第4話 大学3年生


 俺は、駅の前のカフェで結花を待っていた。この場所は、結花の指定だ。

 そろそろ20分が経ち、アイスコーヒーのグラスについた結露が流れ落ち、テーブルに水たまりができている。

 結花の言葉に違わず美味かったけど、氷も溶けてだいぶ薄まってきていた。


 待ち合わせデートもちょっと間隔があいていたけど、結花が言うには今日は大切な話があるらしい。



 俺と結花は幼馴染だ。

 お互いの母親同士が友だちだったこともあって、家族ぐるみの付き合いがある。

 だから、保育園以前から現在の大学2年生に至るまでの腐れ縁。ま、大学自体は違うんだけど、それでも同じ東京だからね。


 で、その長い付き合いの間に、結花は幼児から胴体からゴボウが生えたような色黒痩せっぽちなクソガキになった。そして、そこからさらに見惚れるほどきれいな女性に成長した。

 今は女子大生デビューしたみたいで、なんか小癪な意識高い系女に納まっている。

 

 上昇志向を持つのは勝手だけど、秘密基地でお菓子を貪り食っている姿とか、沢蟹追いかけ回している姿とか、蛇を捕まえて振り回している姿を知っている俺としては、どうしても視線が生温かくならざるを得ない。

 それにここ1年ほど、約束の時間に遅れるようになったのは、「いい女」の演出なんじゃないかって俺は邪推している。



 それからさらに10分を経て、ようやく結花は現れた。

「遅いよ」

 という俺の言葉に、曖昧な笑みを浮かべる。

「どうしたん?」

 俺、さらに聞く。


 恵茉は向かいに座るなり、いきなり口火を切った。

「あの……、さ。

 実は、サークルの先輩に告白されて……」

「えっ……」

 思わず俺、絶句する。


 幼いときからずっと一緒だった。

 このまま、この先もずっと一緒だと思っていた。

 でも、それが確定した未来ではないって事実、初めて知ったように思う。


「で……、どうするの?」

「ねぇ、逆に教えて。

 私のこと、どう思ってる?」

「えっ!?」

 改めて聞かれて、俺、絶句した。


 俺の正直な感情、どれを言っても理解してもらえないだろう。それだけはわかるからだ。

 俺が俺の感情を素直に言えば、「空気のように感じていた」というのが一番近い。

 自然にそこにあって、なければ死ぬ。それほどに、極めて重要なもの。しかも、そうでありながら重荷ではなく、おかしなバイアスが掛かってしまうような色や臭いもついていない。


 でも、この表現は別の側面も持つ。

 軽いとか、なんの特長もないとか、つまりはどうでもいいとか。

 結花に言ったら、絶対にそっちの意味にとる。



 答えられずにいる俺に、結花、さらに聞いてくる。

「私がなにを考えているか、わかる?」

 わかる。

 実は手にとるように。

 でも、これも言えない。


 結花、大学生になって、たくさんの情報の中でよりいいものがあるってのを発見をしまくっている。そして、それを吸収するので精一杯だ。例えば、今日の待ち合わせのカフェの選択だって、そういう情報の一つだ。

 ま、つまりは大学生活を思いっきり満喫しているわけだな。


 一方で、俺は理系の学部だから、実習に追いまくられてそれどころじゃない。実験は深夜にも及ぶし、バイトなんかとてもじゃないけどできない。食事は3食学食だし、うっかりすると風呂すらも満足に入れないくらいだ。


 つまり、デートのときの俺しか見ていない結花にしてみれば、俺は高校の時から着ているTシャツを引っ掛けただけの、なんの進歩もない人間に見えている。

 それがつまらないとか、不甲斐ないって思うのは結花の勝手だ。今日まで俺は、結花が皮肉めいたことを言うのを聞き流してきたんだ。


 でも、結花の発見した新しいものがどれほどのものかって考えれば、どちらが重要かの答えは自ずから出る。

 学生時代には楽しくても、社会人になるときには再び人生から切り離さねばならない。その程度のものなんだよ、結花が共に踊っている新しいものとは。


 今の俺は、実験の徒手技術を固めて就職を有利にしたい。今やっていることは、それこそ一生喰っていける技の習得なんだ。未だに最先端に行けば行くほど、コンピュータのシミュレーションの再現性は低くなる。結局は人の手の技術がモノを言う世界の入り口に、俺はいる。

 だから今、結花が酔っているようなものに興味はないんだ。

 でも、その指摘をしたら、結花が烈火の如く怒るだろうってのもわかる。



「私、もう大切とは思われなくなっているんだよね?」

「それは違う」

「じゃあ、どう違うか説明してよ」

 結花はしつこい。


 ……いや。違う。

 きっと、俺から離れるための大義名分が欲しいんだ。つまり、俺の失言待ち。心はすでに、そのサークルの先輩とやらに向いている。

 結花にとって俺は、この氷が溶け切る寸前のアイスコーヒーみたいなもの。

 冷たさとコーヒーの残骸は残っているけど、あとはぬるくなるだけ。そして、さらに薄くなるだけだ。作りたての涼やかなアイスコーヒーには敵わない。


 ……そうだな。

 結花が燃え上がるような恋がしたいと願っているのであれば、すでに家族同様の間合いに入ってしまっている俺は対象外だ。

 俺の心の中に嫉妬がないと言えば嘘になるけど、結花の目はもう俺を見ていない。それもまた仕方ないことなのだろう。

 縋っても、理を説いても、もう結花は答えを出している……。


 俺の脳裏に、真鶴で結花と一緒に見た打ち上げ花火が浮かぶ。

 さらに、浜辺に流れ着いた、名前もわからぬ白く美しい巻き貝の貝殻を抱え込む姿が。


 それらの思い出が、俺に決心をさせた。

 俺は忘れない。

 きっと、俺は一生忘れない、

 だからこそ……。


 結花が振り返らずに済むよう、忘れてしまえるよう送り出してやることこそが、今まで誰よりも長く一緒にいた僕の義務なのかもしれない。




「結花。

 自覚してないと思うけど、つまらない女になったな。

 俺は結花のこと、本質は外さない女だと思っていたんだけどな」

 あえて……。

 あえて、強い言葉を使う。

 これもまた、どこまでも僕の本心の一部であることは間違いない。

 そして、これこそが、僕の結花への餞別なんだ。



 さようなら、結花。


 


 ……。


 ……薄まりきったアイスコーヒーを、独りで啜る。

 香りもなく、ただ腑抜けたような不快な苦味だけが舌に残った。

 これが、結花から見た今の俺の姿なんだろうな。

 そして、密かに覚悟しなければならない、これからの俺の人生の予想図なんだ。




 − − − − − − − − − − − − − − − − − −


 結花を忘れること、さすがに一朝一夕では無理。

 家族と死別したような、ぽっかりした穴が心に空いている。


 理系ってのは、学生生活においては、いや、就職してからですら女性の比率は極端に低い。

 コンビニやスーパーのレジの店員さん以外、女性をまったく見ない日も珍しくはないんだ。

 もしかしたら、次の恋という話でもあればその心の穴も埋まったのかもしれない。でも、そんなことは望むべくもなかった。


 それでも、1つだけ切りがついたことがあった。

 結花が昔浜辺で拾った、白く美しい巻き貝の貝殻。

 大学の図書館で、貝類の図鑑を何冊も何冊も調べても見つからなかったその貝。

 その正体がついにわかったんだ。


 大学4年のときの新入生歓迎会で行った、居酒屋に飾ってあった。

 しかも、それには採取地として日本海側の地名と採取年月日、和名と学名までが記された札がついていた。

 それを読んだ俺は、半ば茫然となった。


 なんと、その白い貝殻は、貝のものではなかった。

 アオイガイという、貝殻を持つタコのものだったのだ。

 8本足のタコが殻を、それも巻き貝を作るなんて俺は知らなかったし、貝類の図鑑、それも専門的になればなるほどタコなんか載ってない。

 探しても探しても、それも、高度な書籍を中心に探し続けたからこそわからなかったわけだ。


 念のため、写真を画像検索にかけたら、一瞬で答えは判明した。

 でも、ネットを使わないという縛りがある中で、これほど分類が異なる生物を探していたら、そりゃあ見つかるわけがない。

 それにしても、今さらわかったって……。

 虚しさの極致だよな。



 それにしても、同じ東京にいても大学が違えば、結花の情報はまったく入らない。

 SNSも更新されないとなればなおのこと。

 生活と心の中に空いた穴は、途方もなく大きかった。


 俺の過去の思い出の、ほとんどすべてに結花がいた。

 土下座してでも迎えに行こうかと思ったことすらある。

 でも、おそらくはそれ、サークルの先輩とやらとよろしくやっている結花にとっては、迷惑にしかならないだろう。



 人の人生にとって、正解とはなんなんだろうか?

 俺は自分の選択が誤っていたとは思わない。

 覚悟して結花を送り出したつもりだった。

 でも、その結果、やはり人生のすべてを失ってしまった気がするんだ。


 白いあの美しい貝殻がなんという名前か、調べる方法自体が誤っていたとは思わない。

 なのに、調べ探す方向が間違っていればなんの役にも立たない。

 あの貝殻は、あの浜辺の漂着物は、俺と結花の結末の象徴だったのだろう。


 白く、脆く、美しい。

 俺たちの関係そのものだ。

 そして、すべてが終わって取り返しがつかなくなってから、真実がわかるってことまでも。



 心の表面上、この穴を埋めることがができていたとしても、ふとしたことでこの穴は血を吹く。

 埋められない喪失感が、このままゆっくりと俺の心のバランスを崩していくのかもしれない。



 俺の喪失感は、母親から結花が他県に就職すると聞いて決定的なものになった。



 俺、気がつけば、アイスコーヒーを飲めなくなっていた。

 氷とコーヒーの組み合わせは、あのカフェで俺から去る結花の後ろ姿とセットだ。

 それだけじゃない。

 俺の人生はすでにもう、氷を入れ、テーブルに運ばれてしまったアイスコーヒーなのだという思考ループから逃れられない。

 冷たさとコーヒーの残骸は残っているけど、あとはぬるくなるだけ。そして、さらに薄くなっていくだけ。そして、腑抜けたような不快な苦味のリカバリは効かない。


 どこまでも残酷に平穏。エントロピーは静かに増していくだけだ。

 それがアイスコーヒーが示す未来なんだ。



あとがき

次話、完結です。

昨日、貝の写真を入れ忘れてしまいました。ごめんなさい。

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