【偽りの天使】編
第48話『あなたの願いは①』
【商人の話】
商人の男は、行商の旅の中で『それ』と出会った。
「あなたの願いを叶えてあげましょう」
『それ』は明らかに人間ではなかった。
背には大鷲のような翼。
中性的な容姿は息を呑むほど美しく、まるで生きた芸術品のように思える。
「まさかあなたは、天の御使い様なのですか……?」
その姿は、古来より数多の神話や宗教で語られる『天使』そのものだった。
商人の問いかけに対し、『それ』は薄く微笑んで「ええ」と肯定した。
「ならば、畏れ多くはありますが――私は富を望みます」
商人は『それ』に跪いてそう祈った。
「私は貧しい村に生まれました。叶うならば私は商人として財を成し、父母や兄弟、故郷の者たちに楽をさせてやりたいのです」
「――よいでしょう」
そう答えると、『それ』は霞のように姿を消した。
しばし茫然としていた商人は、白昼夢でも見たのかと目を擦り、また行商のために歩き始めた。
しかし、その日から商人の人生は一変した。
まるで神懸ったかのように、何を買って、どこに行き、どんな取引をすればよいか、すべてが分かるようになったのだ。
たとえば商人が麦を買い込めば、程なく凶作が訪れて麦の値は高騰した。
たとえば商人が銀を売り払えば、程なく新たな銀鉱が見つかって銀の価値は暴落した。
商人は瞬く間に成功への階段を駆け上がった。
たった数年のうちに彼は巨万の富を築き、やがて王家のお抱え商人となるまでに至った。
無論、念願だった故郷への恩返しも忘れなかった。彼は私財を惜しみなく投じて故郷の発展に尽くし、ひとたび故郷に帰れば偉人として万雷の拍手で迎えられた。
やがて国王からも深く信頼された商人は、その娘である美しい姫君と結ばれた。
国家の運営においても、商人の神懸りは健在だった。かの国は商業国家として大いに栄え、いつしか商人は次なる王として推挙されていた。
商人の即位式は、すべての者に祝福された。
老若男女問わず、貧富や身分の差も問わず。新たな賢王の誕生を万民が喜んだ。
戴冠した商人は、王宮のバルコニーから民衆に向けて手を振った。
ここにいる者たちを余さず幸せにすることが、きっと自分の責務なのだろう。そのために『天使』は願いを叶えてくれたのだ。
そう考えた商人は決意を新たに、王としての一歩を――……
……――そこで商人は、正気を取り戻した。
目に飛び込んできたのは、ひどく懐かしい光景だった。
十数年も昔だが忘れもしないあの日、天使と出会った片田舎の街道。そこで商人は行商の籠を担いでいた。
王としての華々しい身なりではない。
あの日とまったく同じ服装。襤褸切れのような服に、穴だらけのくたびれた靴で。
夢でも見ているのかと思って、商人は頬をつねった。
だが、しっかりと痛みがある。つまり今この現状は、夢などではない。
「……あ、ああ」
商人は恐怖に喉を震わせた。
自分は過去に戻ってしまったのか?
それともあの輝かしい日々は、最初からすべて夢だったのか?
しかし、何より恐ろしかったのは――
「私は……私は次にどうすればいいのですか! 天使様!」
これまで商人は『財を成すため、次に何をすべきか』をすべて明瞭に見通せた。
だが今は、背中の籠に入っている商品をどこに運べばよいか、誰に売ればよいか、まったく分からない。
あの心地よかった神懸りの感覚が、消え失せてしまっている。
「天使様! どこですか! 天使様!」
商人は背負っていた籠を投げ捨てて、一心不乱に周囲を駆けまわった。
本当にあの存在が天使だったのか、あの成功の日々が夢だったのか現実だったのか。そんなことはもはやどうでもよかった。
商人は帰りたかった。
すべての願いが叶ったあの世界に。
このみすぼらしい現状が現実だというなら、もはや現実など願い下げだった。
商人は走った。
街道を外れ、藪を掻き分け、鬱蒼とした林に踏み込み。ほぼ錯乱したような状態で、『天使』を探し回った。
「おお……おお! 天使様!」
そうして日が暮れるまで駆けずり回った彼は、とうとう『天使』を見つけた。
どんな道筋を辿ったのかは覚えていない。そこは藪に覆われた廃村で、朽ち果てた民家の残骸があちこちに残っていた。
荒涼としたその場所で、『天使』は月光を浴びながら微笑んでいた。
「お願いします! どうか……どうかもう一度、私の願いを叶えてください!」
商人はひれ伏し、涙を流しながら『天使』に祈った。
『天使』は商人の背を見下ろし、ゆっくりと問いかけた。
「一度だけでよいのですか?」
「……え」
商人は涙に濡れた顔を上げ、『天使』を仰いだ。
「――あなたが望むなら、どんな願いでも、何度でも叶えてあげましょう」
枯れ草が風に揺れる音の中、『天使』は妖しく手を差し伸べた。
救われたような表情となった商人は、むせび泣きながらその手に縋りつく。
商人の旅路は、そこで終わった。
※ ※ ※
【少年の話】
その少年は村はずれの野原で『それ』と出会った。
「あなたの願いを叶えてあげましょう」
背に翼。ぞっとするほど美しい容貌。
少年は『天使』という概念を知らなかったが、『それ』がただならぬ物であることを一目で感じ取った。
「だ、誰……?」
「私は天よりの遣いでございます」
少年の問いに、『それ』は恭しく名乗った。
天よりの遣いと聞いて少年は目を瞠る。それはつまり、父や母がいつも祈っている神様からの遣いということだろうか。そんなことが本当にあるのか。
「願いを……叶えてくれるの?」
「ええ。あなたが望むなら、どのようなことでも」
少年は多少の躊躇いを覚えたものの、どんな願いも叶うという誘惑に抗うことができなかった。
「だったら、お金が欲しい!」
少年の家は貧しかった。
自らの畑を持たぬ父母は小作人として、僅かな日銭のために朝から晩まで休みなく働いていた。
それを少しでも楽にしてやりたいと考えた、少年なりの願いだった。
「――よいでしょう」
少年の願いにそう答えると、『それ』は霞のように姿を消した。
しばらく少年は立ち尽くした。果たして今の存在は何だったのか。夢か幻だったのか。
考えているうちに少年はだんだん落ち着かない気分になってきて、急いで家に駆け戻った。とてもよくない感じがした。もしかしたら『あれ』は、関わってはいけないものだったのではないか。
家に帰った少年は、毛布にくるまって震えた。
早く父と母が帰ってこないだろうか。そうすれば安心できるのに。
そう祈っていると、やがて玄関の戸が開かれた。
安堵した少年は毛布を抜けて戸口に駆ける。そこには母が立っていたが――少年は思わず足を止めてしまった。
母の顔が、見たことがないほどに真っ青だったからだ。
「お父さんが――……」
母は絞り出すような声で、そう言った。
父が亡くなった。
偉い貴族様の一家が乗った馬車が暴走し、父はその下敷きになってしまったのだという。
「本当に申し訳ない」
見舞いに少年の家を訪れた件の貴族様はそう謝罪した。
聞けば、下敷きとなった父の身体が車輪に巻き込まれたために、図らずもブレーキのような役目を果たしたのだそうだ。おかげで馬車に乗っていた貴族様とその家族たちは、怪我もなく無事に降りることができた、と。
そのせいで父の死体は、見る影もなく悲惨なものになっていたが。
「ご主人がなくなったのはこちらの落ち度だ。また、結果的にではあるが救っていただいた恩もある」
そう言うと貴族様は、母に向けて補償の話を始めた。
彼は義理深い性格のようで、少年にはよく理解できなかったが――どうやらかなりの大金を見舞いに包むつもりらしい。
(そんなもの貰ったって……)
まるで父の命を金で買われるような気分になって、少年はやりきれず家の外に出た。
そのとき。
遠くの木陰に『あれ』が立っていた。
じっと少年を見つめて、妖しげな微笑みを浮かべている。
そして『それ』はこう言った。遠くにいるはずなのに、不思議と声はよく聞こえた。
「――願いを叶えてあげましたよ」
その瞬間、少年ははっと息を呑んだ。
まさか。自分がした『お金が欲しい』という願い。そのために父は死ぬことになったのか。
「違う。違う、違う。そんな……そんなことならお金なんて……」
弁明する少年を嘲るように微笑んで、『それ』は姿を消した。
少年はその場に崩れ落ちて、後悔に涙を流し始める。
自分はなんて愚かなことをしてしまったのか。
あんな得体の知れない存在に惑わされるなんて。そのせいで父は、
……――そこで少年は正気を取り戻した。
「……?」
少年が立っていたのは、村はずれの野原だった。
最初に『あれ』と出会ってしまった場所である。
「おぉーい」
状況を理解できず立ち尽くす少年の背中に、聞きなれた声が投げかけられた。
弾かれたように少年が振り向くと、そこには――父母が並んで歩いていた。
「今日は仕事が早く終わってな。早めの晩飯にするぞ」
父は少年にそう呼びかけると、親指で家の方を示した。
少年はぽかんと口を開きながら、
「……お父さん?」
「どうした。変な面して」
父が生きている。
辛うじてそれだけ理解した少年は全力で走って、父母の背をぐいと押した。
「帰ろう! 早く帰ろう!」
「な、なんだ? 急にどうした?」
「いいから早く!」
また、『あれ』が現れる前に。
必死で父母を急かして家に帰ろうとする少年だったが――そこで背中に寒気を感じた。
「あなたの願いを叶えてあげましょう」
そして、耳元にそう囁かれた。
あのときと同じ声。あのときと同じ言葉。
――父母は気づいていないようだが、『それ』は間違いなく少年の背後に立っていた。
「お父さん! お母さん! 早く帰ろう!」
しかし少年は、決死の覚悟で振り返るのを我慢した。
当然、『それ』に対して願いを告げることもなかった。
そうして少年と父母は、無事に家まで帰りついた。
以降『それ』が少年の前に姿を現すことは二度となかった。
※ ※ ※
【少女の話】
その少女は、窓から景色を眺めていたら『それ』を見つけた。
「あなたの願いを叶えてあげましょう」
背に翼を持った、美しくもどこか妖しい存在。
しかし少女は、その美しさにも妖しさにも心を揺らすことなく、ただ『それ』をきょとんと眺め続けている。
しばらくして、少女は『それ』に問い返す。
「――私とお喋りしたいの?」
少女の名はメリル・クライン。
まだ四歳になって間もない、この世に恐れを知らぬ少女だった。
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