やさしいは罪の手

山神まつり

第1話

人生で最も輝いていた瞬間を切り取られている姉は、私が知る中で、一番の笑顔をたたえてこちらを微動だにせず見つめている。

一年前にたくさんの人たちに盛大に祝福され、とても綺麗に着飾った姉は夫となる男性と腕を組んでバージンロードを歩いていた。まさか、その一年後に帰らぬ人になるとは誰も想像しえなかっただろう。

「若葉ちゃん、良かったらお茶を淹れるよ」

仏壇が置かれた隣の和室から義兄の創さんが姿を現した。スーツの上着を脱いでハンガーに掛けてきたようで、ワイシャツの袖を少し捲っていた。

「すみません、ありがとうございます」

私は正座にしていた足を少し崩し、姉の遺影を見やった。

姉は友人と食事をしてくるといって車で出かけたらしい。それが大体夜の六時過ぎ。創さんの携帯に一報が入ったのが夜の七時半近くで、ブレーキを踏むこともなく蛇行運転で歩道近くに建っていた電信柱に突っ込んだとのことだった。

幸いなことに、歩道に乗り上げることはなかったので他の怪我人を出すことはなかった。姉は頭や胸を強く打っていたようで、その場で死亡が確認された。

そして、姉が運転していた車には同乗者がいた。

姉の勤める広告会社の先輩社員にあたる、今岡という男性だった。

警察から遺留品を返してもらった時に姉が使っていた携帯電話もそのままの形で残っていた。何となく察知はついていたが、私が痕跡と思わしきメールのやり取りを一人で確認することになった。

「……今岡さんって人、奥さんも子供もいるみたいですけど、お姉ちゃんも知っていて付き合っていたみたいです」

創さんは「そうか」と小さく口にした。

何て嫌な奴だ、と思った。私自身がだ。多分、創さんは知っていたのだろう。死人に口なしとばかりに何も口に出来ない姉の所業を、ここであらためて言葉にすることではなかった。

今岡さんという男性は車に下半身を押しつぶされたことで神経に傷がつき、麻痺が残ってしまったらしい。杖をつきながらゆっくりと歩くことしか出来ないと、入院していた病院の理学療法士の人から聞いた。

創さんは今岡さんの家に連絡を入れ、今日の午前中に訪問する約束を取り付けていた。そのことを知ったのが前日の夜だったので、大学の講義を休んで私も一緒に行くことになった。

「今岡さんの家に謝罪に行くのだから、若葉ちゃんは別に来なくても大丈夫だよ」

「いえ、たった一人の姉の行動をきちんと把握できていなかった私にも責任はありますから」

今岡さんの家は都内に建つ白亜の一戸建てだった。駐車スペースには石畳が敷き詰められていて、境界フェンスの向こう側には青色の三輪車が置かれているのが見えた。

インターフォンを押すと、細い黒い縁の眼鏡を掛けた女性が顔を出した。

「主人は近くの公園に息子と出ています。良かったら中へどうぞ」

家の中は小さな子供がいるとは思えないくらいに綺麗に整えられていた。私が突っ立ている間に、創さんは奥さんに手土産の紙袋を渡していた。

「この度は、ご愁傷さまでした。まだ、色々と気持ちの整理も出来ていない時に、主人のことを気にかけていただいてすみません」

「いえ、こちらこそ、妻のことで大変ご迷惑をお掛けする形になってしまい―――」

「あの人にとって、いい薬になったと思っています」

私と創さんは無言で奥さんを見やる形になった。奥さんは表情を変えずに窓の外のベランダを見据えている。

「私と付き合っている時も、結婚をしてからも、主人の浮気癖は治りませんでした。息子が出来たら変わってくれるはず、とは思いましたが変わりませんでした。今回、奥様の一花さんにアプローチしたのも主人の方からでしたし、デートの約束を取り付けたのもこちらからでした。後遺症として若干体が不自由にはなりましたが、今後は負い目を感じながら家族のために頑張ってくれるんじゃないかと、思っています」

奥さんは口元に笑みをたたえながらそう口にした。


「これから、家族円満という形になるんでしょうか?」

今岡さんの家から戻り、私と創さんはお茶を飲みながら話をしていた。

「……どうだろうね。でも、今岡さんは受け入れてくれた家族に感謝しながら父として夫としてこれから長い人生励んでいくしかないし、その選択肢しか残されていないと思うよ」

私は伏せていた顔を上げて、創さんを見つめた。

最愛の妻を失った創さんは、いつもと変わらないように見える。憂い気で、何を考えているのか読み取れない。

昔から、創さんは、創先生はそんなミステリアスなところがあった。

「創さん、明日は日曜日だし、どこかに出かけませんか?私の家の近くにあるイタリアンが美味しいので良かったら……」

「若葉ちゃん、ごめん。ちょっと今日と明日は一人にしておいてもらっていいかな。一人で、一花と向き合いたい」

「……分かりました」

私はぺこっと一礼すると、そのまま足早に玄関まで走っていった。


私は、何をやっているんだろう。

慣れない黒のヒールを履いた所為か、爪先が痛んでしょうがなかった。

呼ばれてもいないのに、取ってつけたような理由で創さんについていって、ただただ今はどこにもいない姉の粗探しをしているだけ。

料理が得意で、誰にでも優しくて、いつも明るくて笑顔を振りまいている、名前の如く花のような姉を創さんが選ぶのも当たり前だ。

死んでもなお、姉は創さんの心にずっと棲み続けるのだろう。

じわり、と涙が溢れてくるの感じて強く袖で顔をこすった。

アパートの階段を上がると、部屋の前に誰かが座り込んでいた。

「……奏人」

「あーやっと帰ってきたか。今日、大学にいなかったからさ、どこにいったのかと思って」

「別に、関係ないじゃない」

「何だよ、つれないなぁ。ん?どっか出かけてた?何かお洒落してんじゃん」

「とにかく、今夜は帰ってよ」

がちゃがちゃ、と鍵を開けて急いで部屋の中に入ろうとすると、奏人は強く部屋のドアを掴み、私と一緒に部屋の中に入り込んできた。

「ちょっと!今夜は帰ってって言ったじゃな―――」

噛みつくように奏人が唇をふさいだ。ぬめっとした感触が口内に入り込んでくると、私は勢いよく奏人を突き飛ばした。

「やめてよ……今夜はそんな気分じゃないの」

「いつもそんなこと言って、結局欲しがるのは若葉じゃん」

奏人は首筋に唇を当てると、そのまま甘噛みを繰り返した。

創さんとの邂逅が汚されているようで、私は何度も奏人の胸を拳で叩いた。

こんなことをさせるためによそ行きの黒のワンピースを着たんじゃない。少しでも大人っぽい服を着たからといって、創さんが眩しそうに目を細めてくれるなんて期待なんてしていない。

創さんの目には、昔から姉しか映っていないことはよく知っている。

でもこの際、姉を通してでもいい、ほんの少しでもいいから私をその目に映してくれないだろうか。

「……なんでずっと黙ってんの?」

ワンピースを胸のあたりまで下ろされても何も言わない私を見上げながら、奏人は苛立たしげに呟いた。

唇を噛み締めながら目を伏せていると、ちっと舌打ちをして離れた。

「なーんか、一気に萎えたわ。抵抗するなら抵抗するで声を上げてくれるなら燃えたのに。折角来たのに意味ないじゃん」

「……出てって。ちゃんと美玖を大事にしてあげて」

「___はぁっ?別におまえに言われたくねぇし」

奏人は大きな音を立てて扉を閉めて出ていった。

偉そうなことを言いながら、私も友人の彼氏と何度も関係を持っているから最低だと思う。拒みながらも、心のどこかで奏人が自分に欲情していることに優越感と背徳感を同時に感じているのだろう。

求められたいのは、たった一人だけなのに。

着替えるのも億劫で、私はそのままベットの中に潜り込んだ。

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