第82話『黒𠷡』
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「おまえ、弱いなぁ」
「君が強すぎるんだよ」
黒髪の少女はナイフを片手に、少年に向かって自慢げに笑ってみせた。
「そんな風に言ってる間は使徒になるなんて夢のまた夢、だからな?」
少女は揶揄うように笑って人差し指で少年の頬を突いた。
彼女はリリー。人族種以外の能力比較のために集められた357期の中でトップの成績を誇る使徒候補だった。
少女の成績は圧倒的と言うほどではなく、時折順位が入れ替わる事はあるが、彼女が一位である期間が最も長かった。
少年はそんな彼女が態々自分に絡んでくる事に煩わしさを覚えていたが、同房だった時からの腐れ縁で彼女の訓練に付き合わされていた。
「もうそろそろ『里外任務』だろ?オレは選ばれるだろうけどぉ、ラットは無理だな」
少女が笑うと、その頭にある花が揺れる。
ラット、とは少年のあだ名だ。鼠のようにいつもこそこそして様子を伺う彼のことを周囲の少年が揶揄して付けたものだ。
寮の卒業間近の彼らの世代は、やっとのことで『里外任務』へと選ばれることとなった。この頃は今よりも亜人の排斥の風潮が強かった。
「どっちでも良いよ。でも、僕は外に出るのは怖いなぁ」
「おい、ばか。本当はオレと一緒に行ってみたいくせに」
グイと少年を引っ張って少女が強引に肩を組んでくる。
少年は鬱陶しそうな表情を作りながらも拒むことはしない。
少女の方も彼が受け入れてくれると知って、こうやっていつも揶揄ってくるのだ。
「なー、どっちー?一緒に来たいのー?来たくないのー?」
「……君なら分かるだろ。花精族なんだから」
「んー?どうだろうな?分からないな?」
分かっているくせに少女は曖昧に首を傾げた。
顔を近づけてきた少女に、心を掻き乱された少年は赤くなった顔を背けた。
感情を隠す訓練はしている。怒りや不安などのマイナスの感情を消すのは簡単だが、喜びや楽しさなどのプラスの感情を隠すのは中々できない。
自分の心を見透かされて、それでいて受け入れるような態度を取る彼女にどう接したら良いのか、彼にはあまりにも難しい問題だった。
しかしそうやって悩むことさえ、彼にとってはささやかな楽しみだった。
それがラット……儡蛇の懐かしい記憶だ。
結局、その後の『里外任務』にはリリーとラットの両方が選ばれた。
任務の内容はとある街の商人の暗殺。
彼らは別の商会の丁稚として働きながら暗殺の機会を伺った。
警備はそれほど厳重ではなく、生活のリズムも複雑なものでは無い。
簡単な任務だった。
唯一の誤算は味方である商会、その長が味方だろうと食い散らかす豚であったことだ。
ラットは簡単な任務であるにも関わらず、暗い顔を見せるリリーを不思議に思っていた。
昔の彼は今ほど他人の顔色を伺うのが得意では無かった。
作戦の実行が迫ったある日。彼はマリウス・ラビンソンの部屋へと呼ばれた。
「ここ、であっているのかな」
屋敷の中、他とは異質な空気を放つ扉の前で、尻込みする。
嗅いだことのない臭いを感じて顔を顰めながら、扉を開ける。
「失礼します」
重い扉を、ゆっくりと。
「——え?」
扉の隙間から、聞いたことのある声で、聞いたことの無い悲鳴が届いた。
その奥にあった光景はよく、覚えていない。
◆◆◆◆
任務は成功した。
代わりに、リリーはラットに触れることすらできなくなった。
時折、夜になると狂ったように泣き叫ぶ彼女を慰めることさえ、ラットはできなかった。
当然、ロクに眠れもしない状況では良い成績など残せるはずもなく、リリーの実力はどんどんと落ちていった。
さらに不幸なことがあるとすれば、彼女の中に新しい命が宿ってしまったことだろう。
それが発覚したその日の内に、彼女は寮を追い出された。
この里において子供のできた女が行く先は『房』だった。
そこで彼女は子供を育て、子供を産むだけの一生を送ることになる。当然、彼女のトラウマなど考慮される筈も無い。
彼女の小さくなった後ろ姿がラットの脳裏に焼き付いた。
ラットは彼女が去って一ヶ月の間、眠ることが出来なかった。
心の何処かに穴が空いたように、怒りも喜びも直ぐに萎んでしまう。かと思えば思い出したように無性に何かを壊したい気持ちになって暴れる。
そんな不安定な状態が続き、彼の無意識がそれを危険と判断したのだろう。
ある日起きたら、ラットはリリーのことを綺麗に忘れていた。
——空いた穴は代わりに生存への渇望で埋まった。
それからは、淡々と力を鍛え、技を磨く日々だった。
生活の全てを鍛錬に注いだ彼は少しずつ順位を上げていき、最後には使徒として選ばれることとなった。
彼はその時、儡蛇となった。
そのことに対する誉れは無い。
ただ、必要だと思ったから使徒となっただけだった。
そして、淡々と任務を熟す。
ナイフで殺し、針で殺し、毒で殺し、必要だったら人を使って殺す。息を吸うように人を殺した。
組織から逃げることは思い浮かばなかった。
逃げられないことは無い。
しかし、失敗すれば死ぬ。
それよりも任務に失敗して死ぬ確率の方がずっと低かったからだ。
里へと戻った時、ふと『房』に行こうと彼は思い立った。
『房』の女は子供を産み育てるためだけにある。
使徒やその他の男に体を求められればそれを拒否することは出来ない。
里の男はここを無料の風俗のような感覚で利用していた。
儡蛇もそこは変わらない。適当な女を捕まえて、適当に欲求を処理して終わりだ。
彼は行き交う房女を壁に背を預けながら吟味する。
偶々黒髪の女が目についた。
彼はなんとなく後ろ姿が気に入ってその女を部屋へと連れ込んだ。
行為のために用意された部屋へと、入ると女はいそいそと服を脱ぎ始める。ライダはそれをベッドに座ったまま眺める。
そして彼の目の前で裸になると、その足元に跪いて足の甲を両手で持ち上げて唇を落とす。
「し、使徒さま。私めの体を使って精一杯ご奉仕させて頂きます」
そう言って、媚びるように女が笑う。
彼女の頭に花弁を毟られた百合の花があるのが見えた。
その瞬間、彼の頭の中で、強く封じ込められていた記憶が開く。
「リ、リー?」
「……え」
女はゆっくりと目を見開く。
しかし反応が薄い。
「僕だよ、ラット」
「……はい、おぼ、覚えています」
ラットへと戻った彼は、女の硬い態度を煩わしく思った。
「リリー。ラットって呼んでくれよ、昔みたいに」
「……ぁ、う……あ」
今の言葉を誰かに聞かれていないかと、視線をあちこちへとやりながら戸惑うような表情を浮かべるリリー。
そして、彼女は裸のまま地面に頭を下げた。
「も、申し訳ありません!使徒様にそのような恐れ多いことは……申し訳ありません……どうか、お許しを……」
彼女はその身を縮こまらせて、ひたすらに許しを請う。
そこで、彼はやっと彼女がもうどこにも居ない事を悟った。
彼よりも強くて、いつも不敵に笑って、彼を揶揄っていたリリーはもう死んでしまったのだと、理解した。
どうしようもなく虚しい気分を紛らわすように、女を激しく抱いた。
忌まわしい記憶が消えるように、もう二度と彼女の事を思い出さないで済むように。
弱いラットはもう要らない。
再び、彼は儡蛇へと戻った筈だった。
女の足首には強く巻き付いた鱗の跡が赤く残っていた。
その数ヶ月後、彼女への未練を断ち切った彼は同じ房へと向かっていた。長期の任務に従事していたので、随分と欲求が溜まっていたのだ。
そうして、いつものように房女の吟味を始めると、黒髪の女が目に入った。
視線が引き寄せられたのに気づいて、彼は逸らそうとするが、彼女の腹部が膨らんでいるのに気付いた。
そして、彼の視線に気付いた女が、こちらを見て媚びたように笑った。
その瞬間に気持ちの萎えた彼は、背を向けてその区画を出て行った。
◆◆◆◆
それから数年経ったある時、里の内部で師範の募集があった。
しかも人族以外に限定したものだった。
不思議に思って詳細を調べると、どうやら彼の時と同じく人族以外の能力を確かめることが目的らしい。
彼は任務に出るリスクと比較して、圧倒的にこちらの方が安全に生きることができると判断した。
師範には簡単になることができた。
既に年齢は30を超えていたから、上層部から止められることも無かった。
そうして子供達の『洗礼』に取り掛かる。
一箇所に子供を集めてそこから一人ずつ連れてきて、『洗礼』を行い自省部屋で教化を施していく。
この世代の子供たちは中々、素質に恵まれたものが多いらしく、抵抗する時の力が強く思いの外驚かされる。
その中には部屋を破壊するような抵抗を見せる子供もいた。
流石にこれには彼も驚きを隠せなかった。
そうして残り半分といったところで、ライダと同じ蛇人族の子供が連れられて来た。
不安そうに周囲を見つめる少年の顔には酷く見覚えがあった。
後に資料を見ると、母体は花精族だった。
この場所では親子関係に意味は無い。ライダは任務が与えられれば表情一つ変えずに彼を殺せるだろう。
しかし、この数奇な巡り合わせにライダは小さく溜息を吐いた。
◆◆◆◆
「くそー、折角のパレードなのに俺達は女神様じゃなくて仏様を見ることになるなんてな」
「仕方がない。火事の後処理よりはマシだろう?」
「だけどなー」
二人の男が口を言いながら、商人の屋敷に転がる遺体を検分していく。
この屋敷はラビンソン商会の長であるマリウス・ラビンソンの家だ。
昨晩に聖剣機関の支部長の息子が拐われ、それを追った支部長がこの家で殺された。
その制圧の際に偶々街に訪れていた剣聖の手によって、屋敷の人間は殆どが一太刀の下に断ち切られていた。
「見ろよー、これ。死んだことにも気付いていないだろ」
「……っおえ、やめろ。持ち上げるな」
半分になった頭部を突きつけられた青髪の男はその残酷な有様に思わず嘔吐く。
「アハハ」
「お前、正気か」
「いやー、多分これ明日は起きれないな」
「なら、もうやめとく……ぉえ」
青髪の男は我慢し切れなかったらしく、屋敷の窓に駆け寄ると胃の中身を放出した。
「アハハ、お前何年この仕事やってると思ってるんだよー」
良い加減慣れろよー、と相方を笑いながら茶髪の男は屋敷の中を進む。
「まったくー、うん?」
彼は屋敷の中でも一際厳重な扉を見つける。
様子が変わったのを察した青髪の男は、口元を抑えながら廊下から顔を出した。
「何かあったか?必要なら下にいる奴らも呼ぶが……なんだこれは?」
屋敷の中では異質な重々しい鉄の扉。
その中央には鍵穴が見える。
これほど大きな屋敷の持ち主だ。
何らかの倒錯的な趣味を持っていたとしても彼らは驚かない。
しかし、その中を見たいかと問われると首を振る。
「なー、どうする?」
「入るしかないだろ」
そして、二人はドアを開けると、その両側から部屋の中を覗き込んだ。
「うわー、やばいな?」
「ぉ、うぇ」
青髪の男は窓の方へと走って、もう一度胃液を吐き出した。
口元を袖で拭った男が戻ってくる。
「おーい、大丈夫か?」
「もう、何も出てこないから大丈夫だ」
それは果たして大丈夫なのかと、茶髪の男は首を傾げるが、大丈夫と言うならば検分に取り掛かるしかない。
二人は血溜まりの中に苦悶の表情を浮かべて転がる遺体を見下ろす。
「顔の特徴からしてマリウス・ラビンソンか」
「だなー。手足が切られてんな……ん?」
茶髪の男は地面に転がっている手足を見て首を傾げる。
「どうした?」
「なー、これさ、色がおかしくないか?」
確かによく見れば、指先から炭のように黒ずんでいる。
「ちょっと待て……」
青髪の男は手に持った棒で、落ちた腕を突いた。
「……毒、だな。前に同じものを見たことがあるな」
「ほー?」
「体内に入った部分から黒ずんでいき、肉を腐らせる。そして、末端への投与ならば非致死性だ」
「死なないならさー、何のために使うんだ?」
「拷問だ。神経を酸で溶かされるような痛みがあるらしい」
「なるほどなー」
茶髪の男はノコギリが地面に固定してあるのを確認すると、この遺体がどうやって出来たか整理する。
「手足に毒を入れられたから、あんまりにも痛くて自分でその部位を切り取って失血死、かなー」
「相当の恨みを買っていたんだろうな」
痛みはあるが死なない毒と、自らの腕を切り落とすような誘導は、かなり残虐な物に映った。
見れば、死体はノコギリと扉の中間の位置にある。
腕を切り落とした後で、外へ出るために扉へ向かって這いずったのだろう。
しかし扉を開ける腕は既に切り落としている。
きっと男は絶望しながら息絶えたに違いない。
「特に問題ないなー。よーし、運び出すぞー」
「……正気か?」
呑気に言い放った茶髪の男の横顔を、青髪の男は睨み付けた。
「よっこらせー、っと」
「おい、乱暴に持ち上げるな」
愚痴を吐きながら、でっぷりと肥えた商人の遺体を運び出す。
手足がないにも関わらず、並の成人よりも重みがある。
「うおっと」
「大丈夫か?」
頭の方を抱える茶髪の男が何かに引っかかる。
こちらは商人のものとは異なり、首の無い死体だった。
加えて、その服も黒ずくめであり、ローブの裏側を捲ると多くの武器が隠されていることから、昨晩の事件に大きく関わっていることが分かった。
「まー、そっち先に運ぶか」
「……その方が楽だな」
二人の男は商人の死体を置いた。
首の無い遺体の懐を弄って、暗器を取り出して体を軽くする。
ズボンのポケットを裏返すと、ヒラリと何かが落ちた。
「なんだこれ。紫色の花、か」
黒に見えるほど濃い紫色の花弁が一枚落ちた。
「使徒も花を買ったりするんだなー」
「そうだな……」
青髪の男は花弁の事をすぐに忘れて作業に戻った。
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第82話『
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