第5話 社会人2年目
大学を卒業して2年目。
俺は志望のとおり、研究系の仕事に就いていた。
研究職はフレックスで通勤時間は自由だ。だからといって、これは暇だということを意味しない。仕事はいつも山積みだった。
結果として俺は、社会人としてはありえないような不規則さで家に出入りすることになった。
でも、これ、近所に偶然にでも顔を合わせたくない相手がいるときには助かる。
俺は幼馴染と恋をした。
3歳から20歳に至るまで、いつも一緒だった。空気や水のようにいつもあるくせに、なければ死ぬほど大切なもの。
なのに、破局は一瞬だった。
好きな人ができたらしい。だから、俺は彼女を送り出す選択をしたんだ。
その結果、笑ってしまうほどあっさりと、俺たちの関係は終わった。
実家に帰れば、その幼馴染の家は極めて近い。母親同士は昔から大の仲良しだから、その行き来もある。
だから、その話題の肴にならないよう就職はどこか遠くと思っていたのだけど、結局は自宅から通えるところに決めた。それは、その幼馴染み、結花が他県に就職したと聞いたからだ。きっと、サークルの先輩を追って行ったんだろう。
それは悲しくとも、とても俺の気を楽にさせてくれたんだ。
母親からは気を使われているのか、結花の情報は漏れてこない。
これも俺は助かっている。
これで、「結婚したよ」なんて聞かされたら……。あまつさえ「一児の母になった」なんて聞かされたら……。
実際に、すでにそうなっている可能性はある。でも、知るまで俺にとっては、その事実は存在しないんだよ。
こうやって日々を過ごしていれば、女性は皆無の職場だし、いつの間にか俺の人生は平穏に終わっていることだろう。
もう、それでいいような気がしているんだ。
たぶん10年後も経ったら、ばったりと子連れの結花に会ったとしても、その子供の頭を撫でてあげるくらいのことはできるんだろうなと思う。
そう、時は進んで行くんだ。
そして、温くなったアイスコーヒーのように平穏に俺の人生は終わる。
夏が来た。
社会人の夏休みは短い。良くて一週間だ。
溜まりに溜まった睡眠負債の解消にあてようと思っていたんだけど、そうは問屋が卸さなかった。
母が言うには、夏休み初日の朝から真鶴の救急救命医の叔父の家に行け、と。
俺は抵抗した。
真鶴には、結花と過ごした記憶があまりにたくさんある。二度と行きたくないってのが本音だ。
一緒に泳ぎ、釣りをし、散歩した。共に夏休みの宿題をして花火を見、浜辺で白いきれいな貝殻を拾った。そのすべての思い出が、今や痛みに変わっている。
結局、その貝殻を持つ生き物の名前も伝えられなかった。
「貝の名前、待ってる」
そう言った、ファーストキスのあとの結花のいたずらっぽい声を、俺は忘れてはいない。
だけど、そんな俺の思いを超えて、母の話す事情は深刻だった。
真鶴の叔父は7年前に結婚した。
奥さんは今までに2人の子を出産し、この夏、3人目の妊娠が判明した。だけど、切迫流産で絶対安静の入院となってしまったと。でもって、救急救命医の叔父は仕事が不規則で休めない中、保育園への送迎を2日行ったところで白旗が上がった。
叔父の仕事が仕事だからと、保育園側も最初は協力的だったらしい。でも、午前様はさすがに限界がある、と。
そうだろうなぁ。
俺だって、叔父が真鶴駅に迎えに来てくれる時間が4時間も遅れたことがあった。一歩間違えたら、補導されちまいそうだったんだ。
叔父がメスを握れば、他の医者が助けられない命でも助けられる。それもあって、一旦事故が起きたらどんな予定も吹っ飛んでしまうんだ。
で、奥さん入院後の初週末。
保育園は土曜日でも、割増料金とともに特にお願いすれば子供を預かってくれるらしい。けど、日曜日には完全に休みになってしまう。なのにどこかで事故でも起きたら、叔父は5歳と3歳の幼子を置いて家を飛び出していかねばならない。
これ、完全によくない事態だ。
最初は母、自分が行くつもりだった。
でも、俺が夏休みなら先に行け、と。で、俺の夏休みの終了にあわせて次は母が一週間行けば、それだけで半月は時が稼げる。で、その期間があれば、どっちにせよなんとかなるだろうというのが母の読みだった。それでダメなら、いよいよ叔父の奥さんの実家に博多から出てきてもらわねば、と。
ともかく、行きたくない理由を口に出せない俺は、この話を断り切れなかった。
まぁ、叔父には世話になっているから、その恩を返すこと自体は当然のこととして納得している。
俺は、朝イチの新幹線に飛び乗ったよ。
「こだま」を降りて、真鶴駅で小鯵押寿司と鯛めしの駅弁を買った。
とりあえず夕食は作るにしても、まずは子供たちにお昼ごはんを食べさせなきゃだ。
今日は土曜日だから、保育園に預かってもらったのは特別だ。だから、お昼前には迎えに行ってやろうかと。それに、夜になってから知らない人に迎えに来られるのは、子供だって怖いだろうしね。
実は、俺と子供たち、まだ会ったことがない。奥さんとだって、結婚式以降会ってない。
ま、初対面となるとご機嫌を取らないとだから、ペットボトルの麦茶とお菓子もいくつか買い足したよ。
運転免許証に加えて身分証明書も出して、保母さんにじっくり観察されて、ようやく2人の子供を引き取ることができた。誘拐対策なんだろうけど、こうあからさまに疑いの目で見られると傷つくよね。
で、かちんこちんに緊張している5歳の男の子と3歳の女の子を、叔父宅に連れ帰った。
鍵の隠し場所とか、前と変わっていない。
玄関を開け、まずは台所を片付ける。叔父さん、子供たちに朝食を食べさせて、そのまま駆け出していったんだろうなぁ。あ、叔父さんに子供を引き取った報告メールはしたよ。
……時の流れを感じるね。
台所、あの頃といろいろが違う。冷蔵庫は入れ替わっていた。叔父の奥さんが使いやすいように変えていったんだろうね。
できるだけ、奥さんの意思を尊重して片付けた。それから、子供たちを呼んで鯛めしを取り分けた。
まだまだ緊張している2人の子を見ていると、俺と結花も幼い頃、周りの大人からはこんな感じに見えていたのかもと思う。
2人の子、食べたらようやく笑顔が出てきて、交互に質問責めしてきた。
そのあと子供たちはお昼寝。俺は洗濯。
懐かしいね。洗濯機は変わっていない。
夕方、2人の子を起こして、散歩に連れ出す。
夕食の買い物しなきゃだからだ。
両手に2人の子の手を握って歩いていると、不思議な気がしてきた。結花と手をつないで歩いた道を、いろいろすっ飛ばして子供と手をつないで歩いている。
いろいろすっ飛ばさず、自分の子とこうして歩く可能性だってあったんだろうな。
買物のあとは回り道して、海辺の道を歩く。2人の子たち、保育園で教わった歌なのかな、元気に歌っている。
俺、ちょっと恥ずかしい。
そして、そのまま進めば、結花があの白い貝殻を拾った浜に行き着く。でもね、子供を砂浜に連れていくと靴が水浸しになるのは確定事項だから、その手前で引き返すことにしたよ。
で、振り返ったら……。
奇跡なのか何なのか、結花が立っていた。
驚きのためか、緊張のためか、顔色は紙のように白い。
俺も……、加○茶ばりの二度見を決めて、呆然と立ち竦くんだ。
どれくらいそうしていたかわからないけど、待ちきれなくなった2人の子が俺の手を引っ張って、ようやく我に返らされたよ。
「子供連れて歩くの、似合っているじゃん」
そう言われても、なにも言い返せない。
口が動かないんだ。
「なぜ……」
間抜けに、そう問うのが精一杯。
「宿題の回収に来た。
ねえ、あの貝の名前、わかった?」
「ああ。
アオイガイ。
貝じゃなかった。あれはタコの殻だったよ。だから貝類の図鑑をいくら見てもわからなかったんだ」
「タコの殻!?
ふーん、すごいんだね。タコなのに殻を持っているんだ」
「ああ」
そう答えて視線をずらせば、2人の子が俺を思いっきり見上げている。
「知り合いのお姉さんだよ」
そう説明してあげて、それ以上言えることがなにもないのに気がついた。
虚しいもんだ……。
それに、これから結花にどんな言葉を投げつけられるかわからない。それへの怯えが、さらに俺の口を重くさせていた。
「晩御飯、この子たちに作ってあげるんでしょ?
手伝うから」
結花の言葉に俺、視線を合わさずに曖昧に頷く。本当は断りたかったけど、子供たちの手前、激しい拒絶もできない。
子供たち、ペットボトルの麦茶とトト□のDVDでおとなしくなった。
俺は、夕食のために手を動かす。
「なんか、懐かしいね」
……だろうな。幾度となく結花と一緒に立った台所だもんな、ここは。
俺、また曖昧に頷く。
「ねえ、宿題に答えたらどうなるのか、覚えてる?」
……忘れるもんか。俺の人生で、最初のキスのときのことだもの。
「貝の名前、待ってる。
そのときに、また続き」
そう言って笑ったんだ、結花は。
でももう、俺たちに続きはこない。
結花が続ける。
「ねぇ、聞いて。
あの頃の私、調子に乗っていたのは認めるよ。ごめんね。でもね、『告白された』とは言ったけど、『好きな人ができた』とは言ってないんだよ」
「でも、心はサークルの先輩に傾いていたよね」
「ごめん。
私、心の中に、そういう部分があったことは否定できないし、する気もないよ。
でも、最終的に私を追いやったのは、キミから投げつけられた言葉だったんだ。『つまらない女』ってね」
「俺のせいかよ?
でも、その彼と上手く行ってるならいいだろ?」
俺、どうしても口調が棘々しくなってしまう。
結花の顔、複雑なものになった。
「……上手くいくもなにも、始まりもしなかった」
「えっ?」
俺、初めて結花を正面から見た。
「『幼なじみと別れてきた』って私、先輩に言った。
そしたらね、先輩、私を抱きしめてキスをしようとした。
私ね……」
結花の顔、複雑さを超えて歪んだものになった。
「私ね、気持ち悪いって思ったんだよ。
オカシイよね?
変だよね?
でも、どうしても耐えられなくて、先輩を突き飛ばして逃げ出したの。
そのまま私……、大学は卒業してからも、ずっと独りだよ」
とても信じられない。
だって、ファーストキス、俺は奪われた側だぞ。俺より積極的ですらあった結花が、なぜ……。
頭ん中、ぐるぐるしちゃってワケがわからない。
……話を変えよう。
「就職先は遠くだって聞いたけど?
その彼氏の地元だとばかり思っていた」
「えっ、家から片道12kmちょいだから、そこまで遠くないよ?」
「だって、県外だって……」
「うん、県外は県外だけど。〇〇町だよ」
「隣町じゃねーか!
オカンから結花の就職は県外で、遠くへ行ってしまった、と聞かされてさ……。
片道12km……、歩けば遠いか……」
そう言ってから、俺は結花を名前で昔どおりに呼んでしまったことに気がついた。時ってのは、こんなに簡単に巻き戻るものなのかな。
「ちょっと待って。
じゃあ、逆に聞くけど、なかなか家に帰れないところに就職したって話はどうなん?」
「俺が?」
「うん」
「あまりに忙しくて、定時には帰れないけど。おまけにフレックスだし。
でも、不規則だけど毎日帰ってはいるよ」
結花、呆然としている。
当然、俺もだ。
両方の母親が語ったこと、共に嘘ではない。嘘ではないけれど、なんなんだ、この誤誘導は!?
「ちょっと待て。
どう考えても俺たち、変な誘導されているよな。
そもそも結花は、結花のオカンになんて言われてここに来た?」
「……。『悪い女に騙されて、自分のものでもない子供を押し付けられて逃げられた』って言っていたよ。で、地元にもいられなくて、少しでも土地勘のある場所に逃げた、と。
今ならまだ救えるかもしれないから、なんとしても助けてこいって。
キミはもうもうおばさんの言うことは聞かないし、そのおばさんは日夜泣いているし、私にしかできないことだって。もう最後の望みだ、って」
「ばっかやろ、あの2人の子は、叔父さんとその嫁さんの子だよっ!
なんで、そんな話になってるんだ?」
そこまで叫んで、結花と視線を合わせ……。
一気にすべての謎が解けた気がした。
これはもう、俺と結花、両方の母親の手のひらの上。
喧嘩したという話を聞いて、距離を置かせた上で危機感を煽ってくれやがったに違いない。
たぶん、結花があのまま先輩と呼ぶ人のところへ行ったきりだったら、こんな策略が計画されることはなかったんだろう。つまり、俺だけでなく結花も、休みの日にも家から出ずに暗い顔でうじうじしていたんだろうな。そうなれば、あの仲良し母親連合軍がどう考えるか、必然として想像もつく。
思わず俺、深い深い溜め息を吐いていた。
お互い、もっときちんと向き合うべきだったって、激しい後悔の念が湧いたよ。
まぁ、言うは易しで、実行に移すのは大変だっただろうけれど。
「でも、本当にそこまで俺たちと事態が思い通りに動くと思っていたのかな?」
俺は思わず疑問を口に出したけど、結花は答えず視線を落とした。
洗い物をしているしばらくの間のあと、水音が止まったタイミングでようやく口を開く。
「運よ。
ここまで来たけど、私、勇気が湧かなくて、そのまま帰ろうと思ったんだよ。
だけど、最後にあの海だけは見て帰ろうと思ったら……」
「……あっぶねぇ」
思わず、俺の口からはそんな言葉がこぼれていた。
「俺たち、運はあったのか……」
「そうだね。腐れ縁っていう名の運かもしれないけど」
「いきなり平常運転になってんじゃねーよ」
俺がそうツッコんで、なんとなく笑いあったそこへ……。
「お久しぶり。
お義姉さんがヘルパーさん派遣してくれるって言うから甘えちゃったけど、本当にありがとうね。
おかげで、半年ぶりに美容院にも行けたし、ゆっくり1人でご飯も食べられた。昼寝なんか、5年ぶりよ、5年ぶり。
助かったわぁ」
ああん?
なんで帰ってきたんだ、叔父さんの奥さん。
切迫流産どころか、元気じゃねーか。
ああ、そうか。これも、一石二鳥作戦かっ!
ったく、あの母親連合軍めっ!
今回は何重のWin-Winで、一石何鳥なんだ?
人を駒扱いしやがって、絶対許さねぇ!
真鶴からの帰り道。
東京で途中下車。
俺、宿題を果たしたんだし、時間を再び動かしていい状況なんだよね?
その結果が、母親連合軍の予想の上を行くことも……。いや、それでもまだ手のひらの上だろう。
でも、それでも。
わかったうえでもそうしてやろうって、俺と結花の意見は一致していた。母親連合軍の予想の上を行く運だってあったんだから。
ラグジュアリー・ホテルのロビーで俺と結花、昔、秘密基地で悪巧みをしていたときと同じ表情をしていたと思うんだ。
おわり
あとがき
短いですね。無事に終われてよかった。
このまま幸せになって欲しいものです。
僕と結花のクロスロード 林海 @komirin
★で称える
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