【雨の大蛇】編

第9話『雨喚ぶ大蛇の呪い①』


 その村では一年間、絶えず雨が降り続けていた。


 川は氾濫に溢れ、山肌は崩れ落ち、すべての畑は土砂に埋もれ果てた。

 生活の糧を失った村人たちは出稼ぎのため方々へ散り、故郷との心中を決めた老人のみが村に残った。


 そんな滅びを待つだけの村にある日、一人のが現れた。


 少年は老人たちの制止も聞かず、ただ一人で山深くの滝壺に踏み入った。その滝壺には古くより、雨を喚ぶ大蛇の悪魔が棲むと伝えられていた。

 村の老人たちが少年の身を案じていると――やがて唐突に雨が止んだ。


 山を下りてきた少年は、大蛇の返り血にまみれていたという。




―――――――――――……



「おめでとうメリルちゃ~ん! この前の事件解決が評価されて、新しいお仕事の依頼が来たわよ~!」


 朝食の席で母がそう切り出した瞬間、私は脱兎のごとく逃走を試みた。

 食堂の扉を蹴破り、驚くメイドたちの脇をすり抜け、外の庭園へと駆け出して――


「嬉しくてはしゃいじゃう気持ちは分かるけど、食事中にいきなり席を立つのはお行儀が悪いわよ?」


 庭園には、先回りしていた母が立っていた。

 目にも止まらぬ速度で私を追い抜いたのか、それとも瞬間移動でもしたのか。

 逃げ場を封じられた私は、背筋に冷たい汗を感じる。


「ママ……その仕事だけど、私ちょっと体調がよくないからパスで」

「あらそうなの? じゃあ今すぐママが治してあげる」


 そう言うと母は私の肩に手を置き、掌からぽうっと淡い光を放った。

 聖女たる母は他者に触れて祈るだけで、たいていの怪我や病気を瞬時に治癒することができる。

 母が持つこの能力のおかげで、私は病気知らずの健康優良児として育ってきたが――まさかこの能力に苦しめられる日が来るとは。


「はい。これで体調はバッチリね? お仕事頑張ってらっしゃい!」


 朝の眠気や気怠さが吹き飛んで、本当に体調バッチリになってしまったのが実に恨めしい。私が頭をフル回転させて次なる任務拒否の言い訳を探し求めていると、


「ほう……娘よ。新たな任務に発つのか?」


 巨大な白い犬っころが庭園の垣根を跨いでのしのしと歩いてきた。


「いや、その、まだ行くと決まったわけじゃ……」

「ふ、やはり荒事には気が進まんか……。悪魔と聞けば問答無用で殺しに飛び回る、どこぞの野蛮な死神とは大違いだな」

「そうなのよ~。メリルちゃんったらすごく優しいのよ~。もっと褒めてあげて~」


 仲が良いのか悪いのか分からない会話を繰り広げる母と白狼。


 現在の白狼こいつの立ち位置は非常に複雑である。

 教会のスタンスはいかなるときも『悪魔討つべし』の一択であり、たとえ従属させようが子分にしようが悪魔を飼うことなど教義上許されない。


 しかし、うちには誰も逆らえないほど強大な権限と名声を持つ聖女ははがいる。


 そういうわけで今現在のこいつは『とても珍しい種類の犬』という強引にも程がある扱いで、教会や行政など各方面から全身全霊の見て見ぬフリをされている。

 視察にやってきた教会の偉い人が「これは……犬、ですな……」と死人みたいな無表情で呟いていたのは記憶に新しい。


「でもねメリルちゃん。戦うのはあんまり気が乗らないかもしれないけど、依頼書だけでも読んでみてもらえないかしら? きっと興味が湧くと思うのよ~」


 そう言うと母は私の眼前に一枚の書類を広げてきた。

 どんな依頼だろうと興味なんて湧くはずがない。教会から悪魔祓いに下される仕事である以上、まず間違いなく悪魔との戦闘は避けられないのだ。先日の事件などは例外中の例外でしかない。


 どんな内容だろうと断固拒否。と、思っていたのだが――


「『この任務の主担当にはメリル・クラインを推薦し、案内役としてユノ・アギウスを同行させるものとする』」


 ちょうど私の目線の高さに、そんな一文があった。

 案内役? と私が疑問に首を傾げると、母がさっと書類の横から顔を出す。


「実はね~。今回のお仕事はとっても珍しいことに、悪魔祓いさんがもう一人同行してくれるのよ~」

「私以外にも、もう一人……?」

「そうなのよ~。他の悪魔祓いさんと会う機会なんてなかなかないし、お友達になれるいいチャンスだと思うの~」


 その瞬間、私は母の思惑を完全に理解した。


(そっか! やっぱりママも私のことが心配なんだ! 悪魔祓いがもう一人っていうのは……つまり私の護衛役に決まってる!)


 獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというが、よくよく考えたら母は慈悲深き聖女である。獅子などというケダモノとは違うのだ。私に危害が及ばないよう、ちゃんと配慮してくれるに決まっている。

 この前の事件のときもなんだかんだで電信に応じて(少し遅かったが)駆けつけてくれたわけだし。


 それに――


 私はちらと白狼に視線を向けた。

 もし同行してくれる悪魔祓いが話の分かる人物なら、この怪物をいい感じに殺処分してくれるかもしれない。こいつを庭に迎えてからというもの、いつ寝首を掻かれるか分かったものでなくて、一日に七時間しか眠れないのだ。


 いや、どうせならこの白狼の処分を頼むだけでなく、賄賂なんかを渡してより強めのコネを作っておきたい。私は大勢の悪魔に狙われているのだから、盾になってくれる人材はいくらいてもいい。金ならいくらでもある。



 やがて私は――ちょっと勿体ぶって、母の広げる依頼書を手に取った。



「う~ん、仕方ないなぁ。ママがそこまで言うなら、今回だけ引き受けてあげよっかな!」





 のちに私は、この浅はかな決断を大いに後悔することになる。

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