第2話
昔の夢を見ていた。
もうもうと天まで伸びあがる火の柱から離れて、私と姉は防火衣を着た消防隊員の傍で呆然と立ち尽くしていた。
両親と四人で遊園地で遊んだ帰り道、逆走してきた軽乗用車と正面衝突をした。息も絶え絶えの母から外に出るよう促され、私たちはわずかな隙間を頼りに外に飛び出した。
燃え上がる車を目の前に、幼い頃の私はお祭りのようだと思った。
両親を亡くした私たちを祖母が引き取って育ててくれた。祖母はビルの清掃のアルバイトや工場勤務などをして必死に育ててくれた。誕生日ケーキなどは買えないため、見切り品のカステラに生クリームを塗ってろうそくを立ててお祝いした。私たち三人は身を寄せ合って暮らしていた。
月日は流れ、ある時姉が近所からすぐの公民館の無料の学習塾に通いたいと話してきた。当時中学生だった私たちは通うことにした。私は特に勉強に不自由していなかったが、一人で通うのは不安だという姉に付き添うことになった。
そこにいたのが、当時大学生だった創先生だった。
薄い黒い縁の眼鏡を掛けて、生徒たちの質問に淡々と答える姿はあまり取っつきやすい印象を受けなかった。むしろ、表情を変えないところが不気味にすら感じていた。だけど、クラスの男子が低レベルすぎて嫌だと口にしていた姉にとって、創先生はミステリアスで大人な印象を受けていたようだった。
姉は事あるごとに創先生を呼んで質問を繰り返した。時には訊く必要のないことも訊いては楽しそうに笑っていた。最初は、姉が手を挙げていると困ったように眉をひそめていたが、何度も姉と会話をするたびに頑なだった表情が緩んでいくようになった。
私は姉が嬌声を上げるたびに、心の中でじわっとした黒い影が漂うようになった。そして、創先生が近づいてくるたびにやたらと鼓動が早まっていくようになった。
始めから、私に視線を向けてくれることなんてなかったのに。
ある日、姉が風邪を引いたため、私一人だけが学習塾に行くことがあった。創先生は表情を変えずに、いつものように優しく丁寧に分からないところは的確に教えてくれた。だけど、姉のように自然な笑顔をたたえてくれることはなかった。私の言葉では、創先生の心の引き出しを開けることは出来なかった。
中学を卒業し、いつの間にか姉は創先生と付き合うようになっていた。私を交えて、三人で出掛けることもあったが、今思えば私と姉ばかりが会話をしていたように思う。創先生は、姉に問いかけられればきちんと返したが、雑談をすることが苦手だったようだった。
いつしか姉は創先生以外の男性とも一緒に出掛けるようになっていた。
創先生の許可を得ているのか分からないが、決して別れるようなことはなかった。姉の奔放さに辟易しながらも、姉を見捨てるようなことはしない創先生にやさしさを感じていた。
大学を卒業すると、社会人になるのと同時に姉は創先生―—―いや、佐久間創さんと結婚をして正式な妻となった。
育ててくれた祖母は私が大学生になるのと同時くらいに亡くなり、結婚式には姉側の親族は私ぐらいだった。創さん側も、姉との結婚を反対していた両親は参列しなかったので、少人数のこじんまりとした結婚式を挙げた。
好き勝手に創さんを振り回してきた姉は、創さんととても幸せそうに並んでいた。
その隣に自分が立つことのできない悔しさや悲しさは心の奥底に閉じ込めて、私は笑顔でずっと拍手をし続けた。
「お姉ちゃん……」
目を開けると、見慣れた天井が飛び込んできた。気付くと、首のあたりが湿っていた。いつの間にか夢を見ながら涙が零れてしまったらしい。
私はゆっくりとベットから起き上がると、そのまま重い体を引きずってお風呂まで歩いて行った。簡単にシャワーを浴びると、濡れた髪の毛のままソファーに倒れこんだ。酷くお腹が空いていた。深い悲しみの淵に突き落とされていても、空腹感を感じることに思わず自嘲の笑みがこぼれた。
「……しょうがないよね、私は生きているんだから」
冷蔵庫を開けると卵とベーコンがあったので、ベーコンエッグを作ることにした。焼きあがるまでの間、残っていたスティックパンを齧りながらお湯を沸かす。大学三年生になり、段々と授業数も減ってきたので開いている時間はバイトにつぎ込んでいる。ファミレスとクリーニング屋の掛け持ちをして、ぎりぎりだけど何とか一人で生活出来ている。
コーヒーを飲みながらぼんやりしていると、スマホが点滅していることに気づいた。
【昨夜、今岡さんから頂いたお菓子を渡し忘れていたので、時間がある時に取りに来てください】
創さんからLINEが来ていたことに飛びつき、私はすぐに返信をした。
【夕方までバイトが入っているので、終わり次第そちらに向かいます】
実家に行く口実が出来たことに胸をなでおろし、私はすぐに溜まった家事に取り掛かった。
夜の六時頃、私は実家の扉の前に立っていた。
「いらっしゃい。日持ちするお菓子だから、来週とかでも大丈夫だったのに」
「いえ、明日からまた創さんもお仕事だし、早めに受け取った方がいいと思ったので」
リビングに入ると、窓際に洗濯物が雑然と置かれていた。テーブルの上も物が散乱していて食事が取れるような状態じゃなかった。あらためて、仕事をしながら家のこともこなしていた姉に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。そして、この散らかった部屋の状態に何も感じていないのか、何も言わず創さんはキッチンの方から紙袋を取り出してきた。
「僕は甘いものが苦手でね、一花は好きだったんだけど、どうせダメにしてしまうんだったら、若葉ちゃんに食べてもらおうかと思って」
「ありがとうございます。創さん、その前にちょっとこの部屋の物を動かすことを許してもらってもいいですか?」
「……それは、別に構わないけど」
私はシンクに溜まっていた食器などを洗い、テーブルに置かれたものを空いた棚や引き出しなどに仕舞った。祖母と姉とずっと三人で住んでいた家のことだ。大体の置き場所は把握していた。創さんは特に何も口にせず、私が動く様を見つめていた。
部屋が綺麗になると、創さんは目を瞬かせてあたりをきょろきょろと見まわした。
「一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった……」
創さんの言葉に私はくすっと思わず声を漏らした、
「ついでではあるんですが、煮豚を作ってきました。煮卵とあわせて食べたら美味しいので良かったら食べてみてください。……じゃあ、私はこれで」
私は紙袋を手に早々に玄関に向かった。姉を失ったばかりの家に長居されてもいい気持ちはしないだろう。少しだけでも顔が見れたので、それだけで満足だ。
靴ひもを結んでいると、「ちょっと待って」と声が掛かった。
「……自分から一人になりたいと言ったのに、一人が寂しくて仕方ないんだ。若葉ちゃんが良かったら、もう少し一緒にいてくれないか?」
私はゆっくりと振り返り、所在なさげに立ち尽くす創さんを見上げた。
「私で良かったら。それじゃあ、一緒に煮豚を食べましょうか」
創さんはぱあっと表情を明るくした。こんな子供のような表情豊かな創さんを見るのは初めてだった。姉には日常的に向けていたのかと思うと、妬ましい気持ちがふつふつと湧いてくる。
でも、今は私を求めてくれている。それが何よりも真実だ。
生前、姉は一緒に外に出ると借りてきた猫のように大人しい人だと評していた。家では最愛の人と二人きりになれるので、最大限に甘えることができたのだろう。実家から絶縁された男と、たった一人の妹しか身寄りのいない姉は身を寄り添って生きてきた。
その姉もいなくなり、普段から人と交流することが少ない創さんは頼れる人がいなくて心細いのだろう。
だったら、私がその拠り所になればいい。
姉になることは出来なくても、創さんのために家をきれいにしておいしいご飯を作って待つことは出来る。
私を通して姉を見つめていたとしても、傍にいることができるのならば、喜んで受け入れよう。
(ずっと我慢していたんだから、それぐらいは許してくれるよね)
創さんの背中に抱き着きたいのをぐっとこらえて、私は涼しい顔のままキッチンへ向かった。
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