第88話『何方も地獄』
上から押さえつけている俺に向けるフィルスの視線は酷く昏いものだった。
「お前らこそ、誰だよ」
彼は首元に突き付けられたナイフが見えていないかのように自然体だった。
「……君はただ俺の質問に答えれば良いんだよ」
「あっそ。じゃあさっさと聞けよ、ほら」
両腕を地面に投げ出した彼は、寝転ぶように脱力する。
最早俺の手に握られているものが木の棒であるような気がしてきた。
彼は隠すことなど何も無いとばかりに両方の掌をこちらに向け、俺を煽る。
その時に正面からのフィルスの顔が目に入った。
彼の耳は少しだけ尖っていた。
人族というには明らかに長く、妖精種を名乗るには足りない中途半端な長さだった。
首元には鱗のように硬くなった皮膚が見えた。注意して見なければ
他にも彼の身体には所々に異なる種族の特徴が見えた。
だが眼球の躰篭で観察して見たところ、彼の身体には妖精種が共通して持つ気の量の多さが感じられなかった。
それどころか獣人としての膂力も感じられず、抑えつけた彼の骨張った肉体からは弱々しい抵抗だけが返ってきた。
血は混ざれば強くなるという訳では無いようだ。
もしかすると、俺も純血の蛇人族や花精族と比べて劣っている部分があるのかもしれない。
彼の種族に対する疑問は後に回し、
「フィルスは何をしていたのかな?あそこで」
「なにって、蟲の血を集めてんだよ」
ほら、とフィルスは自身の首からぶら下がったチェーンの先を指で差す。
チェーンの先を手繰ると、彼の懐から前世の健康ドリンクと同じ大きさの瓶が出て来た。
その中では少量の緑色の液体が揺れている。
彼の言葉から『蟲の血』というのが〈虫〉が持っている酸の血液と同じだと確信する。
だとすれば、この瓶が溶けてしまうことは無いのだろうかと疑問が浮かぶ。
ひとまず彼があそこに居た理由は掴めた。
フィルス自身に〈虫〉……蟲を仕留める実力があるとは思えない。
恐らく死骸から血液を採取して回っているのだろう。
「聞きたいことはそんだけか?……もう良いだろ」
フィルスはチラチラと洞窟の奥に視線を向ける。
彼の態度を訝しんで耳を澄ませると、甲殻の擦れあう音が届いてくる。
なるほど。
「ナイフよりも蟲が怖いんだね?」
「……ナイフは人を喰わないだろ」
ナイフを突き付けても彼の余裕が崩れなかったのは達観からではなく無知によるものだと判明した。
「そもそも、フィルスはどうやって帰るつもりなのかな?」
こちらが聞きたいのは彼がそもそも『どこに』帰っているかだが、あえてその狙いをぼかして問う。
フィルスは俺の顔と蟲が迫る方向の間で視線を行き来させた後に小さく溜息を吐いた。
「街の中から続く横穴があるんだよ」
そうして、岩の影に隠れた小さな穴を顎で差す。子供でもギリギリ通れる程度の幅しか無いその穴は、彼にとっての命綱なのだろう。
それを教える事は彼にとって生命線が脅かされるに等しい。彼の口元は悔しげに歪んでいた。
だが、そんなことはどうでもいい。
俺にとって重要だったのは、この横穴が街の外や近くではなく、街の中へと続いているということだ。
門を通さずに入れる街が近くにあるという事実は、風向きがこちらへと向かって来ている証拠だった。
「ありがとうフィルス。お礼にその瓶を満杯にしてあげるよ」
「良いの?」
近くの岩陰に隠れていたエンが確かめるように聞いてきた。
彼女の質問は『自分達の存在を知られても良いのか?』という意味だろう。
「大丈夫だよ」
フィルスにはこれから俺たちを利用して貰う事にする。
「お、おい。オニグモが来て……離せよっ」
「まぁ、見てなよ」
かなり大きめの蟹サソリが走ってくる。
彼は蟲とは反対方向に首を向けて逃げようとするが、俺はその首を強引に蟲の方に振り向かせる。
肩を押さえつけている膝から、彼の心臓が強く拍動しているのを感じる。
きっと、これまで彼が何度も見た死に際の光景を想像しているのだろう。
現れた蟹サソリは4匹居た。
エンは、その場で軽く飛び跳ねると、天井に着地する。その足元には気が巡っている。
そのまま下を通る蟹サソリに向かって二つの杭を投げると、蟹サソリ達の背中を貫いて地面に縫い付ける。
追加でもう一本投げて3匹目を仕留めるが、最後の1匹のために杭を求めて懐に伸ばした手は空を切った。
エンが助けを求めるように視線を向けて来たので、俺が持っていた杭の一つを投げ渡して、最後の1匹を仕留めた。
彼は瞬きを忘れて、その光景を見ていた。
俺は静かに、フィルスの拘束を解く。
のそりと身体を回して上半身を起こした彼は地面に着地したエンを見上げる。
「……なんで」
フィルスの中に浮かんだのは、純粋な疑問。
エンが一息に殺せる蟲も、彼にとっては必死になって逃げる相手だった。
なぜ、こうも違うのか。
彼の中に黒い感情が湧き上がるのが手に取るように分かる。
「フィルス。俺たちは街のこと、よく分からないんだ。だから君に色々教えて欲しいんだ」
ナイフを突きつけたことを棚に上げて、下手に出る。
「……あ、あぁ。良いよ、教えてやるよ」
攻撃して来た俺に対しての警戒は有るのだろうが、暗い感情が判断力を鈍らせる。
嫉妬の混じった瞳をこちらに向けながら、フィルスは得意げに口角を上げた。
俺も嬉しそうに笑って見せた。
◆◆◆◆
暗い横穴の中、フィルスを追いかけるように這いずって進む。
時折飛び出した突起に服を引っ掛けるが、仙器化していたお陰で破けることは無い。
仙器化もしていないフィルスの服が大きく破けていないのは、彼がこの道を行くのに慣れているからだろう。身体能力は大して無いのに、彼が進む速度はかなり速い。
フィルスについて横穴に入ったのは俺一人だけだった。
まず竜人娘は種族も珍しく怪しまれるし、性格に至っては論外だ。
デイズは男性を恐怖するだけならただの足手纏いだが、振り切ると何をするか分からない怖さがある。
ウェンは諜報向きだが、かなり目立つ容姿をしている。蟲に囲まれた街の治安を信用できない。
後はエンだが、彼女は俺が居ない間、俺の代わりに指揮をして貰う事にした。
それに複数人で行こうとした時、フィルスが僅かに嫌がるような顔を見せた。
その時の反応と、蟲の血液でも溶けない瓶の存在。
横穴の先に何があるのか、想像は付いた。
それにしても横穴は窮屈だ。
こんな時には蛇の性質が混じった人間では無く、完全な蛇だったら良かったと思ってしまう。
「……もうそろそろだ」
横穴は段々と上方向に変わっていき、縦穴の呼称の方が似合う角度になった。
それ以上に気になったのは、これまでの経路の中で幾つかの分かれ道が存在した事だった。
もしもフィルスに置いていかれたならば俺は崩落の恐怖に耐えながら、この暗い迷路の中を彷徨うことになるかもしれない。
もちろん、ここまでの経路は把握しているので、もしも彼の姿を見失ったならば、大人しく元来た道を引き返すだろう。
フィルスの肩越しに光が届いて来た。
本当にもう少しで横穴の出口にたどり着くようだ。
さらに近づくと、穴の上に蓋がされているのが見えた。
届いた光は蓋の隙間から溢れたもののようだ。
蓋の手前まで近付いて来たフィルスは瓶を岩に軽くぶつけて鳴らすと叫ぶような声で向こうにいる誰かに知らせる。
「おい!俺だ、帰ったぞ!」
「……開けろぉ」
蓋の向こうには結構な人数の気配があった。
向こうから聞こえた声はかなり低い。
ゆっくりと開いた蓋の向こうへと、フィルスがその身を滑り込ませる。
俺が彼に習って穴から上半身を出す。
気配と声から察していた通り、出口を囲うように数人の大人が立っていた。
そして、その全員がこちらに槍を向けていた。
正面の男は俺の首元に視線をやった。
「ど」
俺が口を開いて何かを言うよりも先に、男は槍の石突きを振り上げた。
避ける事はできる。が、それはしない。
俺が制御下に置ける存在であると安心させなければならないからだ。
「あぐっ」
気術を使わず、身のこなしだけで衝撃を吸収する。
そのまま頭や背中を何度か殴られる。
額から血が流れる。
「瓶は絶対に無くすなって、言っていたよな?」
やはり、フィルスが持っていた瓶は特殊なものだったようだ。
ここに居る大人は子供に瓶を持たせて、蟲の血液を集めるために横穴に潜り込ませているのだろう。
彼らにとって瓶の価値が高いだろう事は想像が付いた。
おそらく、俺は瓶を落としたと勘違いされている。
地面に蹲る俺を見て、フィルスが瞳を三日月に歪める。
そうして、今更思い出したように言った。
「そいつ、新人だよ……へぶっ」
「先に言えよ……殴っちまうだろ」
フィルスの歯が飛んだ。
それでもフィルスの顔から暗い喜びが消える事は無い。そうまでして他人を不幸にしたいものかと呆れた。
おそらく彼にとって大人の持つ暴力はそれだけ絶対的なのだろう。
だから俺にこの状況を覆せる力があるなんて思わない。
男は苛立った表情で血に汚れた拳を見下ろす。
「あー、お前のせいで、手が汚れただろう、が!!」
「ウグッ」
俺の横腹に男の足先がめり込んだ。他の大人たちは無関心にこちらを眺め、大人に踏みにじられているフィルスはこちらを見て溜飲を下げている。
……なるほど。
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第88話『何方も地獄』
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