第5話

「もうやめにしないか」


「そうじゃの。これ以上は……不毛じゃ」


 そんな言葉をもって、停戦協定が締結された。次の開戦はいつになるのかわからないが、私とヨシノの両方生きている限りは、また同じことが繰り返させるだろう。これまでの五年間がそれを物語っている。


 私は頬を伝う汗をぬぐう。量子化しても汗はかくらしい。これもまた、私がそう認識しているだけなのかもしれなかったが。


 いや、そうではなくて。


「危うく目的を忘れるところだったぞ」


「チッ」


「おい、今舌打ちが聞こえたぞ」


「にゃんのことじゃ。童にはわからんのじゃー」


 にゃあにゃあにゃあとヨシノが科をつくったような声を上げる。


「そうかならいいのだが。おい、目的の可能性は見つかったか」


「にゃんだ、そのことならもうすでに見つかっておるぞ」


「本当か!?」


 ヨシノは器用に胡坐をかき、前足で顔を撫ではじめる。余裕たっぷりの姿に、ちょっとカチンとくる。


「まさか、結構前から?」


「まあにゃ。童はおぬしの言うところの方程式の変数にゃのじゃろう?」


 多世界解釈とコペンハーゲン解釈は共通する方程式が存在する。その答えは、量子の状態を現わしている。


 私はその方程式に一つの変数を追加することにした。かの物理学者が追い求めついぞ見つけることができなかった変数。


「見つけたのは偶然じゃがにゃ」


「うるさい。それよりも本当なのか。その」


「サクラと付き合う世界じゃろ」


 ほら――とヨシノが言う。


 いつの間にか彼女の周りには、シャボン玉のような可能性が集まっている。その一つに茶の脚を伸ばすと、ボール遊びをするかのようにもてあそび始める。


「これじゃ。これに、ご主人様とあの女とが付き合う可能性がある」


「それが――」


 私はその可能性の球体に手を伸ばす。


 だが、その直前。


「――悪いがおぬしが手にしたところで意味がにゃいと思うぞよ」


「はあ?」


「見てみるのじゃ」


 ヨシノは虹色の球体で遊ぶのをやめ、前足を前方へと向ける。重ね合わせの世界に漂っているクラゲのような可能性たち。それらはミクロな海にぷかぷか浮かんでいる。その不規則な動きや並びには、法則性などないように思える。


 だが、じっと見ているとそうではないことがわかってきた。この可能性は、木の枝のように繋がっている。可能性は独立したものではなく(ないわけではないのだが稀のようだ)連続性がある。


 ヨシノの足元に転がっている可能性もまた同様。私は、可能性の糸を手繰っていく。その先にある可能性を観測する。


 可能性はあくまで重ね合わせ状態にあるだけで、私からは干渉することは不可能だ。だが、観測することはできる。


 それは、水晶をのぞき込むことで望む未来を予知するのに近い。


 テカテカとした球面の向こう、ゆがんだレンズごしの視界が、ゆっくりと明瞭になっていく。


 見えた可能性は、私にとっては信じられないし信じたくもないもの。


 私は、サクラさんにぶたれていた。


 呆然と立ち尽くす私をよそにサクラさんが去っていくその瞬間を、私は目の当たりにしたのだった。

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