第46話『薫る』
それはある日の夜のこと。
——ガアア”アアア”アア”ア”ァ——
「あ」
部屋の中で、俺が一人鼠に躰篭化を施していると、腹に響くような振動が伝わってくる。
集中が途切れてしまった事で、手元にあった鼠が小さく鳴いた後、その身体が崩れ落ちる。後に残ったのは潰れた肉の塊だ。
俺は指先に残った鼠の血を拭い落とすと、視線を上げた。
肌がビリビリとするような、それでいて聞き覚えのあるこの声は間違いなく竜人娘のもの。
何があったのだろうかと、ドアを開いて廊下を覗いたが、俺と同じことを考えた子供達がドアを開いているせいで扉に遮られて廊下の先がよく見えない。
距離からして、おそらく寮の中心あたりで事件は起こったのだろう。
俺は部屋から出ると、棟を接続する中心の塔へと向かった。
一階には他の棟から様子を見に出て来た子供達の姿が見える。
改めて彼らを見てみると、俺達以外の期の子供達は人族の割合が極端に多い。獣人種や精霊種、あるいは魔人種に見える種族の子供も時折存在してはいるようだが、全て集めて俺達と同数ぐらいだ。
そんな珍しい存在である俺達は、この寮では頻繁に視線を向けられる。シスター達の目があるためか、絡んでくる事は無いがそれでも不快ではあった。
「一階には居ないか」
探していた竜人娘の姿はそこには無く、俺は中央を走る螺旋階段へと足を進めた。
登って二階にも、彼女は居ない。
さらに登って三階。そこにも見覚えのある尻尾は無い。
「なら四階か。高い所にでも行きたかったのか?」
何かと煙は高いところが好き、と言うが彼女は『そちら側』だったようだ。
そんな風に、彼女には面と向かって言えないことを考えながら、四階に辿り着いたがそこに彼女の姿は無かった。
「……これは」
代わりにあったのは、僅かな血痕と、壁に空いた穴。その直径は目測では約2メートルはあるだろう。俺が掌を上にあげたままでも素通りできる程の大きさがある。
穴の先は外の景色が見える。今は夜なので見通す事は出来ないが、昼であっても寮の周りはそれよりも高い建物によって遮られているので里の全景を見る事はどちらにせよ出来ない。
この穴は咆哮によって出来た物だろう。
俺は夜の冷えた風が流れ込む穴から、下を覗き込むと下には崩れた部分の石レンガがあった。
その中心にはボロボロになった少年が這いずっていた。
身長から見たところ十四、五歳位はありそうに見えるが、ここにいる子供達は十二歳までだ。おそらく彼は早熟なのだろう。
この高さから落ちても死なないのは訓練の賜物だろう。
彼女はそれも込みで彼をここから叩き落としたのか。
状況から察するに上の階に興味を持って塔を登った彼女に、彼が絡んだのだろう。彼女は師範コンジの態度からして、他の種族よりも希少らしいからな。彼らもそれで興味を持ったのかもしれない。
それでキレた彼女は、彼に咆哮を浴びせた後に突き落としたのだろう。
彼は瀕死だが五体満足。里の治療があれば明日からでも訓練を続けれられるだろう。
俺は彼女を探すように気の探知を広げる。
すると、寮の下の方に大きな気が止まっているのが分かった。
彼女はこの穴から下に降りて、丁度俺と入れ替わりで一階に戻ったようだ。
気の探知を切ろうとして、妙な場所に反応があるのに気づいた。
俺は再び壁に空いた穴から顔を覗かせると、そのまま塔の外側の石壁へと指を引っ掛けて、外に出る。
落ちたら大怪我だが、仮にもここでの訓練を受けている俺ならば、垂直の壁を上る程度は登山の範疇だ。
両手に気を集めて握力を強化すると、指先に全身の体重を乗せながらゆっくりと登る。
指を入れる隙間が足りなければ、懐に入れていた細い木の枝を仙器化してから差し込んで足場にする。通り過ぎた部分の足場は尻尾で引き抜いて回収する。帰る時のことは考えていないが、最悪この高さから生身で地面に着地すれば良い。
身体能力だけでこの高さまで飛び上がることは出来ないないが、降りる方なら壁との摩擦で減速すれば着地できるだろう。
きっと、塔の上にいる先客ならば簡単に降りる方法も知っているだろう。
頂上の縁に手を掛けた俺はヌルリと這い上がった。
塔の頂上は人が居るための作りをしていないようで、柵も囲いも無く、ただまっさらな石畳の円が広がるだけだった。
先客の少女は、円の縁に腰掛けたまま、こちらを興味深そうに見ている。茶髪にそれよりも少し暗い色の瞳は、前世に街中で見ても見逃してしまいそうな位に、俺には自然に見えた。
「あは」
少女は俺を見てケラケラと笑った。
悪意は感じない、ただ純粋な『楽』の感情が見える。
しかし、俺は彼女の顔に違和感を覚えた。
年齢は見たところ俺よりも二つか三つ上、十歳位だろうか。
プラプラと足を揺らすと、粗末な貫頭衣がフワリと上がって彼女のほっそりとした肢体が覗く。
「新入りだねー、ようこそー」
随分と軽い挨拶に俺は少し面食らう。
「あんれれ?返事が聞こえないぞー。もしかして、君はボクにしか見えない幽霊なのかなー。えい」
少女は遠慮なく俺の脇腹に掴みかかって、わさわさと指を動かす。
「……っ、離してくれ」
擽ったさを感じで手首を握って引き剥がす。
引き剥がす瞬間、彼女の手首からノイズを感じる。
俺の制止に抵抗することなく、彼女は手を引いて、またニコー、と気の抜けたような笑みを浮かべた。
「あはー、やっぱり本物だー。君、まだ1期目だよね?どうやって登って来たの?」
「四階に穴が空いてたから、そこから登って来たよ」
「?……ほんとにー?」
疑うように言った彼女の纏う空気が変わったと思ったら、薄い気が俺の体を通過していくのを感じた。反発すら感じないほどの僅かな量の気。
「……ほんとだねー」
思案するような顔をしていた彼女は、直ぐに納得がいったようにだらしの無い笑顔を浮かべた。
俺がまだ知らない技術だ。これだけで彼女との会話を続ける理由にはなる。
「そんな顔しなくても、こんなの、直ぐに教えてもらえるよー」
「教えて欲しそうな顔、してたかな?」
「してたしてた!こーんな、こわい顔。アハハハハ」
精一杯顔を歪めて見せると、何が面白かったのか自分で笑う。
俺はそんな彼女の様子をじっと見ていた。
「だってー、君も
「
彼女の言う『
「『カカカ』って笑う師範だよ?」
「あぁ……あの」
「ボクたちはねー、全部の訓練をセンセイに教えて貰ってるんだー」
あは、ともう一度笑いを漏らした彼女は手元にあった草の茎を弄んだ。ペン回しのようにクルクルと掌の上で回してから、膝の隣に置く。
『特殊訓練』の師範は彼女達の期の担任のような事をしているらしい。そうなるとコンジや蛇人族の師範も他の期の子供達を指導していたりするのか。
「それよりもー、ねぇ?」
「……何かな?」
彼女の視線は俺の背中の方に向いていた。
おそらく今の俺は硬い表情を浮かべているだろう。
「シッポ、触っていーい?」
「なんで?」
掌をこちらに向けてニギニギと指を曲げて見せる彼女に、俺はごく自然な質問を返した。
「獣人のシッポ、前から触って見たいと思ってたんだー?外じゃ触らせってくれる獣人いないからさー。……だめ?」
「そんな理由で…………外?」
どこの外か、などと言う疑問を挟む余地は無い。
「もちろん、里の外、だよー」
「へぇ。外ってどんな感じなのか聞いてもいい?」
直球で聞いてしまったことで、俺が里の外に興味があることに気づかれてしまった。
交渉において、自身の欲しい物を悟られるのは最も愚かな失態だ。
足元を見られて値段を吊り上げられることになる。
「うーん」
コテリと首を傾ける少女。
「あは」
そして、何かを思いついたように笑う。
今度は悪戯っぽい笑みだ。
「ねぇ……シッポ、触らせてくれたら。その間だけ、教えてあげてもー……いいよ?」
彼女は体ごとこちらに向き直ると、今度は両手をこちらに向けてニギニギと手を握って見せる。
「ふむ……分かったよ」
尻尾を俺と彼女の間に持ってくると、彼女は好奇心に満ちた笑みを浮かべた。
「やった!今からー、ボクちんのウルテクでー、君のえっちなシッポ、トロットロのアッヘアヘにしてやる!」
そう言ってペロリと唇を舐める。
こいつ、里の外で何を見て来たんだ……。
◆◆◆◆
その後、普通に尻尾を撫でられた俺は、塔の頂上から四階に出来た穴へと降りていった。
彼女はそのまま頂上に留まった。どうやらまだ夜風に当たるつもりらしい。
『ボクは夜はいつもここにいるからねー』
話が聞きたかったらここに来い、という事だろう。
ちなみに彼女の『尻尾撫で』の評価は、やはり人族の素人だな、といったところ。おそらく、体毛の生えた犬などの獣人の尻尾は撫で慣れているが俺のような爬虫類系の種族の尻尾を撫でたことはなさそうだ。
少なくとも彼女の言っていた『トロットロのアッヘアへ』とやらには遠く足りない。
四階に出来た穴から石の床へと降り立つと、さっきまでのような浮ついた雰囲気は鎮まっていた。ここでは壁に穴ができる程度のことは、珍しいものでは無いらしい。
音を立てないように部屋に戻ると、既に瞑想を終えて眠りに就く前の彼女の姿があった。
腕を枕にして眠ろうとしていた彼女は、鼻をひくつかせて表情を歪めると、不快そうに目を開けてから佇む俺を見て、ただ一言。
「くさい」
そうして、水桶の方を指差して。
「においが取れるまでもどってくるな」
それだけ言うと、また目を閉じてゴロリと寝返りを打つ。
俺は桶を持ち上げると、一人寂しく水場へと歩いた。
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第46話『薫る』
よく笑う娘って可愛いよね。
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