第108話『返報』
一歩目で彼女の姿は霞んで見える程に加速し、二歩目には影としか認識できなくなり、三歩目には彼女の両腕の気の光が描く軌跡が線となって見えるのみとなった。
「……前よりも、疾いな……」
彼女の速度を見て、思わず呟く。
気の量が増えた訳では無く、心臓の躰篭によって増加した出力を効率よく使いこなせるようになったのだろう。
スーパーボールのように壁や天井を跳ねて加速しきった彼女が、傭兵の一人へと方向を転換する。
「……ぁばッ」
彼女の拳に収束された気の残滓が衝撃で火花のように散って、部屋の中で打ち上げ花火が爆発したかのように錯覚する。
火花に紛れて、傭兵の脳漿が飛び散り、その飛沫の一滴が頬にかかる。
彼女は加速した勢いを殺す事なく、雷のように直角に曲がりながら剣士と傭兵の間を抜けていった。
彼女が通り過ぎた後には、頭部を失った死体が膝から崩れ落ちる。
五秒もかからず彼らを処理し終えた後、目を見開いたリグハルドはただ呆然としていた。
「こんな……ことが……」
音も無く、
彼は引き攣った笑いを浮かべながら、腰に佩びた剣の柄に手を伸ばした。
「……あって良いはずが無いィ!!」
彼は、拳に拘っている場合では無いと判断したのだろう。
熟練した滑らかさで【剣気】を流しながら、剣を抜き放つ。
ミグレイ・ブレイドほどではないが、かなりの力量を感じる。
「ハアアァッ!!」
リグハルドが叫び声を上げながら、棒立ちの
「……は?」
リグハルドの剣に対して裏拳を真正面からぶつけ、剣の刃を破砕したのだ。
手元から数センチまで短くなった剣の柄を、彼は戸惑ったように見下ろす。
「どうした。まだ来ないのか」
彼女は白々しい問いかけをすると、ゆっくりと首を傾げる。
「こんな、暴力に任せたやり方はっ!認められないぞ。正義では無いっ!!」
柄だけとなった剣をリグハルドは振るって悲鳴を上げるように叫んだ。
正義は時に人を傷つける剣と呼ばれるが、刃のない剣を振るう彼の姿は寄る辺を失ったように頼りなく見えた。
「……拳で殴ることを、おまえは正義と呼んでいるのだろう?」
「ッッ、そんな訳が無いだろうっ!」
当然のように否定するリグハルドを、
「なら……わたしは悪でいい」
彼の言葉を端的に切り捨てると、地面に片膝を着く位に姿勢を低くする。
クラウチングスタートを思い浮かべる程に前傾し、背骨から尻尾までが一直線に伸びる。
その脹脛が強く張り詰め、地面を掴んだ爪がさらに深くまで食い込んだ。
顔を上げた彼女と視線が合ったリグハルドの足は、自然と出口の方を向いていた。
「待つんだっ……」
「祈れ」
銀の弾丸が無慈悲に打ち出された。
◆◆◆◆
「ちっ」
竜人娘は汚れた指先を振って、手の甲に絡み付いた血を振り落とす。
部屋の惨状の割に彼女自身の汚れが少ないのは、破裂して飛び散る血液よりも速く彼女が移動していたからだろう。
彼女の背後の壁には直径1メートルほどの穴が出来ており、その下には胸から上が弾け飛んだ死体が転がっていた。
装備を回収するのは無理そうだ。
俺は壁に背中を預けて座らせたウェンの容態を確認する。
出血は酷いが、それぞれの傷はそれ程深くないのは幸いだ。意識が朦朧としながらも気を纏う状態は維持しているので、回復は早いだろう。
「特別な処置は要らなそうだ。このまま、街の外まで運ぶよ」
「……そうか」
彼女が怒っていたのはウェンが傷付けられたせいだと思っていたのだが、ウェンの容体には興味が無いのだろうか。
俺が袋に荷物を纏めていると、拠点の外に気配を感じる。
やがて、壁に出来た穴を通ってエンが現れた。
彼女は膨らんだ袋を背負っており、一人であっても脱出ができるように準備を整えていたようだった。
「ウェンは無事かしら?」
「無事ではないけど、大丈夫だよ。……エンは無事なようで良かったよ」
遠回しに彼女だけで逃げたことを非難する。
「えぇ、私は侵入者に気付いて直ぐに逃げたから」
彼女は当然のようにそう答えた。
「一緒にウェンも連れて行ってくれれば、もっと良かったけどね」
思わず、非難がましい言葉を吐いた。
「ウェンが逃げたがらなかったんだから、仕方ないでしょう?」
「それは……仕方ないか」
やはり、ここに残ったのはウェンの意思か。
剣士や傭兵達は戦闘能力には秀でているようだったが、隠密能力に関しては訓練を受けた者には及ばないものだった。
ウェンであれば逃げようと思えば逃げきれただろう。
拠点を失って、逸れてしまうことを恐れての行動だと俺は思っている。
「良いよ……代わりに、ウェンを運んでくれ」
「……分かったわ」
森の中ではエンの仕事は少ない。
お荷物を任せるのは妥当な判断だろう。
エンは荷物の入った袋をずらすと、壁に寄りかかったウェンの体をグイと持ち上げて背負った。
怪我人の扱いが少し雑な彼女に物申したいところだったが、俺が運ぶ羽目になりそうなのが嫌だったので、気にしないことにした。
「ネチネチさん。蟲がかなり近くまで広がっているみたいです」
デイズの荷物は小さめだった。袋が揺れると、その中から金属が擦れる音がするので、その大部分は武器だろうと予想する。
彼女の報告を聞きながら、彼女の声から枯れた感じが消えているのに気付いた。
俺はエンの入ってきた穴から街の中を覗くと、目に見える位置の建物の壁面にハエトリグモのように蟹モドキがへばり付いていた。
この街を茶碗のように囲んでいる障壁の地下部分には小さな穴が空いていた。
そのままでは小さな蟲が一匹ずつしか入って来れないので、
ただ、その時には『どの程度の大きさまで』とは指定して無かった気がする。
「レンゲ……地下の穴はどのくらいまで大きくした?」
「……一番大きな巣穴くらいだ」
彼女が質問に答えたその直後に、地響きが鳴り始めた。
そうして、地面の揺れがピークに達した時、街の中の建物の一つが地面に飲み込まれるのが見えた。
出来上がった瓦礫の山が膨らみ、赤みがかった巨大なロブスター擬きが現れた。
予想以上に蟲の広がりが早かったのは穴が大きかったせいか。
急いだ方が良いな。
「……準備は終わったね、それじゃあ直ぐにでも出よう……っ」
声を掛けた直後に、ズキリと胸が痛んだ。
心臓をグッと握りしめられたような心地になり、息が詰まるが、直ぐに痛みは消えた。
近くで俺を見ていたデイズが異変に気付いて、眉を寄せる。
「どうかしましたか?」
「しゃっくりが出ただけだよ……大丈夫」
「そうですか。なら、良かったです」
言葉通りに受け取った彼女は、そのまま俺の背後に控えた。
この痛みは、ヴェルデの心臓のせいだろうか。若干の不安に駆られ、安易に心臓を食べなければ良かったと後悔する。
大丈夫だ。大丈夫の筈だ。
そう、自己暗示をかけて、拠点から出た。
街の中は阿鼻叫喚だった。
「どけぇっ、このっ!」
「ソドム!返事をして!ソドム!」
「……」
人を押し退けて逃げようとする者や、逸れた子供の名前を叫んでいる母親らしき人物、人の群れに踏みつけられて物言わぬ屍となった者が寿司詰めの状態で存在していた。
俺達は身体能力を活かして、建物の上を跳んで街の門への最短経路を進んで行く。中には俺達と同じように建物の上を走る剣士や、屋上で籠城する街人などが居たが、特に怪しまれる事は無かった。
そして、門の前の通りに辿り着くが、やはりそこも群衆が混雑している状態だった。
門を出て直ぐ横には聖剣機関が蟲の洞穴の前に建てた防衛施設が存在するので、彼らは一気に蟲の密度が上がった街から出てそこに匿ってもらおうとしているらしい。
しかし、上から見れば分かるが、そちらの穴の方からも蟲は溢れ出している。
門を開いても彼らは安全では無いという事だ。寧ろ穴に近づく分危険は増す。
それを知っている門番達はその事を叫びながら必死に街人を押し留めるが、群衆の圧力を前に身動きが出来なくなる。
やがて暴徒と成り果てた街人が、街壁の中に潜り込んでしばらくすると、ゆっくり門が開き始めた。
それに気付いた街人たちが、競うようにその隙間から街の外へと走り出した。
俺達もその中に混じって街の外へと出る。
「ヒィ、蟲だ!引き返せ!」
「おいっ、やめろ、押すな!!」
「だめ!こっちはだめよ!!」
外に出て直ぐ、街人達は前方からやってくる蟲の群れを見つけて慌てて引き返そうとするものの、その事実を知らない後方の街人が彼らを押し出して進む。
人と蟲との衝突に巻き込まれないように、俺達は街を出てから直ぐに横に逸れた。
そうして俺達はグルリと街壁の周りを半周して、街道の一つに入った。
異変が始まったのは、それから数時間後の事だった。
「……ぅ……はぁ……っ」
胸の痛み、そして呼吸をしても酸素が吸収できないような感覚に襲われた。
初めは我慢して何食わぬ顔を貼り付けていたが、次第に息が荒くなり、遂には地面に顔から倒れた。
「ネチネチさんっ!」
「コクヨウ!?」
直ぐ後ろを歩いていたデイズとエンがいきなり倒れた俺に驚きの声を上げた。
俺は心臓を抑えるように服の上から握り締める。
末端から寒気が上がって来て、意識が朦朧として来た。
「……」
二人が戸惑いと驚きを見せている後ろで、眉も動かさずに俺を見下ろしている
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第108話『返報』
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