がる。
「寝ててもいいよ。無理しないで」
「大丈夫。その代わり──手を繋いで。久々に」
「うん」
ベッドの横にある椅子に座って、香の手を握りしめる。
少しその手は薄くなっていた気がした。けれど暖かさは変わらない。そこに香はいた。
「大学はどう?」
「ようやく一人暮らしにも慣れてきたよ。まだまだ自炊は苦手だけど」
「あはは。いよちゃんお料理とか苦手そうだもんね。目分量で料理しそう」
「そのうち上手くなるもん」
「そうだね。きっとそのうち上手くなるもんね。がんばってね。あー、羨ましいなあ。いよちゃんの恋人さんはきっと料理上手ないよちゃんしか知らないんだろうなあ」
「なにそれ?」
「私の方が一つ多く知ってるって自慢でしたー」
「もう──私の一番は香だよ」
「ふふふっ、嬉しいな」
香がキュッと握る指先に力を込めてくれる。
「でも、いよちゃんには未来があるからね。忘れないでね。絶対、好きな人を見つけてね」
何を言ってるんだろう──。
私には香が居ればいいのに。香以外いらないのに──。
「香が居ればいいよ。それ以外はいらない」
「私はきっともうすぐいなくなっちゃうから。だから──」
「そんなこと言わないでよ! 言葉は言っちゃったら本当にそうなっちゃうかもしれないんだよ!」
「分かって。私、今朝も何度も消えかけていた。こうしていよちゃんと毎日お話しているのも奇跡なの。だからいつまでもいられない」
そんな事分かりたくなかった。だって小さい時からずっと一緒だったんだもん。一緒にいるのが当たり前なんだもん。そんな簡単に諦めたくない。
「そんなの、分かりたくないよ──」
駄目だ。言葉を紡ごうとするが香を傷つける言葉になってしまう。
私がどんな気持ちでいるのかなんて香に分かるわけがない。
諦めるなんて香の意気地なし。
私に次なんてない。
どれも香に聞かせたくない想い。
辛いのは私ではない。
辛いのは香だ。
だからこらえろ。
こんな話をしたくてここに来たわけじゃない。
香の笑顔がみたかったはずだろ?
「私、香が居ないのなんて耐えられないよ」
言おうと思った事と正反対の言葉が出てしまう。私の本心。
「いよちゃんが居たから私は私で居られた。いよちゃんがいつも見つけてくれたから私は消えずに済んだの。だからいよちゃん。今までありがとう」
香に抱きしめられる。またあの香りだ。香から仄かに香る落ち着く匂い。
涙がジワリとこみあげる。
次々に涙が零れてくる。
香はそんな私の背中を時々さすってくれた。小一時間くらいした頃だろうか、少し落ち着いてきた。それに泣き疲れてしまったのだった。泣くのにも体力がいる。そんなことを実感した。
香の胸から顔を離す。すっかり香の病院着には涙の染みが出来ていた。
「ごめん。今日はこんな事話すつもりじゃなくてもっと楽しいこと話すつもりだったのに──」
「ううん。いいんだよ、いよちゃんの可愛いところが見れたしね」
「ふふっ──」
「ははっ──」
それから私たちはなんてことのない話をダラダラと時間まで続けた。
「ねえ、いよちゃんは何を勉強してるの?」
「化学とか数学」
「おー、知らない間にいよちゃん頭よくなってる感じがする」
「ちょっとバカにしてない?」
「全然してないよー」
「そう?」
「将来は何になりたいとか考えているの?」
「んー。その──秘密」
「えー、ずるいなー。いいじゃん教えてよー」
香がつないだ手をギュっギュっと小刻みに握る。
「んー、なんていうか。笑わない?」
「もちろん! いよちゃんの夢だもん」
「香水をね、作りたいの。調香師ってやつになりたいんだ」
初めて他の人に自分の夢を話した。夢と言っても朧げなものだけど。
でも──。
「調香師かー。素敵だね! いよちゃんなら絶対になれるよ! 応援するね」
そう言って微笑む香の淡く優しい香りを再現したいなんて言ったら笑われそうだから、これは墓にもっていくまでの秘密。誰にも言う気はない。
その後も何でもない話を続けて、あっという間に面会の時間は終わってしまった。
「また、明日も来るね」
香の華奢な体をギュッと抱きしめる。
なんだか今にも透けて溶け落ちそうに感じて、面会時刻終了を知らせるチャイムが鳴り響くまでずっと抱きしめ続けた。
神様、お願いです。香を連れて行かないでください──。
そう願い続けた。
でも、神様は残酷だった。
§
翌日、朝倉香の完全消失が確認された。
§
時はそこから十年の月日が経つのを待つしかなかった。
まあ、私がこの日記を再開したのが十年後だっていうのに過ぎないんだけどね。
いやー、久々、久々、なんて言うかやっぱりショック過ぎて日記も書けなかったんだよねー。
まあ、未だに全然立ち直っていないんだけど。なんて言うかあれから十年経ったし、少しは大人になったし、どうにかなるかなーと思ってこの日記を読み返していたけど、まあ読みにくいね。もうちょっといい感じの文章にしたかったなー。その方が香も喜んでくれたかもなんて思いつつも香ならそのままのいよちゃんで良いんだよって言ってくれる気もする。香は私に甘かったから。夏の思い出とか甘酸っぱくてどうしようかなーと赤面しちゃいましたよお姉さんは。まあ、お姉さんと言うには歳を取ってしまったかもしれないけど。
一応、今日は香のお墓参りの後にこれを書いてます。
香のお墓、香の身体は何も入っていないんだけどね。
なんか遺骨をダイヤモンドにしたりするサービスってあるじゃん。ああいう形に残るものがあった方が残された方はやっぱりいいかなーなんて思うのよね。お空に消えちゃうなんて字面は綺麗だけど、やっぱり残してくれた方が嬉しいよ。こっちとしては。
お墓の前でも報告したけど、ちゃんと大学卒業したよ。就職もした。大手ってわけじゃないけど香水ブランドにちゃんと入れた。入ってすぐに調香師になれたわけじゃないけど、去年から無事に調香師の仕事も始めることが出来た。香の匂いを再現した香水もすっごいがんばって作った。もう、本当に倒れるかと思った。香りって記憶に残りやすいんだって。だから今でも香の良い匂いは覚えている。声は一番最初に忘れてしまうんだって。確かにちょっと薄ぼんやりしてるかも。でも、まだ覚えている。香の事は絶対に忘れない。私がお婆ちゃんになっても私はこの香水を絶対につけ続ける。そうして香の匂いに包まれながら死んでいくの。
正直な所を話すと何度か自殺しようと考えました。
でも、自殺って痛そうでさー。苦しそうだし。
それに死のうって思うたびに香に抱きしめられた時の事を思い出すんだ。
そうすると、死ぬのはもうちょっと後でいいかなって思ったんだ。
結局私達って何だったんでしょう? ふと最近、そんなことを考えてしまいます。
友達と言うには近すぎた気がします。親友だったのでしょうか?
でも、私は香との関係を親友とカテゴライズしようとすると胸の奥に大きなしこりが生まれるのを感じてしまうのです。消し去ろうと考えました。いいじゃない、親友。素敵な響きよ。なんて自分の心をあやしてみたりしたのですがいう事を聞いてくれません。
やっぱり──好きだったのでしょうか? 私は香に恋をしていたのでしょうか? 私は香を愛していたのでしょうか?
泣きたくなってきました。
香、大好きだったよ。
もっといっぱい一緒にお出かけしたかったね。
もっと一緒に、色んな所を見てみたかったね。
もっと一緒に、一緒に──大人になっていきたかった。
オシャレして遊びに行ったり。
大学のテスト勉強をがんばったご褒美に夏休みに旅行に行ったり。
合コンに行ってみてキャーキャー騒いでみたり。
そして──香に告白したかった。
香と恋人になりたかった。許されるなら結婚もしたかった。家族だよ。新しい家族になるの。私と香で。朝倉いよがいいな。香の名字素敵だもん。ああ、香ともっと一緒に生きていたかったよ。ああ、ダメ、お酒飲みながらだと駄目ね、心が弱っちゃう。やっぱり駄目かも。
もう少し日記は封印。
§
日記を閉じて涙を拭う。そしてウィスキーの入ったグラスの中身を飲み干す。
§
香、今日はシラフよ。あれから半年が経ちました。
今日は、まあ報告と言うかなんて言うか。
その──同僚から告白されたの。
同僚と言っても三つくらい年下の後輩なんだけど。食事に誘われて、仕事の打ち合わせも兼ねているのかな? なんて想ったらオシャレなイタリアンでね。料理は美味しくて、雑談もまあ楽しめて、そろそろ仕事の話かな? とか思ったら私の事を異性として意識していますって感じの事を言われたのよね。どうやら本気みたいで──取り敢えず断っちゃった。
ねえ、どうすればよかったのかな?
§
日記を閉じて天井を仰ぎ見る。
なんの代わり映えもしない、自室の天井だった。
「香──答えてよ。これでいいのよね?」
自室に響くのは私の声だけ──のはずだった。
「いいわけないでしょー!!」
「えっ!?」
振り向こうとして椅子から転げ落ちる。
「いたた──」
転げ落ちた椅子から立ち上がろうとすると目の前には手が差し出される。
「はい」
「うそ──」
目の前には十年以上前に消失が確認された香が立っていた。
季節外れの夏を思わせる真っ白なワンピースで。
「いよちゃん」
「なんで──夢?」
ほっぺたを引っ張ってみる。
痛い。その痛みが現実であることを訴えかけてくる。
「手」
「あっ、うん──」
取り敢えず香の手を掴む──が、しかし。
「つかめない?」
「あー、やっぱり無理かあ」
香が寂しそうに笑う。
「流石に重量はないか。見えるだけでも感謝しなきゃだね」
「そんな、どうして香がここにいるの?」
「私はずっと傍に居たよ。消えちゃった後もずっと離れなかった。お葬式の日からずっと後ろからいよちゃんを見守っていました! 幽霊みたいでしょ?」
「幽霊なの?」
「私も分からない? 存在する確率が限りなく低くなっていって存在証明できなくなるのが私の病気、意味消失してしまって一日が経って取り敢えず死亡扱いだけど。私の意識はずっと残り続けていた。視界はぼんやりとしていて最初は慣れなかったけど動けるようになって、それからはいよちゃんの近くにずっと一緒にいたよ」
「そうだったの?」
今、この病気を研究している人からすれば垂涎の体験をしている気もしたが、私は香に再会できた嬉しさの方が勝っていた。
「いよちゃん。私の事引きずりすぎだよ。ちょっと引くよ、私の香りの香水作ったり。愛が重いよ」
「だって、その、会いたかったんだもん! この香りに包まれている間は香の事を確かに感じられるんだもん」
「それはまあ、嬉しいけどさあ。三十半ばも過ぎて恋人も作らないのはさあ」
「いいじゃない。香が好きなんだもの。大好きなの。愛してるわ──本当に愛しているの」
あの頃あれだけ難しかった想いの言語化が、今ではすらすら言える。でも少し有難みが無くなった気がする。あの頃、確かにあったはずの淡く美しい想い出の方が素敵に感じられる。
「ありがとう。お互いもっと早く言葉に出来ていたら良かったのにね」
そうだ。その通り。でも、遅くはない。
「遅くなんてないよ。今からでも一緒に生きていこう? 私にしか見えなくても平気だよ」
しかし香は首を横に振る。
「今、私がここにいるのは本当に偶然。奇跡みたいなもの。いつ消えてもおかしくない」
「そんなことない。そんなのあんまりだよ」
「私がいよちゃんの前に現れたのはね。きっと後押しするためだよ」
「後押し?」
「お願い。私は十分に想ってもらった。もうグラビティーってなるくらいに。だから大丈夫。あとは自分の為に時間を使って」
「そんなの! 私の好きでやってることだもん。私はこれからも──」
「大丈夫。私は大丈夫だから、いよちゃん告白されたんでしょ? いい機会だから付き合ってみなよ。私はその人も見ていたけど、本気でいよちゃんの事が好きな人だよ。安心して──」
「安心って何よ。なんでそんな所まで見てるのよ」
「だっていよちゃんの旦那さんになるかもしれない人だからね。厳しい目で見ておかないと。えへへっ」
そうやって軽やかに笑う。
「無理だよ。私、香以外を好きになるなんて無理だよ」
「大丈夫だよ、人を好きになるのには魔法がいるの。今から私がいよちゃんに魔法をかけてあげる」
香は私に近づくと私の髪をかき上げて、えっ、っていうか触れてる?
そんなことを思っていると一瞬暖かで柔らかな感触がおでこに触れる。
キス──?
「はい。今、いよちゃんに魔法をかけました。これでもう大丈夫です。後輩君といい感じに上手く付き合えます。時間はかかるけど私と同じくらい好きになることが出来ます。だから安心して」
そう言って微笑む香の姿は朧げになっていった。
「香──身体が」
「キスに全力使いすぎたかな。きっといよちゃんの目の前に現れる事はもうできないと思います。でも、いよちゃんの側にはずっといるから。見守っているから。いつでも、どこでも、あなたを愛している人があなたを見守っているから。大好きだよ。いよちゃん──」
香の身体が透き通っていく。
「香! 私も大好きだった! 愛してる。ずっと、これからも──」
私の声は届いただろうか? 最後まで香は微笑んでいた。きっと、想いは届いたに違いない。消えた場所から彼女の香りがする。
トップノートはベルガモットとシトラスオレンジ。
ミドルノートはイランイランとカサブランカ。
ラストノートはバニラ──そして切ない私の恋心。
大切に大切に抱きしめた。
香、ありがとう。
そうして私は前を向いたのだった。
ラストノートは切ない恋の香り 加藤瑞希 @bigtop18
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