第31話『彼岸より響く歌⑬』
「変わり果てた姿になっても、母さんは生きていました。僕が食事を口に運ぶと、辛うじて飲み込んでくれたんです。人間の食事がどれだけ母さんの助けになったかは分かりませんが、ほんの少しは意味があったと、そう信じたいです」
もはや人の姿でなくなった母との思い出を、ユノは静かに話し続ける。
その母が、どんな最期を迎えたか語るために。
「最期の日の朝、母さんはとても旺盛に食事を摂りました。僕の介助を必要とせず、久々に身を起こして、僕の集めてきた木の実や干し肉を食べ始めたんです。ほぼ瀕死だった前日とは、明らかに様子が違っていました。家の中の食料を次々に平らげ、それから――」
それからユノは身振り手振りの表現をする。
自分の口を指さす動きと、腕を大きく輪のように広げる動き。
「『食べたい』『たくさん』。母さんが本当に珍しく……僕にそう訴えてきたんです」
「それで、あなたはどう答えたんですか?」
「『たくさん』『集めてくる』と」
小さくユノは首を振った。
「母さんの様子がおかしいと思うより、嬉しさの方が勝っていました。これだけ元気に食事を食べ始めたのだから、きっと体調がよくなったのだと。たくさん食料を集めてくれば、また母さんは元気になるのだと」
危うい予感を私は覚えた。
人間の魂を食料とする悪魔が、いきなり人が変わったように食料を欲し始めた。理性で食人衝動を抑えていたのだとしても、極限の飢餓状態でその理性を保ち続けることはできるのか。
昔、どこかで聞いたことがある。
本当にひどい飢饉の際には、人間同士が共食いをすることもあり、その中には親が子を殺して食った例すらあると。人間ですら飢えればそうなってしまう。悪魔がそうならない保証など、どこにもない。
「僕は森に出て食料を集めました。いつもよりやる気に満ち溢れていて、身体が軽かったです。甘い果実をたくさん集めて、大きな兎も何匹か捕まえることができました。背負った籠もすぐ満杯になって『そろそろ帰って母さんに料理を作ろう』と思い始めたころ、森の中に歌声が響き始めたんです――間違いなく、母さんの歌声でした」
最期の日の様子を、ユノは敢えて淡々と語ろうとしているようだった。
そうでなければ彼の中で何かが決壊してしまうのかもしれない。
「歌えるほど元気になったのだと思いました。僕はたまらなく嬉しくて、家に向かって走り始めました。歌を聞いていると身体の底から力が湧いてきて。あっという間に家が見えてきて。そして――」
「そして?」
無感動を装っていたユノだが、呼吸が微かに荒くなってきている。
彼は一度だけ、自らを落ち着けるように深呼吸を挟んだ。
「僕の記憶はそこで一旦途切れています。次に意識を取り戻したとき、周りには教会の聖騎士が大勢いました」
「聖騎士が? どうして?」
「森の奥で凄まじい爆発のようなものがあったと、周辺の人里から教会に通報があったそうです。そして派遣されてきた聖騎士の一隊が血塗れで茫然となっている僕を発見して、話しかけたということです」
「……そのときのお母さんの状態を聞いてもいいですか?」
たっぷり十秒ほど沈黙があって、ユノは答えた。
「【雨の大蛇】のときと同じです。黒ずんだ肉片があちこちに散らばっていて、僕の手も服も悪魔の血で真っ赤に染まっていました。住んでいた家も粉々に砕け散っており、何か凄まじい力で破壊されたのは誰の目にも明らかでした」
「あなたは、自分がそれをやったと?」
「……信じたくはありませんが、それ以外に考えられません」
ユノはそれからも話を続けた。
森の周辺の人里には古くより【誘いの歌声】の伝承があり、教会の資料にも数度の出没が記録されていた。また、現場で採取されたユノの『母さん』の肉片を教会本部が調査したところ、間違いなく悪魔のものと判明した。
――そして、その悪魔の肉片は聖なる力で焼け爛れていた。
この事実から教会は現場にいた
事件後の経緯を語り終えた後、彼は諦めるように言った。
「四散した母さんの肉片は、悪魔祓いだけが持つ聖なる力で焼かれていました。あの状況でそんなことができたのは、僕しかいないんです」
「その、たとえばですよ? 森の奥に通りすがりの悪魔祓いがやって来て、あなたのお母さんを手にかけたという可能性はないでしょうか?」
「そうですね……そんな偶然があるとは、あまり思えませんが」
ユノはただ悲しそうに微笑むだけだった。
まあ、そんな単純な嘘でどうにかなる問題ではないと分かっていた。
――証拠や根拠が必要なくとも、説得力だけは欠かせない。
あまりにも都合のよすぎる架空の存在――通りすがりの正体不明の悪魔祓いなどをでっち上げても、ユノを慰めるための嘘だとバレバレだ。彼も本気でそんな存在を信じたりしない。
順当に一連の話を解釈してみよう。
ユノの母は魂喰いを止めた『悪くない悪魔』だった。
しかし極限の飢えにより、食人衝動を理性で抑えられなくなってきた。
最期の日、彼女はとうとうユノの魂を狙った。力を振り絞って『歌声』を響かせ、彼の魂を狙ったのだ。
以降の記憶の空白についてはこう解釈してみよう。
魂を狙う『歌声』に晒され、ユノ自身の防衛本能が高まった結果、聖なる力の暴走を招いた。
あるいは【誘いの歌声】自身が痺れを切らして、彼の血肉を啜ろうと直接的に襲い掛かってきた。それに対抗して自らを守るため、ユノが自身の力を暴走させた。
このあたりが妥当なところだろう。
おそらく教会本部も似たような事実認定をしているはずだ。ユノの『母』の善性については徹底的に全否定しているだろうが。
「メリル・クライン様……やはり、母を殺したのは僕なのでしょう?」
項垂れながらユノが呻く。
前髪の向こうに覗いた瞳には、涙が浮いているようにも見えた。
「あの場で聖なる力を使えたのは僕しかいないんです。だからきっと、僕がこの手で」
「事情は分かりました。ちょっと待っていてください」
びしっと掌を前に突き出して、私はその言葉を遮る。
ガキの泣き言などどうでもいい。何より大事なのは、私がこの悪魔の腹から生きて脱出することだ。
そのために私は、今しがた思いついた『順当な解釈』を一瞬で放棄した。
あんな救いのない話では、ユノがヘタレ小僧のまま終わってしまう。
だから想像して――見出すのだ。
悪魔の中に心を。
人間が持つのと同じ、暖かな感情を。
「ユノ君」
しばらく考えた後、私はユノに切り出す。
「これから私が話す内容は、あなたにとって少し辛いものかもしれません。聞く覚悟はありますか?」
「……っ」
ただ都合よく彼を肯定するだけの話では、信憑性が足りなくなる。
残念ながら全員が笑顔でハッピーになれる物語を描くことはできない。
だが――
「ですが、これだけは絶対に保証します。あなたのお母さんが、間違いなくあなたを愛していたことを。そしてあなたに一切の罪がないことを」
私はいかにも聖女の娘らしく、堂々とした態度で正面からユノを見据えた。
怯えるように身を震わせていたユノだが、私の言葉にこくりと頷く。
彼も覚悟を決めた。
ならばと私は、用意した言葉を紡ぎ始める。
「あなたのお母さん【誘いの歌声】を死に追いやったのは――あなたです。ユノ君」
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