第30話『彼岸より響く歌⑫』
普通に考えて、今は悠長に懺悔などしている場合ではない。
そんなことは当然ユノだって理解しているはずだ。
しかし、彼は呼吸も忘れたかのように凍り付いていた。「あなたは殺していない」という一言は、見事に急所を貫いたようだ。
「少しずつ。話せるところからでいいですよ」
やがてユノは迷うように喉をひくつかせ、小さな声で語り始める。
「……拾われたときの記憶はありません。物心ついたころには、僕は『母さん』と暮らしていました。誰も踏み入らない森深くの小屋で、二人きりで」
「その『母さん』というのが【誘いの歌声】だったんですね?」
私の問いに対し、ユノは頷いて肯定する。
「この街に現れた【誘いの歌声】は黒い人影のような姿でしたが、僕を育ててくれた『母さん』はごく普通の人間の姿をしていました。ただ――時折、蜃気楼のように輪郭がぼやけたりすることがありました。今にして思えば、幻を纏って擬態していたのかもしれません」
攫われた子供たちは【誘いの歌声】を聞くことで、誰にも認知されない透明人間と化していた。それはつまり【誘いの歌声】という悪魔が人間の視覚に干渉する能力を持っているということだ。
能力の扱いに長けた個体ならば、擬態といった芸当も可能なのかもしれない。
「ええと……ちょっと話は逸れるんですが、お母さんの輪郭がたまにぼやけることを不思議に思わなかったんですか?」
「他の人間を見たことがありませんでしたので、そういったこともあるのかと思っていました」
あってたまるか――と思いかけたが、よく考えたらうちの母も暗闇の中でたまに後光を発したりする。私もそれに違和感を覚えたことはないから、幼少期から見ていれば人間は大抵のことに慣れてしまうのかもしれない。
「母さんは無口な人……悪魔でした。あまり人間の言葉が得意ではなかったのでしょう。僕も幼くからそんな母に育てられたため言葉が分からず、互いの意思疎通はすべて身振り手振りで行っていました」
「たとえばどんな感じでした?」
「僕が森に行こうとすると、こうして『危ない』『行くな』などと示してきました」
そう言いながらユノは当時の身振りを再現してみせる。
『危ない』のときは爪を尖らせた獣のようなポーズで、『行くな』のときは両腕を真横に広げて通せんぼをする姿勢だった。
微笑ましいジェスチャーのようにも見えるが、薄皮の下に隠れた異形の悪魔の顔を想像すると、客観的にはおぞましい光景かもしれない。
「母さんはほとんど喋りませんでしたが、唯一の例外が歌でした。とても綺麗な――聞くだけでとても安らかな気分になる子守唄を、毎日歌って聞かせてくれました」
「えっと。念のため確認なんですけど、それを聞いてもユノ君は無事だったんですよね?」
「もちろんです。魂を抜かれるようなことはありませんでした……眠ってしまうことは多かったですが」
ユノは懐かしい思い出に浸ったのか、ほんの少しだけ和やかな表情となった。
だが、私はある懸念を覚えた。
――本当にその【誘いの歌声】が発していた歌は、無害なものだったのだろうか
ユノは悪魔祓いの能力――聖なる力を持って生まれた人間である。
たまたまユノに耐性があったから歌声が効果を発揮しなかっただけで、その『母』は常にユノの魂を狙っていた可能性すらある。そう考えると『毎日歌って聞かせる子守唄』というのも、執拗に彼の魂を狙う恐ろしい行為とすら思えてくる。
ここで私は最悪のパターンを想定する。
ユノの『母』だった【誘いの歌声】の目的が、彼の魂を喰うことだったという――もっとも単純なパターンだ。
いくら歌声を聞かせても魂を抜かれない
そしてこう考えた。
この特別な子供の魂は果たしてどんな味がするのか。味わってみたい。死なぬように餌を与えながら『歌』を聞かせ続けよう。その魂を奪える日まで、毎日。
実際のところ【誘いの歌声】にとってユノの魂はゲロマズの劇物なのだが、悪魔にそんな予備知識があったかは極めて疑わしい。何も知らない悪魔からすれば【誘いの歌声】に抵抗するユノの魂は、とんでもない珍味と見えたかもしれない。
私がそんな最悪の想像をしているとも露知らず、ユノは回想を続ける。
今度は苦渋に満ちた表情で、こみ上げる何かを押し殺すように。
「ですが、季節が幾度も巡って……僕が少しだけ大きくなった頃、母さんの様子がおかしくなってきたんです。輪郭のぼやける頻度が増し、床に臥せる日が多くなり、やがて身動きすらほとんど取れなくなりました。そのころには、もう――」
そこでユノは言い淀んだ。
私はゆっくり頷いてみせ、続きを促す。
「母さんの姿は、母さんではなくなっていました。干からびて黒ずんだ細長いミイラのような――ルズガータの街に現れた【誘いの歌声】に近い姿でした」
「……変だとは思わなかったんですか?」
ユノは首を振った。
「どんな姿になっても、母さんのことは母さんだと思っていました。だから必死に世話をしました。毎日川から水を汲んで、木の実や山菜を集めて……母の使っていた弓矢を持ち出して、鹿を仕留めたこともありました」
「……弓矢? 【誘いの歌声】がそんなものを使っていたんですか?」
この街に着いたとき、あの悪魔は母に向けて砲撃とでもいうべき音波を放ってきた。
あんな攻撃を使える悪魔なら、弓矢のような道具に頼る必要はないと思う。
「飢えていたんだと思います。悪魔の力を使えないほどに」
「あっ」
そうか、なるほど。
弓矢などという道具に頼ったのも、擬態が解けてしまったのも、最終的に動けないほど衰弱してしまったのも。ユノの魂を食えなかったがゆえの飢えのせいだと考えれば説明がつく。
「ということは、あなたのお母さんは他の子供の魂も食べていなかったということですね」
「そうだと……思います」
さきほど私が想定した最悪のパターンが、とりあえずこれで否定された。
ユノの母が、魂を狙う邪悪な悪魔だったとすれば、ユノを飼い殺しにしている間も並行して他の子供の魂を喰い漁ったことだろう。それなら飢えることなどありえない。
つまり彼の母は、どういう理由かは知らないが――子供の魂を喰い漁ることを止めていた『悪くない悪魔』だったと解釈できる。少なくとも、ユノとともに暮らしていた間は。
しかし、そうなると母を殺してしまったユノの罪悪感が問題となってくる。
そこをどうカバーしていくか。
「――聞かせてください。あなたのお母さんの最期を。記憶にある限りでよいので」
彼の記憶の間隙に、どんなピースを埋め込むべきか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます