第68話『誰が為の戦か⑬』
広大な湿地帯が
「なんじゃお前は?」
鬱蒼とした山深くの森。
粗末な身なりの名もなき青年は、怪訝な顔でそう尋ねた。
『私か? 私は……ふむ。何なのだろうな……?』
その問いに答えを返したのは、一輪の花だった。
青い花弁の中心が人間のような瞳になっていて、葉をカサカサと揺らしながら人の言葉を発している。
「あのな、困るぞ。お前は儂が苦労して育てた株だったんじゃ。それがこんな得体の知れんものに化けられちゃ台無しもええとこじゃ。今すぐ元の花に戻れ」
『元に戻れと言われてもな。昨日までの私も今の私もそう大差あるまい。こうして喋れるようになったくらいだ』
「一つ教えてやるわい。人間様にとっちゃ、花が喋るっちゅうのは驚天動地の大異変なんじゃい」
そうなのかと花は呟いて、首を傾げるように揺らぐ。
『ならば君はなぜ驚いていない?』
「これでも一応は驚いとるんじゃがの……。まあ、お前は長いこと世話してきてやった花じゃからな。我が子が喋ったようなもんで、そう怖くはないわい」
『ふむ。そうだったな。確かに君は長いこと私の世話をしてくれていた。感謝しよう』
「そりゃあどうも」
素直な感謝に調子を狂わせながら、青年はその場に胡坐を掻いた。
それから、ふと思い付いたように指を弾く。
「そうじゃ。元に戻るのが無理なら、お前の増やし方を教えてもらおうかの。お前の種はどこに植えても全然育たんで困っとったんじゃ」
『私にとって居心地のよい環境が知りたいと?』
「おう」
『……そうだな。少なくとも今、この森はとても心地よい』
青年はがくりと肩を落とす。まったく参考にならない。
仲間内でも数年がかりで試行錯誤しているのだが、この花は非常に栽培が難しい。原生地のこの森以外では、発芽させることすら困難だ。
『しかし君もよく分からんことを聞くな。なぜ私を増やしたいのだ?』
「お前は薬になるんじゃ。で、その薬がいくらあっても足りんのよ」
『くすり、とはなんだ?』
「……怪我とか病気を治したりするのに役立つものじゃ。普通は」
そこで青年は少しばかり言葉を濁したが、
『それはとても意外だ。森の獣たちはいつも私を避けるのでな。むしろ私は生物にとってよくない性質があるのだと思っていた』
すぐに痛いところを突かれて渋面になる。
言うべきか否か迷って、しばしの逡巡の末に青年はばしんと己の膝を叩く。
「ああ、そうじゃ。お前から採れる薬は、確かに本来よくないものなんじゃろう。じゃが、お前の薬は痛みとか怖さとか――そういうもんを薄めてくれる。気力を奮い立たせてくれる。儂らには今、それが必要なんじゃ」
『……それほど酷い病が流行っているのか?』
「いや、戦うためじゃ」
青年は短く断言する。
「今この土地にはぎょうさん化物が流れ込んで来とってな。たとえどんなものに頼ろうが、そいつらを倒さにゃならんのよ」
人喰いの巨獣。宙を舞う幽鬼。不幸を呼ぶ異形。
エルバは今、そうした化物どもの被害に悩まされていた。
「――ん、いやちょい待て。よく考えてみりゃお前も化物の類じゃな?」
『化物か。そうかもしれん。だが少なくとも私は君に危害を加えるつもりはない』
数秒だけ考え、青年はその言葉を信じることにした。
自分が育てた花だ。きっとその言葉に嘘はあるまい。
「のう。お前が悪い化物じゃないなら、儂らに協力してはくれんか?」
『ふむ……それなら。私は昨日よりも少し器用になったようでな。こんなこともできる』
花がそう言った途端、周囲の地面から一斉に緑の新芽が飛び出した。
その芽はみるみるうちに伸び、十秒も経たぬうちに立派な花と咲いた。数百もの青い花が。
「は……」
『足りんか?』
「い、いや! こんだけありゃ……のうお前! いつでもこんなに咲かせられるんか!?」
『簡単だ。もう少し慣れれば、くすりというのを濃くして作ることもできるだろう。いや、もっと様々なことができるかもしれん』
青年は信じがたいものを見るような顔になった。
確かにこの花は昨日まで、他のものよりも一際頑丈だったし、とても多くの種を残してくれる優秀な株だった。
しかし、それがまさかここまで凄まじい存在になってくれるとは。
『だが、一つ聞かせてくれ』
未だ現実を吞み込みがたい青年に、花が落ち着いた声色で尋ねてくる。
「……なんじゃ?」
『君たちには足がある。ここから動けぬ私と違って、どこへでも行ける。この地に苦難が多いのならば、戦わずともどこかへ逃れればよいのではないか?』
花は人間じみたその瞳で、じっと青年を見つめた。
純粋に。ただ理解できないというように。
「嫌なことを聞くのう」
そんなまっすぐな視線に耐えられず、青年は苦笑した。
「儂らはもう逃げてきたんじゃ。逃げてきた末がこの
『逃げてきた? 何からだ? それは、化物よりも恐ろしいものなのか?』
「おう、儂はあれほど恐ろしい連中を知らん」
そうして青年は追憶に耽るように、遠い目で空を眺める。
「あの悪魔どもの奴隷になるのだけは、死んでも御免じゃ」
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