第3話
厚手のカーテンを開き、まだ日が昇る前の薄暗い外を見つめた。
姉の使っていた深紅のボーダーのエプロンを身に着け、私はフライパンと鍋を取り出した。
空気がひんやりとして、しんと静まり返っている朝の始まりのこの時間帯が私は好きだ。無音の世界に自分だけが動いていることに妙な優越感を覚えてしまう。
今朝は卵とハムときゅうりのサンドイッチを作ろう。高校の数学教師として勤めている創さんには鮭と昆布のおにぎりを握った。あまり昼ご飯にたくさん食べると午後に眠たくなってしまうらしいので控えめに。
「おはよう……若葉ちゃん早いね」
「創さん、おはようございます。ご飯、出来てますよ」
創さんは寝ぐせで頭がぼさぼさだったが、隠すこともせずにキッチンを覗き込んだ。
「お昼ご飯まで……本当にありがとう。若葉ちゃんもこれから講義があるのに、本当に申し訳ない」
「いいんですよ。自分自身のお昼ご飯も一緒に用意をしたので。ついでです」
創さんのために一生懸命用意した、なんて言わない。あくまで、ついでと念押しすることに意味がある。
創さんと向かい合って朝食をとる。創さんは最近、うっすらとだが嬉しかったり楽しかったりすると笑みを浮かべるようになった。大きな進歩だと思う。
「今日もなるべく早めに帰るようにするよ。いってきます」
「いってらっしゃい」
私は小さく手を振った。
あの後、私は一人暮らししていた部屋を出て、実家に戻ってきた。
一緒に暮らしませんか?と提案すると、創さんは一瞬ためらうような表情を向けたが頷いてくれた。そして、創さんに今後好きな人が出来たり、私に出て行って欲しくなったらちゃんと言ってほしいことも告げた。
押しつけがましい愛情は重いだけなので、一時的なもので構わないと言っておけば創さんも罪悪感などに縛られることはないだろう。
私はあくまで最愛の人の妹という立場のままで構わないのだ。
大学の講義が終わると、外のベンチで一人昼食をとっていた。創さんも同じものを食べていると考えるだけで幸せに感じる。
ふと、視線を感じて顔を上げると頬に強い衝撃を浴びた。その勢いで、せっかく作った昆布のおにぎりが床に転げ落ちてしまった。
「なんで殴られたかは、自分が一番分かってるよね」
肩を震わせて、目に強い怒りを滲ませた女性が立っていた。周りに数人の友人たちが囲んでいる。
「美玖……」
「最近、やたらと約束はすっぽかすし、LINEも返してくれないから誰か別の女がいるとは思っていたけど、あんただったとはね!」
いつかこの日が来るとは思っていた。美玖が悲しむことはわかっていたのに、抗うことをせずに奏人の訪問を撥ね退けることをしなかった。
「あんたみたいな地味な女、奏人から行くとは思わないからどうせ無理やり誘ったんでしょ?姉も不倫して事故死して、姉妹そろってビッチじゃん!恥ずかしくないわけ?」
「若葉、何とか言いなよー」
「今更言い訳しても無駄だと思うけどー」
くすくすと下卑た笑い声に、私は俯いたままだった。酷くのどが渇いていた。
「とにかく、もうあんたのことは友達とは思わないから。学部であんたの噂は持ちきりだと思うよ。居場所がなくなって大変だね」
何も言わない私に痺れを切らしたのか、そのまま美玖たちは離れていった。騒ぎに何人かはこちらを見やりながらひそひそと話していたが、私は残ったおにぎりを食べずにその場を離れた。
バイトの帰りに近くのスーパーで買い物をし、家路についた。
近所の人から頂いた白菜がたくさん余っているので、今夜は白菜のクリームシチューにしよう。
まだ創さんは帰っていないようなので、急いで作ろう。野菜を取り出し、ルーを探している内にキッチンの奥にある引き出しに目をとめた。
姉の事故に関して、警察の人と話している時に妙なことを聞いた。歩道の電信柱に衝突する際に横を通った通行人の人が証言をしていたことだ。姉は衝突をする寸前には、すでにハンドルに顔を突っ伏していた。つまり、気を失っていたというのだ。ハンドルを切り返す措置もせず、ブレーキ痕も現場になかった。
キッチンの奥の引き出しを開けると、通帳や印鑑のさらに奥に1シートの薬がジップロックに入ったまま今も置かれている。誰にも気づかれないよう隠されているようだ。前に、家の片づけをしている際に目に入ってきた。
調べてみると、非ベンゾジアゼピン系睡眠薬の即効性があるタイプのものだった。1錠分だけ使用されているというのも不可解だ。
ずっと、創さんのやさしさに甘えながら別れることはなく浮き名を流し続けた姉。
そんな姉を創さんは愛し続けた。愛し続けて愛し続けて愛しているが故に、どうしても姉の長年の奔放な行いを許すことができなかったのかもしれない。
がちゃがちゃ、と鍵を開ける音がして、私はあわてて引き出しを閉めた。
創さんはシチューを美味しそうに食べている。ビーフシチューよりクリームシチューの方が好きだと、姉が話していたことを思い出したからだ。
「若葉ちゃん、大学にアルバイトまでしてるのに、ご飯まで作ってもらって本当に申し訳ない。テストが近いから、なかなか早く帰ってこれなくて」
「大丈夫ですよ。誰かのために料理をするのが好きなので。何か食べたいものがあったら遠慮なく言ってくださいね」
「うん、ありがとう」
創さんは人参が少し苦手らしい。だけど、残さないよう少しずつ食べている。その様がうさぎのようで、私は思わず笑みが漏れた。
贖罪のように、こうしてご飯を作ったところで私が美玖や奏人にしてきたことは許されることではないだろう。傷つけて苦しめて、きちんと真実を見据えようとしない私を姉は眉間にしわを寄せて恨みがましい目で見下ろしているのかもしれない。
だけど、私は今ここにある幸せだけを享受したい。ずっとずっと手に入れたかった日常を私だけのものにしたい。
それが、周りから非常識だと罵られようとも。
「若葉ちゃん?どうしたの?」
「え……?」
私は笑みを浮かべながら、いつの間にかはらはらと涙を零していた。
創さんは触れていいのかためらっていたが、そっと私の頬に指をあてた。ひんやりとした感触が、じわりと指先から段々と熱を帯びていく。
私はその指に自分の指をからめた。創さんは何も言わずに見つめていた。
この手が罪に濡れていたとしても、離さずに、ずっと傍にいたい。
私はそのまま強く頬に押し当てて、目を閉じた。
やさしいは罪の手 山神まつり @takasago6180
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