第97話『遥か深淵を羨む』
「……シィッ」
数十の蟲を対象に影を放つが、タイミングよく飛んで影の棘をすり抜けた鉤爪バッタが、間合いに入って来たので岩で叩き潰す。
死に際に暴れたせいで、掌に血液が付着した。
「……ちっ」
地面には足の踏み場も無いほどに血が付着して、満足に地面に立つことも出来ない。
【猿歩】によって天井に立ったままの姿勢で戦い続けている。
剣士達のように武器や防具を保護する気術を使えれば良かったのだが、今ここでその練習を始めても失敗した時が怖い。
一呼吸すれば新たな増援が洞穴の奥から補給される。流石にこれだけ殺せば周囲の蟲は居なくなりそうなものだが、もしかすると洞穴は凄まじく深いのかもしれない。
気がかなりの勢いで減って、俺の中に焦りが湧き上がる。
節約してなるべく消費の少ない影の棘しか使っては居ないが、それでも数が数だった。
良い加減に俺の方も、この場に止まっていては蟲から逃れることは出来ないと学習した。かと言ってここ以外に俺の知る横穴は存在しない。
実は先ほどの剣士の来た方向に従って、洞穴を出ることはできる。
しかし、そちらには聖剣機関の剣士が居る。
それも、蟲が群れで襲いかかってもびくともしない質と量の剣士が控えていることだろう。
「剣士と蟲をぶつけるか」
途中までは俺の隠密能力は蟲にも通じていた。
今見つかっているのは戦闘の中心に俺がいるからだ。
「ギュチィ」
十数匹の蟲を一息に串刺しにする。
蟲の生命力は前世の虫と変わらないくらいにある。
例え頭部を刺し貫いても、肉体を動かす神経は生きているようで、変わらず跳ねたり飛んできたりする。
なので、同時に胸の部分にある神経の節を貫く必要があるのだが、そんな繊細なコントロールを気を持たない相手にするのは難しく、狙いを外した蟲が距離を詰めてくる。
「……っ」
取りこぼした一体、足の生えた卵のような形をした蟲がその卵の部分から、噴火させるような勢いで透明な液体を噴き出す。
明らかに食らっては不味い液体を避けて後退すると、岩を溶かす。
血液よりも強い酸だ。側にあった蟲の死骸も溶けている。
「厄介な……」
撤退を決めた俺は全力で【迅気】を纏い、蟲に背中を向ける。
「……はぁっ」
背中を向けた俺に鉤爪バッタが飛びついてこようとするが、それらも置き去りにする速度で走り出す。
そうして、洞穴の奥の方を向いた。
その瞬間。
コマ落ちの映像のように人影が現れた。
「……っ!!!」
まず抱いたのは、驚き。
今の俺は【迅気】を全力で纏っている。
にも関わらず俺の知覚さえすり抜けて現れるということは尋常では無い速度だった。
「少し上に来てみれば……随分と活きの良い子供だ」
しゃがれた老人のような声。
そして、その全容を目にした時、俺は息を呑んだ。
老人がユラリと指を振ると、その場にいた蟲が消え失せた。
さっきまで聞こえて来た、蟲の騒がしさが失せて、代わりに耳が痛いくらいの静寂が残った。
何をしたのか、分からない。
「近頃は仙気さえも感じ取れない子供が多いと思っていたものだが……ふむ……▼,●"$?[=◆◆」
「え?」
前世でもこの世界でも聞いたことのない言語に戸惑いの声を上げると、老人はこともなげに言い放った。
「少し、蟲を退かせただけよ」
老人の言った通り、影の躰篭の範囲からは蟲が減っていく。
「……余計だったか」
「……いえ……ありがとう、ございます」
言葉からして、これは老人の心遣いなのだろうと思いお礼の言葉を述べた。
しかし、内心では恐怖で震えだしそうで仕方が無かった。
老人からは、感情も気もその一切を感じることが出来なかった。
まるで蟲を相手にしているような感覚だ。
何も感じないのに、その姿を見ているだけで無意識はこれ以上ないほどに警鐘を鳴らしている。
「▼.^×←●▼……ふぅむ……その仙術はどこで習ったのだ?」
老人は顔の前に持って来た指をクネクネと動かしながら、尋ねて来る。
術と名のついていることから、おそらくは気術のことだろうと思った。
「……里、と呼んでいますが細かい場所は分かりません。それと、習う時にはこの技術のことを『気術』と教えられました」
「気術……そちらの系統か……ならば力のことは『気』と呼んでいるか?」
「はい」
「しかし……子供の体にある
老人はシワだらけの指先で俺の胸を指さした。
「
「+↑●?◯◆なのだが……どうだ、●α→←か?」
また、老人が巻き戻しの音声のような単語を口ずさみながら何かをすると、暗闇の中にポウと青い光が灯った。
光が灯ったのは肩の辺りと、胸の辺り。
老人の問いかけには曖昧に頷いた。
「……原始的な『隷属』か……■■■■、腕を上げろ」
腕の辺りを見た老人が何かを言うと、俺の両手が勝手に上がった。
「……肩に刻まれたその文字を読める者は、子供に言うことを聞かせることが出来る」
肩に何かを刻まれたと言えば、一つしか思い至らない。
『洗礼』の儀式だ。
おそらく老人の言う肩に刻まれた文字、というのが真名の正体だろう。
これが、組織が使徒を制御する装置か。
アンリが絶望していたのも分かる気がする。
これが刻まれている限り、俺達は逃げることもままならない。
「……その、これを取ることは出来ませんか?」
「出来るが、削り合いになる……100年は使う。それにγ↓&$も」
悩む様子から、好き好んでしたいものでは無いらしい。
それよりも、なぜか『100年は使う』という言い回しが耳に残った。
「……やっぱり、自分で解決します」
「そうか……そうだな、それがいい……
うんうん、と老人は頷いてから、眉間を掻こうと指先を額のあたりに持って来て、空を切る。
「……あぁ、道理で頭が回らない訳だ」
老人はそこでやっと、自分の頭の上半分が無いことに気づいたようだった。
鼻の半ば辺りから上が無かった。
老人は眼球も無いのに俺を見つけて、脳も無いのに会話している。
人智の及ばぬ何かを前にして、俺はずっと正気を保つのに必死だった。
「……後で良いか」
老人は頭の上で悩ましく指を動かしていたが、諦めたように下ろした。
そのまま会話を続けるつもりのようだ。
「それにしても……面白い
老人がまた指を動かすと、影を奪われた。
言葉で表すならば自分の肉体を、自分以上に優先度の高い何かによって無理矢理に動かされる感覚だった。
俺が影の躰篭を動かそうとしても、影はびくともしない。
老人の動かし方は俺の時とは違って機械的な軌道だった。
「うぅむ」
唸りながら頬を掻くと、剥がれかけのシールのように肌が捲れる。
血は流れない。
「……私では直感的に動かせないか……おかしな精神構造だ……?&●うか?」
眼球の無い老人の視線がこちらを向いて、肌が粟立つ。
気付けば、影ごと俺の体を固定されていた。
目の前の存在からは濃い死の気配だけを感じる。
老人の体がブクブクと膨らんで、道を埋め尽くすほどまで大きくなる。
このままでは……食われる。
そのまま俺に覆いかぶさろうとして、急に動きを停止する。
「……ケプ」
何かを吐き出すと、肉の塊から白い棒が次々に飛び出て甲高い音が洞穴を埋め尽くす。
その中の一つが俺の頭に当たり、軽い痛みと共に俺は尻餅を着いた。
同時に俺の体は金縛りが解けたように自由になる。
「あぁ……1000年は喰ったばかりだ……忘れていた」
気付けば老人は人型の姿に戻っていた。
もちろん頭部の上半分は無くなったままだ。
俺は尻餅を着いたまま、茫然と老人を見上げる。
「β$)◯+{……また、十年後に此処に来るんだ」
青色の光が老人の指先に灯り、それを俺の額へと当てる。
気を纏っているが、まるで空気で岩を押しているような微動だにしない手応えが返ってくる。
一つ次元の高い力だということは理解できた。これが真気というものだろうか。
そのまま数秒経っても何も起きない。
老人は思い出したように呟く。
「……
指がムカデの足のように気持ち悪く自在に動き、そして止まる。
そこで初めて気付いたが、指の付き方が所々おかしい。
ウネウネと動かされる指が突然、停止する。
「……疲れた」
途端に俺への興味を失ったように、だらりと腕を垂らした。
「>>#%」
最後に何かを唱えたかと思ったら、意識の隙間を縫うように、唐突にその姿は無くなっている。
「……消え、た」
言葉にしてやっと、自分が無事であることを理解した。
「……っ、ぉえ」
途端に安心感と嫌悪感から胃の中身を吐き出す。
老人が肉塊の化け物となった時、確かに俺を食らおうとしていた。
そうして老人が口走った言葉、
『1000年は喰った』
俺の周囲に転がる十数人分の死体が、老人の行動の意味を示唆する。
「……化け物」
思わずそう呟かずには居られなかった。
アレは、人間の寿命を食らって生き永らえている。
きっと浅層へ上がって人を食らうことは、アレにとって食事と何ら変わりは無いのだ。
「何千年……何万年生きているんだ」
あの老人は、ずっと地下に籠り、寿命が減ればこうして地表近くで人間を喰らい、そして寿命を補給する生活を繰り返しているのだろう。
洞穴の最奥に棲むのは、蟲ではなく人の形をした化け物なのだろうか。
逆にあの老人が蟲を生み出したと言われても疑いはしない。
それほどに理解の外にあった。
「……悍ましい」
あの肉塊のような姿。
形だけは人間でありながら、中身は怪異そのもののような在り方。
俺を目の前にしても油断できる、超常の力。
冒涜的な生物に、本能的な恐怖と嫌悪を抱いた。
「あぁ……本当に」
「ずるい」
同時に、その永遠の命に、俺は猛烈な羨望を抱いた。
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第97話『遥か深淵を羨む』
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