最終話

 世界が止まったかのように思えた。


 世界だけではない。呼吸が、心臓の鼓動さえもが止まったように感じられた。すうっと体から熱さえも奪われ、死体にでもなったかのような気分になってくる。


 信じられなかった。だが、実際問題として可能性は、私に真っ青な未来を突きつけてきていた。


 可能性だからそうならない可能性だってある。重ね合わせの世界では、ありとあらゆる未来が起きるといえるし起きないともいえる。


 サクラさんにフラれるという未来だって――。


「それはどうかの」


「どうしてわかる。ただのネコのくせに」


「ただのネコではにゃい、量子猫じゃ。そうしたのは御主人様ではにゃかったか」


「…………」


「かようにゃ姿になってわかったことがある。未来には連続性が存在する。当然のことじゃがにゃ」


 可能性の球体をもてあそぶことをやめたヨシノが私へと近づいてくる。ゆっくりゆっくりと足音一つ立てずにやってくる様は、獲物を前にしたヒョウのよう。


 私のつま先までやってきた彼女は、ぷにぷにの肉球で私を叩いた。


「御主人様が実験にかまけて、童のことを放置したから、このような厄介にゃ性格ににゃってしまったように」


「厄介という自覚はあったのか」


「とにかく」ヨシノはダンと地面を踏みならす。「御主人様はどのようにゃ可能性を選んだとしても、あの女とは一緒ににゃれん。破局という可能性が観測されたのじゃからにゃ」


「わかったようなことを言うじゃないか」


「わかってるのだから、当然じゃろ」


「本当に?」


「ああ、本当にじゃ」


 私は大きくため息をついた。ヨシノが嘘をついている可能性は考慮に値しない。


 重なり合う世界を観測する存在からすれば、未来は決定論的に定まっていくのだ。ヨシノは嘘をついていない。



 再度ため息をつき、私はヨシノの体を持ち上げる。


 よいしょっと。そのふわふわもふっもふっの体は、見た目とは裏腹にずっしりとしていて、抱いていて安心感があった。


「ちょっと太ったか」


「藪から棒ににゃんじゃ! デリカシーのないやつめ。だからサクラにフラれる未来となるのじゃぞっ」


「それが何の関係が」


「関係大有りじゃ。第一御主人様は他者に対して関心が薄すぎる。かと思ったら、びっくりするほど執着心を抱くし、加減というものを知らぬのか」


「そりゃ悪かったね」


「悪いと思っているなら、たまには童に構え」


 あいあい、私は返事し、ヨシノに頬をすりすり摺り寄せる。


 ヨシノの気まぐれな瞳がきゅっと細くなった。その琥珀色の瞳が、ふにふにの瞼の向こうに消えたと同時に、私の量子化も終わりを告げたのだった。




 目を開けると、ゆがんだ視界の向こうに見慣れた研究室が見えた。


 私は現実へと戻ってきた。量子化していた体は、古典力学が支配する原子のかたまりへと復元されている。私という意識は確かにあり、体も記憶の中にある私のものとなんら代わっていない。


 再構成された肉体が、元の肉体と同じかという哲学的な問題はあるにせよ、私は私のものだという気持ちがあればそれでいいのかもしれない。少なくとも、そのような哲学的な問いを身をもって味わっている私はそう思った。


「われ思うゆえにわれありってね」


 私は量子化装置の中に座っていた。


 太ももの上には、ヨシノが丸まっている。陽だまりのような温かさをズボン越しにはっきりと感じる。


 先ほどの光景、先ほどのヨシノとのやりとりは幻だったのか、それとも。


 私はヨシノの頬をふにふに突く。ゴロゴロという声がヨシノの喉から漏れ聞こえてきたが、その瞼が開かれることはない。深くおだやかな眠りについているらしかった。彼女の頭を撫でていると、研究室の扉がバンッと開く。


 装置を覆う強化ガラス越しでも、入ってきたのが誰だかわかる。私の好きな人。


 私はそっとヨシノを抱え、地面へ下し、装置の外へと出る。


 烈火のごとく怒っている想い人の前に立てば、どうして私がフラれるのかようやく理解した。


 私は最初から――量子化した時点で――こうなることが確定していたに違いない。そう考えればこそ、後悔はなかった。


 ヨシノが喉を鳴らすのを耳にしながら、未来が確定する音が響くその時を、私は待つ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ネコを水先案内人として実装するということ 藤原くう @erevestakiba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ