第54話『あなたの願いは⑦』
「さあメリルちゃん。一緒に遊びましょう?」
母が笑って、メリルに手を差し伸べる。
まるで目が覚めるように。ふと気づけばメリルは、一面の花畑に立っていた。そこには母がいて、使用人たちもいて、他にもたくさんの子供が駆けまわっていた。
「お仕事に余裕ができて、いつでも遊んであげられるようになったの。お友達もたくさん連れてきたわ。ずっと――ここで遊びましょう?」
そう言って母はにこやかに、メリルの前にしゃがみこんでくる。
メリルは「本当!?」と喜色を浮かべたが、しかしすぐに辺りをきょろきょろと見渡す。
「どうしたの? メリルちゃん」
「いないの」
「いない? 誰のことかしら?」
「分かんない」
メリルはううんと首を捻って、一面の花畑を見渡す。
母はいる。使用人たちもいる。自分と仲良くなってくれそうな子供たちもたくさんいる。
――それでも、足りない気がしたのだ。
「あのねママ。もう一人いたの。私と遊びたがってる子。その子も仲間に入れてあげたいの」
「メリルちゃん? お友達ならみんなここにいるわよ?」
母からそう諭されながらも、幼いメリルは周りを探すことをやめない。
「ねえ、どこにいるの?」
そのとき。
花畑の遠く向こう。背の高い向日葵の陰で、黒い人影が微かに動いたように見えた。
「あっ! いた!」
メリルはそれを指差して、嬉しそうに叫んだ。
「こっち来て! 一緒に遊んであげるから!」
向日葵の陰に隠れた黒い人影は、じっと黙ったまま返事をよこさない。
それでも『それ』は確かに、振り返ってメリルを見つめていた。
「もう、なんで来ないの!」
一歩も動こうとしない『それ』にメリルは憤慨し、ならばこちらから捕まえてやると、花畑の中をずんずんと歩み出す。
だが、不思議なことに、いくら歩みを進めても『それ』との距離は縮まらなかった。
それどころか、だんだんと遠ざかっていくようにすら思えた。
「いーかげんにしろ! 早く! こっち来い!」
とうとう癇癪を起こしたメリルに――『それ』は、ほんの僅かだけ微笑んだ。
ほんの僅か。それでも、心から救われたような。そんな様子で。
そして『それ』は呟く。
「どうか。あなたに――」
――――――――……
「ご苦労様。と言えばいいかしら」
廃墟のすぐ近く。
草藪の中で、聖女たる私は悪魔【偽りの天使】と対峙していた。
娘は悪魔によって白昼夢を見せられ、その場に茫然と立ちつくしている。
私はそのことを別に焦りもしなかった。なぜなら、そのために娘をこの場所へと連れてきたのだから。
「――あなたは本来、教訓を与える存在。悪夢をもって、軽挙に警鐘を鳴らす者……もっとも、そんな事実を絶対に教会は認めないでしょうけど」
天使のような姿をした存在が、人を想う心を持っていたのなら、それは天使以外の何物でもなくなってしまう。
だから教会は【偽りの天使】について、そうした核心ともいえる部分を伏せている。私のような最高位の人間でもない限り、触れることのできない機密事項として。
「だけど、教訓を与えるべき人々が誰一人としていなくなると、あなたは暴走する。逃れがたい幸福な夢を魅せて、人間をその場に留め殺そうとする」
私はそうして俯き、自嘲気味に笑った。
「うちの娘は、とても恥ずかしいのだけど――あまり躾が上手くできてなくて」
未だに自分を世界最強と信じて疑わない。
隙あらばすぐ、結界に護られた家から脱走しようとする。
だから。
「あなたを利用させてもらおうと思ったのよ」
娘がこの悪魔と出会えば、『世界最強となって活躍する』という理想的な夢を見せられるはずだった。そうして夢から覚めれば――きっと、とてつもない喪失感を覚える。
世界最強から何の力も持たない凡人へと落ちぶれるという、途方もない喪失感を。
それは娘をおとなしくさせるのに、十分な恐怖のはずだった。
「いつまでも幸福な夢を魅せ続けられたら、現実に戻れず衰弱死してしまう。けれど、私が途中であなたを消してしまえば、娘がそうなることはないわけだし。とてもいいアイデアだと思ったのだけれど――」
私は顔を上げ、正面に向き直る。相対する【偽りの天使】へと。
「私は……この子を侮っていたのね」
そこにはもう、何もいなかった。
天使めいた人影も。悪魔の気配も。何もかも。
最初からそこには、何もいなかったかのように。
「……メリルちゃん。大丈夫?」
私は、放心状態だった娘に話しかける。
少し背を叩いてみると、容易く娘は「はっ!」と目を覚ました。
それから娘は、きょろきょろと忙しなく辺りを見渡し始めた。
「ママ。あの子は?」
「……あの子?」
「うん。とっても寂しそうな子」
悪魔に見せられていた夢の中の話だろう。
どう答えたものか思案していると、娘はこう続けた。
「ねえ。『さちおーからんことを』って、どういう意味?」
「……さちお?」
「うん。その子がね、さっきそう言ったの。私に」
私は娘の言葉をもう一度思い返し、その文意を拾い直してみる。
可能な解釈は、ただ一つしかなかった。
――幸多からんことを。
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