第42話『与え合う』
「ぁ、ぅ」
モンクに絡むようになってから約二ヶ月が経った頃、深い眠りに入っていた俺は、押し殺すような呻き声によって目覚めた。
小窓から月の光が入っているから、まだ時間は深夜か。
天井を見上げる姿勢から、ゴロリと寝返りを打って横を見れば、彼女の尻尾が苦しげに波打っている。
「!?」
起き上がって繭のように彼女を取り巻く尻尾の先を見れば、うなされたように悲痛な表情を浮かべる竜人娘の姿があった。
俺が驚いたのは彼女の頭部に赤い液体が見えたことだ。
俺は横になっている彼女の頭を持ち上げて傷口を見ると、額よりも少し上から血が出ていることが分かった。
朝の支度のために用意してあった水桶を側まで持ってきて、弱目に絞った手拭いで傷口の周囲を拭き取ると、出血の原因が判明した。
額の所から三角の棘のような形状の何かが突き出ている。
竜人、という彼女の種族を改めて思い出した。
「……これは角、か?」
竜人の生態は分からないが、体内から皮膚を突き破られるのはさぞ痛いだろう。何度か絞り直した手拭いを当てると、少しだけ苦痛に歪んだ顔が少しだけ和らいだ気がする。
乾いて彼女の額から取り上げた手拭いは、蒸したように熱くなっていた。おそらく、熱も出ているのだろう。
傷口は右の側頭部だけに見つかったが、もしかするとと思い頭の逆側を優しく触ってみれば、皮膚の下に尖ったものが盛り上がっているのが分かった。
「う、ぅ」
痛みに強い彼女がここまで苦しむ、ということは外傷とはまた違った苦痛があるのだろう。
幸いな事に蛇である俺がそれを知ることは無い。
もう一度、手拭いを絞って当てる。
絞り方が甘かったせいか、彼女の頭を乗せている俺の太ももまで水が滴った。
乱れて口元に掛かった一房の髪を小指で払いのける。
まだ季節は冬であるにも関わらず、彼女の額には汗が玉となっている。
俺は濁った水桶を持って、静かに部屋を出た。
◆◆◆◆
次の日の朝。
ドアが閉まる音ともに俺の意識は覚醒した。
「くぁ」
顔がしっとりと濡れているのを疑問に思って下を見ると、枕にしていた右手に濡れた手拭いが握られていた。
どの時点で寝てしまったのかは分からないが、水を取り替えて戻って来た所までは覚えている。
手拭いが捻れていることから、絞った後に寝落ちしてしまったのだろう。
「寒っ」
冬の朝特有の凛とした空気が身体を包んだ。
加えて、変な体勢で寝た事で、体の節々が痛い。今日の俺は絶不調といったところだ。モゾモゾと支度を整えた俺は部屋を出た。
食堂に着いたところで、隅の一角に少女が多く集まっているのに気付いた。
竜人娘と自称彼女の妹達だ。
俺が片っ端から当たり屋のように喧嘩を売って回ったことで数の減った妹派閥。そこに残るメンバーは俺から徹底的に逃げたものか、暴力に屈しない筋金入りの者だけになった。
よく血走った目の少女達が輪を成して何やら語り合っているのを見るようになった。
そんな彼女達は初めは竜人娘との距離を測り損ねて吐瀉物を撒き散らす事になったが、見る分には攻撃される事はないと気付いてからは、こうやって間近から堂々と観察する者が現れるようになった。
中心にいる彼女を見れば、特に気にする様子もなく、パンを手に取って齧りとっていた。
昨晩の事が気になった俺は、彼女の頭に目をやる。
血はあれから出ていないようで、彼女の銀の髪は日の光を損なう事なく反射している。
その下に隠れているであろう角は外からはまだ見えない。
流石に一晩では目で見てわかるほどには成長しないようだ。
俺は彼女から少し遠くの机に腰掛けて、朝食を取る。
寒さでより硬くなったパンをスープで柔らかくしていると、斜めの位置にある椅子にどかりとトラが座った。
「おい、ネチネチ。そこは俺達の場所だ。どっか行けよ」
歯を剥き出しにして威嚇するように言った。
「……うん」
パンを一口飲み込んだ俺は、彼の命令を素直に聞くことにした。
スープとパンを乗せて立ち上がると、その場を去ろうとする。
「おっと」
わざわざ立ち上がって俺の後ろにやってきた少年が肩で俺を押してくる。
それだけではスープは溢れることはなかったが、強引に手首を掴まれて下に引っ張られ、皿が手の上から落ちて地面にその中身をぶちまけた。
勿体無い。
俺は尻尾でぶつかってきた少年の席にあったスープの皿を持ってくると、それを一息に飲んだ。
「な」
「ごちそうさま」
「おまえ、自分より弱い奴ばっかに喧嘩売って……楽しいかよ?」
空になった皿を押し付けて、席から離れようとするとトラから声がかかる。
多分トラの派閥の中に潜む隠れ竜人娘派閥から何か言われたのだろう。『生存訓練』以来彼はよく人を率いている場面を見ることがあったからな。
一丁前にリーダーのフリをしているらしい。
「何言われたか知らないけど、売ったんじゃなくて買ったんだよ」
とりあえず嘘を吐いておく。本当はただ同然で押し売りしている。
「……夕食の後、運動場に来い」
「……」
トラは俺の背中に向かってそう投げかけた。
◆◆◆◆
夕食の後、俺は部屋に居た。
これまでは毎日モンクと戦うために運動場に通っていたが、今日はなんとなく休もうと朝起きた瞬間から思っていたのだ。トラと戦うのが怖いわけでは無い。
モシャモシャ
俺はしばらく摂取することがなかった毒草を口に入れている。
モンクと戦うと、どうしても気絶するまで終わらないので、こうやって部屋で毒草を食むことは減っていた。代わりに木筒に入れて持ち運ぶようになったのだが、量は以前よりも減った。
『走破訓練』のときには蛇人族の師範が盛った毒が効いてしまったので、現在は内臓に作用するタイプの毒草を摂取している。
時折血を吐くことはあるが、今のところは生きているので問題は無い。
モシャモシャ
お陰である程度師範の盛った毒については検討がついていた。
俺としては毒耐性そのものよりも、正体の分からない毒を食らっている、という不安が解消される恩恵が大きい。
ペンは剣より強いが、盾にもなるということだろう。
「……」
チラリと横を見れば、竜人娘が瞑想をしている。
部屋の中には彼女の放つ【迅気】が充満しており、俺が少しでも気を活性化させればその瞬間に反発力で吹き飛ぶことになるだろう。
現在の俺はそうならないように、気を完全にゼロに抑えている。
『特殊訓練』で新しく習った技術に【抑気】というものがある。
これは肉体から放つ気を抑えるというもので、俺が【放気】よりも先に習得していた技術だ。
そういえば蛇人族の師範がそんなことを言っていた気がする。
毒草を飲み込みながら、【迅気】の流れを眺めていると、その密度が僅かに偏るのが分かった。
すぐにその歪みは大きくなり、彼女の制御を離れて霧散していった。
「……ッチ」
どうやら、大変気が立っているようだ。
胡座を解いて、部屋から出ていく。
モシャモシャ
彼女が居なくなったので遠慮なく毒草を喰む。
部屋の中に咀嚼音が虚しく響く。
「……」
ふと、顎の動きを止めて、彼女が先ほどまで座っていた場所を見た。
床に一滴、血が滴っている。おそらく、もう片方の角が皮膚を突き破ったのだろう。
「はぁ」
俺は、誰にも見られないようにコッソリと廊下に出た。
彼女を見つけるのはそれほど苦労はしなかった。
戦闘においては影すら踏ませない彼女だが、気配や痕跡を隠すのは苦手だ。というよりも好きじゃないのだろう。
技術としては知っているので隠れているのを見つけるのは一応できるが、実践あってこそ身に付くこの分野は唯一俺が彼女に勝っていると言えるものだろう。
桶に水を貯めるのに使っている水場で彼女は頭を洗い流していた。
流れ落ちた水が薄い赤色に染まっていた。
俺は手拭いを二枚水場の縁に置いてから、言い訳のように手を洗うと、手拭いを一枚だけ取って水を拭った。
その間にも彼女は桶に掬った水をもう一度、頭に被った。
「……」
俺は水気の無くなった掌を、何度も拭き取り続ける。
「……なにがしたい」
「手拭いは、そこのを使えば良い」
俺は別に取った桶に水を注ぎながら言った。
敢えて彼女の問いには答えない。その答えを俺も持っていなかったからだ。
金色の瞳がこちらに向いた。
「お前は……ッ」
何かを口に出そうとした竜人娘の体がその場にへたり込む。
慌てて彼女の手首を掴むと、そこから明らかに正常では無い体温が伝わってくる。
「熱い」
この熱で水を浴びればさらに体調を崩すに決まっている。
俺が彼女を背負おうとすると、突き飛ばされる。
俺は頭から水場の壁に頭を衝突して、血が額を滴る。
弱っていても、力は有り余っているらしい。
「やめろ……ばかにするな」
「していない」
眩暈を起こしているのか、瞳孔が時折痙攣したように左右に震える。
にも関わらず、彼女は自身で立ち上がって、壁を頼りに進み出す。
しかし、再び平衡感覚を失って前に倒れ込みそうになったところを支える。
「はなせ!」
「ぐ、ぅ」
彼女が抵抗で突き出した拳がまともに腹部に当たり、胃液を戻しそうになる。
本当は調子が悪いフリをしているんじゃ無いだろうか。
俺は酸っぱい唾液を無理やり飲み込んだ。
そしてふらつく彼女の腰を引き寄せて、首の背後に彼女の腕を回してから彼女を持ち上げた。いわゆる肩を貸している状態だ。
「きこえないのか!」
「……っ、聞こえている」
耳元での彼女の怒声はかなり響く。俺は眉をしかめてから静かに答える。
「なら、はなせっ!」
「無理だ」
彼女が助けを求めたならば俺は見捨てることができた。傲慢は砕かれたのだと笑うことができた。でも、彼女の意思は折れていない。震えながらも光を失わないその瞳が、俺を駆り立ててしまう。
「お前が悪いっ」
出たのは自分勝手な言葉だった。
「俺に弱さを見せた、お前が悪い」
また、気持ちの悪い激情が抑えられなくなる。
「お前は弱くては駄目なんだ」
これは押し付けだ。俺のエゴだ。
「強くないと駄目だ。許せない」
許せない、とは何様のつもりだろう、この男は。
「でも弱さを認めないのも無理だ。ありえない。誰よりも我儘で自分勝手で傲慢で、それでいて誰よりも強くないといけない。絶対に。それがお前だ」
「……ッチ」
……結局、俺が彼女の弱さを許容出来ないだけの話なのだ。
「イ”っっっ"!!!」
「またわたしに、『お前』と言ったな!」
俺を呆れたように見た竜人娘は万力のような握力で俺の肩を握り潰そうとしてくる。
低い声色で捲し立てたかと思うと、その力が急に抜ける。
また眩暈が来たのかと思えば、彼女は俺の耳元に口を寄せてきた。
「……お前をばっしてやる。早くへやにつれて行け」
囁く声からは、幾らか力が抜けているように見えた。
「……んっ」
絞った手拭いを額に置く。
その冷たさに竜人娘から声が漏れる。
部屋に戻った途端、取り繕う余裕もなく地面に崩れ落ちた彼女を俺は布団に寝かせた所だった。
少しだけ乱れた髪を指で梳くと、高くなった体温が指先から伝わってくる。滑らかな感触が抵抗なく指の間を流れていく。
「……?」
こんなことをすれば、いつもなら泣くまで鳩尾を殴られるだろうが、今の彼女は朦朧としているようで俺が何をしたのかも気づいていない。弱っている彼女に付け込むように、もう一度柔らかな髪の中に指を入れてから、耳の後ろに髪をかける。
「……さむい」
手拭いを絞り直そうとして彼女に身を寄せた時に、そんな言葉を漏らす。
どうしようかと思案していると、ヒヤリとした感触が脚に触れる。
見下ろすと、彼女の太い尻尾がヤドリギのように俺の足へと巻き付いて来た。
俺が見ている間も尻尾はゆっくりと体の上を侵略し、足首まで降りる頃には逃れられないほど深く絡みついてしまっていた。
これは……罰にしては随分と温いな。
俺は手拭いを諦めると、彼女の尻尾に体重がかからないようにゆっくりと身を横たえる。
一人でさえ狭い布団に二人で収まる筈もなく、俺の片方の足は冷たい地面に触れたままだった。動きを止めると、途端に彼女の荒い呼吸だけが部屋に響くようになった。
初めは無機質な冷たさを放っていた尻尾も段々と内側から生物的な体温が伝わってくる。その暖かさに誘われるように俺は巻きつく尻尾へと手を伸ばす。
ペタリと触れると、やはり冷たい感触。
しかしその下には熱い脈動を感じる。その熱を辿るように指先を根元へと滑らせていく。そうすると、尻尾の中を通る太い血管の上に触れたのか、どくどく、どくどくと強く脈を打っているのが分かる。
大きな川の流れを直ぐそばで眺めているような、不思議な感覚。
彼女の強い生命力を感じて、俺は一時、死を忘れて安らいだ。
尾の背中側にたてがみのように生えている銀の毛が、時折指の甲に触れる。
「……ぁ……ふ……」
掌を乗せたまま、指先で鱗の表面をゆっくりと撫でていると、目の前の彼女は小さく声を漏らす。力の抜けた無防備な声に、後ろめたいものを感じた俺は、尻尾に触れていた手を離して置き場所を探すように宙を彷徨う。結局、諦めたように自分の背中の後ろに掌を置いた。
「……ん」
ゆっくりと瞼が開いて、幻想的な金の瞳が俺を捉える。
やましい気持ちを見抜かれないように敢えて視線を逸らさずにいると、しばらく彼女と見つめ合うことになる。
俺を見ているようで見ていない瞳が、痙攣したように一度揺れる。
「……さむい」
再び、同じことを言う彼女。
なんとなく、今度は彼女が何を求めているのか分かった気がした。
俺は自身の尻尾をゆっくりと彼女の方に差し出す。
彼女は俺の方をぼぅ、と見つめたまま受け入れるように掌で尻尾の先を撫でる。俺の尻尾は彼女の手首を登っていき、ヤドリギのように彼女の腕へと巻き付いた。
直ぐに、彼女に触れる部分から溶けてしまいそうな程の熱が伝わってくる。
「……ス……ゥ……」
彼女の顔へ意識を向ければ、既に瞼を閉じて深い眠りに入っていた。
「……」
これまでにない程に無防備な彼女の喉元に手を伸ばした。
指先に小さな鱗の滑らかな感触が返ってくる。
俺は彼女をどうしたいのか、一体どうなって欲しいのか。
俺は彼女に苦痛を与えたいと思っている。殺したい程の激情を抱いている。
これ以上ない苦難を与え、押し潰される様を見たいと思っている。彼女が幸せになるのを許せないし、だからこそ彼女の自尊心を満たすかもしれない竜人娘派閥の子供たちへと喧嘩を売って回った。
……喧嘩を売る相手はトラの派閥でも良かったにも関わらず、だ。
しかし同時に彼女が折れる様を見たくは無いと思っている。
いや、違う。正しくは折れるという可能性を考えていないのだ。
歪な思考だ。壊したいと思い壊そうと行動しているのに、彼女が壊れる可能性を微塵も考えていない。
だからこそ、折れかけた彼女を見ると俺の情動はおかしな動きをする。
果たして俺は、この触れ難い程に強く、傲慢が故に壊れやすいこの少女をどうしたいのか。心地良い眠気に襲われた頭で考えるが結論は出ない。
今はただ、ひたすらに互いの熱を与えて、受け入れて……ただそれだけに浸っていたかった。
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第42話『与え合う』
初の6000字オーバー。二話分の分量です。
露骨に筆が乗ってしまった……後悔は無い。
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