揺
佐々井 サイジ
揺
昼の三時を過ぎたばかりなのに山を少々分け入ると薄暗く、カラスの鳴き声が不気味に響いた。小学生の頃、夏休みにカブトムシやクワガタムシを捕まえにこの山に入ったときは、こんなに湿っぽくなかった気がする。十数年経って死ぬ目的でこの山に入るとは思いもしなかった。
木に括ったロープを下に引っ張ってみる。幹は太くてびくともせず安心した。椅子に乗り、ロープの輪っかに頭をくぐらせた。椅子を蹴り倒せば、終わる。
先輩の鈴川にミスを擦り付けられ、僕のせいで大口契約が破綻したことになった。部長には周りに社員がいるなかで唾をまき散らしながら怒鳴られ、土下座をさせられた。外面の良い鈴川先輩が言うことだったので、誰も僕の弁明を信じなかった。社内で付き合っていた真央にも土下座を見られ、信用を無くし、別れを告げた。両親とも折り合いが悪く、もう頼れるところがない。早く楽になりたい。
喉にロープが当たるとひんやりして気持ちが良かった。これで楽になれるんだ。
そういえば、山に行く前にトイレに行くことを忘れた。確か死ねば体の力が緩まり排泄物が漏れだすと聞いたことがあった。漏らしている死体姿の僕を発見されるのは恥ずかしい。
ロープを首から抜いた。近くにトイレはなく、家に帰ると死ぬ決心も揺らぐかもしれない。木のそばで穴を掘ってズボンを降ろした。しまった。拭く紙がない。落ち葉で拭くか? いや、ぱりぱりしていて拭けそうもない。
でも死んだら漏らそうが腐ろうが恥ずかしいと思わなくて良いんだ。僕はズボンを履き直し、再びロープを首にかけた。
そういえば真央は今頃何をしているんだろう。日曜日の昼過ぎだから、友達とどこかに行っているのだろうか。椅子を蹴飛ばそうとしたが気になってそれどころではなかった。椅子に座って、スマホで真央のインスタグラムを見た。僕と行ったデート写真は消され、きれいな景色に後ろ姿の男が移っていた。僕はすぐに画面を暗くし、ロープを掴んだ。
「おい」
後ろから叫ぶ男の声が鼓膜を揺らした。振り向くと薄闇の中に、落ち葉を潰す音を鳴らしながら黒い影が迫ってきているのが見えた。細かく震える脚で椅子から降り、前だけを見てひたすら走った。
荒い呼吸を無理やり整えながら木に隠れて周りを見渡したが、人影は見えなかった。足音も聞こえなかった。音をたてないように足を地面に降ろして走ってきた道を戻り始めた。やはり男の姿はなく、鼓動も正常に戻ってきた。
なぜ逃げたんだろう。男を無視して椅子を蹴り飛ばせば良かった。本当は死にたくないのだろうか。いや、わざわざロープを買って家から椅子を運び、何度ロープを括るのを失敗してもめげなかったので間違いなく死のうとしていた。真央のインスタを見て死ぬ決意は揺るぎないものになったはず。
もう一度、死ぬ覚悟を固めるために真央のインスタを見ようとしてスマホを取り出すとLINEの通知が届いた。先輩の吉村さんからだった。
〈今どこにいる? 冤罪が証明されたよ。鈴川は会社辞めた。部長もパワハラで異動になったよ。あのとき北原君を守れなくてごめんな。無断欠勤続いてるから思い詰めていないかどうか心配です〉
冤罪が晴れた。鈴川も部長も消えた。大勢の前で土下座させられた辱めは消えるわけではないけど、あいつらのせいで死ぬほど屈辱的なことはない。真央も僕を信用せずに捨てて新しい男とイチャイチャしやがって。
日没が早く天気も悪いのでもう周りが見えなくなり始めていた。スマホのライトで地面を照らしながら歩いた。寒さも増していた。まっすぐ走ってきたのでこのまま直進したら戻れるはず。ロープと椅子を回収して家に帰ろう。
そろそろ着いてもおかしくない距離を歩いた気がするけど迷ったかな。ライトで地面を左右に照らすと、倒れた椅子を見つけた。ちゃんと引き返せてよかった。
「おい」
確かに聞こえた。上から擦れる音がした。ライトを上に向けると、ぶらんぶらんと揺れている首を吊った男の白く濁った眼が僕を見下ろしていた。
揺 佐々井 サイジ @sasaisaiji
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます