第75話『誰が為の戦か⑳』
翌日。
エルバと教会の調印式は予定通りに行われた。
豪奢な式典を開くような余裕はない。城の軍議室で教会が用意してきた書類に署名をするだけの、極めて事務的な作業だ。
トゥルメナはエルバの君主として、教会の代表たるメリル・クラインに向かい合う。
「え、えーっと……こちらが書類です。どうぞお確かめください」
メリル・クラインはおずおずと遠慮がちに羊皮紙の書類を差し出してくる。
きっと、こちらが機嫌を損ねないか不安になっているのだろう。
この書類に署名した時点で、これまでのエルバという国は終焉を迎える。
儀礼的な書類なので、そう複雑な条文が記されているわけではない。
あくまでこの書類に書かれているのは『エルバは教会を国教として受け容れ、教会はエルバの復興と発展に協力する』という友好的な文面だけだ。
しかし今後、厳しい条件が付きつけられることは目に見えている。
なんせエルバには、教会からの支援に対して担保にできるものがほとんどない。ならば引き換えに差し出せるのは徴税権であったり予算制定権であったり――そうした国家としての核心といえる権限くらいだ。
(それも当然といえば、当然か……)
何の対価もなく支援だけ受け取ろうなんていうのは、あまりに虫がよすぎる。
それに現在、半ば壊滅状態にあるエルバにはろくに文官も揃っていない。つまり徴税権だろうが予算制定権だろうが、もとより機能不全に陥っているのだ。教会がその枠組みを再建してくれるなら、かえって有難いといえるかもしれない。
それでも――
「もし今後の条件などに懸念があるのだったら、私も口添えしたりしますから! 決して悪いようにはならないと思いますので!」
メリル・クラインはやたらと腰が低かった。
トゥルメナは最初に彼女を見たとき、その在り方が不気味だと思った。誰よりも強大な力をもっておきながら、まるで普通の人間のように振る舞う異様さが。
だが――昨日の光景を見て、分かった。
この人は本当に『普通』なのだ。
力の有無に関係なく、ごく当たり前に他者を慮ることができる。たとえ異形の悪魔であろうと、そこに通じ合える心があると信じて語り掛けることができる。
それはもはや『普通』ではないのかもしれない。だが、それが本当の意味での彼女の強さなのだろう。
「……メリル・クライン様」
「は、はい!」
だからトゥルメナは、こう宣言した。
「私たちは教会に隷属するつもりはありません」
「へっ」
こちらの発言が予想外だったか、メリル・クラインがぽかんと口を開ける。
背後に控えるザークたち代表団も慌てるが、トゥルメナは片手を伸ばして制止する。
「そそそ、それは署名を拒否なさると……?」
あわあわと手を振るメリル・クライン。
本当に感情が分かりやすい人だ。なぜこんな人を不気味だなどと思っていたのだろう。
「私は――王家の血筋などどうでもいいと思っていました。【戦神】などという邪悪な存在を祀り、この国を滅びに導いた愚かな一族だと。その血を引くことが恥とすら感じたくらいです」
「い、いえそんなことは決して……」
「ええ。昨日、そう知りました」
へっ? とまたメリル・クラインは首を傾げた。
「確かに愚かではあったのかもしれません。ですが、彼らは彼らなりに戦ったのだと思います。大事なもののために」
二代目の王が得体の知れぬ【戦神】を取り立てたのは、花の悪魔を苦悩から解放するためだった。そして最後の王は、自らの命を擲ってでも国を救おうとした。
「ですから私も、もう少しだけ戦ってみます。隷属するのではなく、いつか対等な友としてあなたの手を握れるように」
トゥルメナはそう告げて――書類にペンを走らせた。
トゥルメナ・エルバと。これまで名乗ったことのない、王族の姓を冠して。
「安心してください。どんな条件だろうと我々は挫けません。エルバは誇り高き戦士の国ですから」
そう言ってトゥルメナは握手の手を差し出す。
ほっと安堵したように息を吐いたメリル・クラインが、微笑んでそれを握り返してくる。
握った手の感触に、寒気は少しも感じなかった。
―――――――――……
「ふう……一時はどうなることかと思いましたけど、これで一件落着ですね」
無事に宣教任務を終えた私は、馬車での帰路に就いていた。
調印式で急にトゥルメナが啖呵を切り始めたときは焦ったが。
「あの口ぶりだと……昨日の話、聞かれてたんですかね?」
「ああ。あの娘なら少し離れた木陰にずっと潜んでいたぞ。匂いで分かった」
白狼がこともなげに言う。
確かにこいつの鼻なら余裕で気づくだろう。というか、気づいていたなら教えろ。
「ところで娘よ。匂いといえば、あの女から血の匂いがするのだが」
白狼がそう言ってヴィーラをくいっと鼻先で示した。
ヴィーラはすかさず首を回してこちらの視線から逃れる。
「ヴィーラさん?」
「……ごめんねメリル様。実はこっそり王都の街中に出かけて、何人か治療してきちゃったんだ。あ、大丈夫! さすがに持ち帰りはしてないから!」
「まあ……もう無事に調印も済んだので別にいいですけど。よく治療に応じてくれる人がいましたね?」
「そこはね、コツがあるんだ」
楽しそうにヴィーラが目を輝かせる。
「できるだけ小さい子供を狙うの! 苦しんでる子供を助けたいって思うのは親の性だから、どんなに怪しい
なぜだろう。
やっていることは善行なのに、犯罪者の発言にしか聞こえなかった。
「っていうか、ずいぶん慣れた手口ですね?」
「うん。教会の信仰圏でも奇蹟での治療なんて普通は見たことない人が多いから、最初は結構警戒されちゃうんだ。でも、一度上手く弱味をついて実績を作っちゃえばこっちのものだよ。次にエルバに来たときは、もっとたくさん治療させてもらえると思う」
逆に変な評判が広がってなければいいが。
まあ、考えないことにしよう。もう私のやるべきことは片付いたのだ。
今はとにかく達成感だけに浸っていたい――
「メリル・クライン様。【戦神】については教会にどう報告する予定なのでしょうか?」
そこでユノが私に尋ねてきた。
「……………………ああはい」
死ぬほど長い沈黙の末に、私はため息をついた。
せっかくいい気分だったのに水を差されてしまった。
「小僧。それはもうやはり『封印』という他ないのではないか?」
「やはりそうですか」
「了解。あたしもそういうことにしておくね」
私は口を尖らせて窓の外にそっぽを向く。
そう。私は昨日――【戦神】もとい花の悪魔に、手を下せなかったのだ。
あれだけ強大な悪魔が、無防備に討ってくれと首を差し出してきて。
あんなチャンスはこの先の生涯で二度とないかもしれない。それなのに、私があの悪魔を討てなかった理由というのは、
あのクソ植物、普通にめちゃくちゃ硬かったのだ。
カッチカチだった。
摘んでくれと言われ、私は喜んで手を伸ばした。あまりに都合のよすぎる展開に、笑いを抑えるのに苦労したくらいである。だが、茎に触れてみた瞬間に分かった。
(え? なんかこいつ頑丈じゃない?)
手が震えるくらい全力を込めてへし折ろうとしてみたが、ビクともしなかった。引っ張って地面から抜こうとしても、まったく動かない。
からかわれてるのか? とも一瞬疑った。
だが、花の悪魔は厳粛かつしめやかな感じで目を瞑っていた。本気でこれからあの世に旅立とうとしているように。
――ははーん。さてはこいつ馬鹿だな?
――14歳少女の平均的腕力とか理解してないな?
そりゃあ母みたいな剛腕であれば鋼鉄みたいな茎だろうとへし折れたはずである。
だが私は非力で可憐な美少女である。こんなカチカチの茎など折れたものではない。
腕相撲のごとく全身全霊で体重をかけてみても、茎は折れるどころか曲がりもしなかった。
息を切らして苦戦しているうち、私はこう思った。
まずい。あまり苦戦していては私が弱いのがバレる――と。
そして私はすべてを誤魔化すべくこう吼えたのだ。
『やっぱり嫌です! とにかく私は処刑とかしませんから! それじゃ!』と。
で、そのままダッシュで逃げ帰った。後のことなど知らなかった。
そして今に至る。
せっかくのチャンスだったのに、不完全燃焼もいいところだ。
「娘よ。やはり貴様にはいつも感服させられる」
そんな裏事情も露知らず。
不貞腐れる私の肩に、白狼が訳知り顔でぽんと前脚を置いてくる。
うるさいバーカ、と私は内心で愚痴を吐いた。
―――――――――……
『見逃されてしまったな……』
王城のバルコニー。
かつて惨劇が繰り広げられたその場所に、花の悪魔は瞳の花を伸ばしていた。
「まだやるべきことがあるということでしょう。私も、あなたも」
瞳の花のすぐ隣で、トゥルメナが応じる。
バルコニーから望む王都は、未だ多くが荒れ果てている。
「一緒に戦ってくれますよね?」
『……ああ、もちろんだ』
花はどこか感慨深げに、そう頷いた。
――――――――……
後の歴史にて、エルバはこう語られる。
事実上の傀儡国として教会に下りながらも、十数年で驚異的な発展を遂げ、主権を回復した稀有な国である――と。
躍進の背景には『国の隅々までをも見渡すような視野を備えた、勇猛果敢な女王』がいたとされている。
その尋常ならざる千里眼は、一説には『不戦の聖女』メリル・クラインより授けられた奇蹟とも語られるが、真相は定かでない。
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