第26話『彼岸より響く歌⑧』
「――うう、ん?」
妙にひどい眠気を覚えて、私は目をごしごしと擦った。
昨晩、列車で寝たために熟睡できていなかったのだろうか。やはり早く家に帰って自室のベッドで眠りたい。
「ねえママ。早く終わらせて家に帰ろ……」
そこで私は目を開いて、気づいた。
目の前に、私を抱きしめていたはずの母がいない。それどころか景色まで一変している。さきほどまで子供たちが囚われていた小屋の中にいたはずなのに、今の私はルズガータの街の駅前広場に座りこんでいた。
ただし、そこには誰もいない。
本来、今の駅前広場は避難所として住民がひしめいているはずだ。しかし、どれだけ辺りを見渡しても、誰一人として見当たらない。
とてつもなく嫌な予感がした。自分の身に異常なことが起きているのがひしひしと感じられる。
(これってまさか、もしかして……)
急激な眠気を覚える直前に、やたらと美しい妙な歌声が聞こえてきたのを思い出す。
あれはまさか【誘いの歌声】ではないのか。母が『悪魔に不快感を与える音』を発して挑発行動を取ったから、向こうもやり返してきたのではないのか。あるいは、聖女の娘たる私を人質にするために。
どっと私の全身から冷や汗が溢れた。
もしそうだとすると、今この場所はルズガータの駅前広場などではない。ただ景観がそのように見えるだけで、実際は【誘いの歌声】の腹の中だということだ。
「まっ……ママぁ――――っ!! 助けて――っ! どうにかして――っ!!!」
たまらず空に向かって叫ぶ私。
よく見ると空の色は毒々しい赤紫で、明らかに普通の空ではなかった。ここが悪魔の腹の中だという可能性がより濃厚になって、私はますます青ざめる。
「えっと……犬! そう! 犬でもいいから! 狼さん! 助けて!!」
沈黙。
空に向けて放った言葉は、ただ虚無へと吸い込まれていく。反響すら返ってこない。
最悪に絶望的な状況だったが、悲嘆に暮れるよりもまず私は怒りを覚えた。
「ああもう! 最悪!」
ぎりぎりと歯を食いしばって、八つ当たりにげしげしと地面を蹴る。
なぜ母はいきなりあんな無茶をしたのか。せめて悪魔を挑発する前に、
まったく聖女としてあってはならないミスだ。いまごろ母も慌てふためき、仮死状態の私を前に泣き暮れているはず――いや待て。
私は眉間をつまんで、意識を失う直前のことを思い返す。
母は確かこう言っていた。
「あなたなら、きっと大丈夫」と。
私は目を瞑って天を仰いだ。
きっと大丈夫。母が告げた暖かな信頼の言葉を思い出しながら――
「無茶言うなぁっ! この馬鹿ママぁ――――っ!」
その辺に転がっていた石ころを拾って、駅舎の窓に投げつけた。
ガラスの砕ける快音とともに破片が飛び散る。どうせここは悪魔の腹の中。誰にも怒られないと確信を得ている私は、次から次に駅舎のガラスを割りまくった。
さらに私の勢いは止まらない。
広場の花壇そばにあったスコップを拾い、とにかく手あたり次第に近場のものを破壊しまくる。どうせならこのまま街に火でも放ってやろうか――と思ったところで、ふと気づいた。
(あれ。ここって悪魔の腹の中なんだから、暴れたら腹痛とか起こすんじゃない?)
だが、現状まったく周囲の光景に変化はない。
不気味な赤紫色の空もそのままだ。まあそれはそうだ。私ごときが暴れて脱出できる程度なら、囚われた子供も自力で脱出しているだろう。
私はスコップを投げ捨て、真面目に生き残る術を考える。
ひとしきり暴れて少しだけ頭も冷えてきた。
母は「あなたなら、きっと大丈夫」と言った。母は私の無能を知っているから、これはただの無根拠な楽観ではない。
つまり私に力がなくても、この状況から生還する方法はあるのだ。少なくとも母にはその確信がある。
(あとは……そう。ママは突然ケーキの話をしてたっけ)
食べたものを吐かせるにはどうしたらいいか。とびきり不味いものを食べさせればいい。悪魔にとっては『悪魔祓いの聖なる力』が、母のケーキと同等の劇物となる。
「――もしかして」
ふと思い付くことがあって、私は広場の中を見渡した。
期待していたものがそこにはあった。合図や時報に用いる半鐘の櫓だ。私は櫓のハシゴをおっかなびっくり登り、備え付けの木槌でひたすら半鐘を打ち鳴らす。
「私はここで――すっ!! もしあなたも来ているなら、早く来なさ――いっ!!」
私は悪魔の力に何の抵抗力もない子供だったから、歌声によって魂を抜かれてしまった。
奇しくもあの場にはもう一人、私と同じ『何の抵抗力もない子供』という被害者の条件を満たす存在がいた。
「ユノ君――っ!! あれだけ能無しになってたら、君も魂抜かれてるでしょ――っ!! この鐘に気づいたならさっさと来なさ――いっ!!」
私の呼びかけに応じるように、街の大通りの向こうから、息を切らして少年が駆けてきた。
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