街へ
730年12月8日。
『今日はここまで』
凛とした声が響く。幼いようで威厳があり、そして普段のそれよりも英気に満ちた声だった。
ルフェーヴル男爵の声だった。
今は剣術の時間である。教育を受け持つのはベルモンドではなく、男爵だった。
その手に握られているのは直剣に近いものの僅かに剃りのある軍刀だった。芹沢の知識ではサーベル、あるいはセイバーと呼ぶべきものであった。
その構えは独特であり、芹沢の知る剣道のような両手持ちではなくフェンシングのような片手持ち、しかしながら前傾姿勢ではなくどっしりとした直立姿勢であり、刀を握っていない直立姿勢を維持するためか握り拳を背中に添わせたものだった。
芹沢が目指すべき構えが目の前にあった。当の本人は目指すべき構えの前で尻餅をつき、ただ見上げるだけだったが。
『ありがとう、ございました』
芹沢は男爵に差し伸べられた手を取った。接地していたのは僅か数秒にも関わらず、尻は既に冷たくなり始めていた。
『筋は良くなっている。覚えはいい。だが、体力が追いついとらんな。基礎訓練は正しくやっているかね』
『はい、閣下』
剣術以上の上達を見せていたのが語学だった。未だリスニングに関しては課題が残されているが、それでも日常会話を取り繕うことくらいはできていた。
前半部分はまるで聞き取れてはいなかったが、辛うじて後半部分はなんとなく察することができたため、会話を成立させることに成功している。この上なく失礼なこととは分かっていたが、男爵に何度も聞き直すのはあまりにも気が引けるのである。
かつては立ち会っていたベルモンドもここ一ヶ月ほどは席を外している。それほどに芹沢のゴール語の習熟ペースは早かった。
『この時間も、名残惜しいな……』
『より一層励むが良い』
『はい、閣下』
『よし、下がれ』
『失礼します』
礼をするや否や、出入り口の近くに掛けてあった外套を羽織る。大地の冷気をそのまま伝える練兵場は底冷えが激しく、体を動かさなければその場で凍てついてしまうかのようにも思えた。
「セリザワくん」
「大佐」
芹沢は男爵にベルモンドが立ち会わない理由を聞いたことがある。曰く、彼は稀代の剣豪であり、手加減もできないから教えることには不向きだと聞いている。
それが男爵の冗談であり、実際にはベルモンドは剣が苦手であり、現在の芹沢にすら劣るほどだったが、芹沢がそれを知るのは三ヶ月後の話である。
『随分とゴール語も上達したじゃないか』
『ありがとうございます』
いつの間にか、練兵場の出入口にはベルモンドが立っていた。日本語とゴール語の混じったやり取りが短く飛び交う。
「だが、少し横着してるな?」
芹沢は押し黙った。沈黙こそ何よりの肯定だった。
「気持ちは分からんでもない。男爵のゴール語は、こう言ってはなんだが少し古い」
『ベルモンド』
ダンシャク、なる単語がニッポン語で自身を指すことは男爵も知っていた。だが逆に、ベルモンドはそれを知らなかった。
『こんな所で長話をするな。セリザワが凍りついてしまうぞ』
だが、それを言われて一喜一憂できるほどの若さは、男爵は持ち合わせていなかった。
『ご苦労さまです』
『ありがとうございました』
『セリザワ、この時間も名残惜しいが、あちらでも励めよ』
『わ、分かりました?』
また聞き取れなかったか、聞き間違えたか、芹沢はやはり適当な返事をした。ベルモンドは青年の横着を隣で見下ろしていた。
「歩きながら話そうか」
男爵の背が見えなくなってから、ベルモンドが口を開く。芹沢は相槌を打ち、二人は練兵場の外へ出た。
時刻は18時ごろ。空には光がなく、人工光を照り返す分厚い鉛のように重たげな雲が天を覆っていた。雲量10であり、雪が降っていないだけマシとも言えた。
無論、天上の雲は雪雲であり、練兵場の外には薄く雪が積もっていた。その中を、街灯を頼りに二人の男が身を縮こませて進む。
「しかしまあ、会話をこなすか。読み書きだけでいいんだがね。夜も勉強をやってるのかね」
「眠れませんから」
その言葉が端的に彼の特異性を示していた。芹沢は時間の経過が人より遅かった。
不死身の肉体故だろうか。彼は召喚されたあの日より、芹沢は一睡もしていなかった。彼の体は睡眠を必要としないのである。
故に眠らず、否、眠れない。昼の活動から夜に切り替わっても睡魔は来ず、彼の目の前には悠然と夜の闇が横たわっているのである。それは、常人の倍以上の時間があることを意味していた。
「後は野戦教本の専門単語さえ抑えておけば、いや、それすらしなくとも君は試験に受かるだろう」
「それだけの教育を施されたんですよ、俺は」
芹沢の言う施しには直接的な指導以外にも、環境などの支援も含まれていた。彼が夜を眠れず自習していると知ると、カリキュラムの組み直しと夜間の勉強のための環境を整えるなど、甲斐甲斐しいと言うに相応しい支援を続けてきた。
芹沢はその事に引け目を感じつつも、同時に感謝していた。何らかの目的があるとは知っていたが、この勉強が少なくとも自分にとっては無駄にならないものだということくらいは分かっていた。
剣呑さを隠さないの口調も、このごろは生来の穏やかさを取り戻しつつあった。
「これが野戦教本と和訳辞書を部屋に置いてある。私の組んでいたカリキュラムはそれを覚えたら終了だ」
「しかし、試験の日程まであと三ヶ月はありますが」
「基礎は十分だ。だから応用編になる」
「はあ……」
「急で済まないが、来週には一旦ここを出てもらう」
「なぜです」
「私も男爵も、ここに暫くいられなくなったからだ」
「どういうことですか」
「なに、ここではできない仕事を片付けに行くだけさ。元来、君に対する指導は予定になかったからね。言ってはなんだが、異世界人の教導任務は窓際部署だから、これまではどうにかなっていたのだがね」
(どこでそんな言葉を覚えたんだ?)
三ヶ月過ごしてわかったことがある。ベルモンドの日本語力には常に驚かされる。主語や副詞をまるでネイティブのように省略したり、先ほどのように窓際部署などという嫌にリアルな語彙が飛び出してくる。
「まあ君のおかげでもある。君がゴール語を覚えてくれたから、私たちも自分たちの仕事に手をつけられる」
「常々思っているんですが、なぜそこまで親身にしてくれるんですか」
「それは……まあ、こんな所で長話するほどのことでもないさ」
「はあ」
時折、このようなやり取りをする。今のところ、決まって聞いてははぐらかされを繰り返すだけだった。
「まさか君をここに置いていく訳にもいかんからな。君も連れていくことにした」
「どこへ行くんです」
「君の知らない街さ」
「一応、名前だけは教えてもらっても?」
「ああ」
大荷物を抱いて列車を降りる。
ヴァンサンヴィルから車で二時間、そこから鉄道に乗って一時間、連絡待ちに一時間半、そこから四時間ほど鉄道に揺られていた計算になる。
男爵、ベルモンドに連れ立って芹沢は駅のホームに降り立った。ヴァンサンヴィルの駐屯地と同じく、空は分厚い雲に覆われていた。
出発は今朝早くだったにも関わらず、また曇天であるが故に暗い。
730年12月14日、時刻は17時を過ぎた辺り、本来ならば陽は沈み、西の空に茜色が残る時間帯だった。
「マドブール」
ダッチェス連邦の国境から西へ十キロほどに位置する、共和国有数の港湾都市の名を芹沢は口にした。
共和国戦記〜異世界ロボット東奔西走転進記〜 鳴尾蒴花 @naruo_writer
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